W杯ボイコットは「正しさ」よりも、迷い続けるサッカーの問いかけだ
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「行かない」という選択肢が、ピッチの外に現れたとき

ワールドカップ2026年大会をめぐって、「ボイコット」という言葉が現実味を帯びて語られはじめている。
開催国アメリカでは、2025年にドナルド・トランプ氏が再び大統領に就任して以降、隣国カナダへの露骨な威圧や、メキシコに対する国境封鎖・強制送還の示唆など、強硬な姿勢が続いている。
その一方で、FIFAクラブワールドカップ2025は予定通り実施されたが、表彰式ではトランプ氏が主役のように振る舞い、選手よりも政治家が目立つ構図が生まれたとも語られている。
さらに、ベネズエラへの軍事介入、グリーンランドへの圧力、国内では移民当局による混乱。
そんな空気の中で、2026年のワールドカップを本当に「サッカーの祭典」として開催できるのか、多くの国や協会が揺れている。
アフリカの名将クロード・ルロワは、アフリカ諸国に対して「渡航しない」という選択肢に言及した。
ドイツ、ノルウェー、デンマークなども、一度立ち止まって考える時間が必要だと受け取れる姿勢を見せている。
この状況は、サッカーそのものへの問いでもある。
政治とスポーツをどう切り離すのか、あるいは切り離せないのか。
ピッチの中での「パスを出すか、運ぶか」といった判断とは違う次元で、「大会に参加するか、しないか」という、極端な二択が突きつけられている。
ピッチ外に現れた「判断の局面」
監督も、選手も、協会もそれぞれの立場で迷っている
フランスを例に見ると、この揺れはよく表れている。
大統領は、トランプ氏に対して「どちらにもいい顔をする」ような姿勢をとってきたが、その戦略が裏目に出て苦しい立場にあると言われる。
一方で、ワールドカップに参加するかどうかを最終的に決めるのは、政治ではなくサッカー協会だと明確に位置づけられている。
協会のトップであるフィリップ・ディアロは、この問題について明確な態度表明を避けている。
おそらく、その裏ではさまざまな計算がある。
FIFAとの関係、スポンサー、サポーターの反応、代表チームの競技的な計画。
どれか一つを選べば、必ずどこかとぶつかる。
そしてピッチ上のリーダーであるディディエ・デシャンは、これまでも政治的な議論を代表チームから遠ざけてきた指揮官だと言われる。
彼が「スポーツと政治は別」と考え、「ボイコット」という言葉自体を自分のプロジェクトから排除したいと感じていても、不思議ではない。
監督にも、監督なりの正直な葛藤がある。
4年間、あるいはそれ以上かけて積み上げてきたチーム作りを、「政治の都合」で壊されたくないという気持ちもあるかもしれない。
では、選手たちはどうだろうか。
政治的な意識が強く、トランプ政権の姿勢に強く反発する選手がいたとして、その選手は「25人の予備登録メンバーに入りません」と言えるだろうか。
年齢は20代前半から30代前半。
サッカー選手としての時間は長くない。
人生で一度あるかどうかのワールドカップを、自分から手放すという選択。
それは「勇気があるかないか」だけで語れるような軽い話ではない。
かつて1978年、軍事独裁政権下のアルゼンチンで行われたワールドカップに、フランス代表として参加したドミニク・ロシュトーのように、内心は強く抵抗を感じながらも「行く」ことを選び、現地で自分なりのメッセージを発しようとした選手もいた。
彼の姿は、単純な「正しさ」では語れない。
行かないことで示せることもあるし、行くことでできることもある。
そのどちらもが、重い選択だ。
| 判断レベル | 失うもの | 得られるもの | 現実的難度 |
|---|---|---|---|
| 国・政府 | FIFAとの関係・資金 | 国際的な政治メッセージ | ◎非常に高い |
| サッカー協会 | FIFA立場・スポンサー収入 | クラブとしての倫理表明 | ◎高い |
| 監督 | 4年間のチーム作りの集大成 | 信念の一貫性を示せる | ○中程度 |
| 選手 | ワールドカップ出場の機会 | 個人としての価値観表明 | △選手による |
| サポーター・視聴者 | 大会を楽しむ喜び | 消費行動での意思表示 | ○比較的低い |
「ボイコット」は誰の判断なのか
この問題をさらに複雑にしているのは、「ボイコット」という言葉が、どのレベルの判断を指しているのかが曖昧なことだ。
いくつかのレイヤーがある。
- 国として大会に参加しないと決めるレベル
- サッカー協会が代表チームを派遣しないと決めるレベル
- 監督が、自分のチームとして参加を拒むレベル
- 個々の選手が、招集を断るレベル
- サポーターや視聴者が、観ない・お金を払わないと決めるレベル
どこか一つでも「ノー」と言えば、そこには確実に波紋が生まれる。
しかし、どのレベルであっても、その人たちは別のものを失うことになる。
政治家は、人気や支持を失うかもしれない。
協会は、FIFAの中での立場や資金を失うかもしれない。
監督は、自分のサッカー人生最大の目標を失うかもしれない。
選手は、キャリアの頂点に立つ機会を失うかもしれない。
サポーターは、国際大会を応援する喜びを失うかもしれない。
「スポーツと政治を分けるべきだ」という言葉は、よく聞く。
フランスのスポーツ大臣も、その論理を使っている。
それは一方で、「自分たちは政治的な責任を負わない」という宣言にもなる。
ところが、同じ政治家が、代表チームの決勝の夜にはスタジアムで選手たちと笑顔で写真を撮り、政治的なイメージアップに利用する場面もある。
スポーツと政治を分けると言いながら、都合のいい場面では重ね合わせる。
こうした矛盾も含めて、ボイコットの議論は単純ではない。
「行くか・行かないか」の前にある、もっと小さな問い

- 価値観を語り合う時間を設ける — 戦術板の前だけでなく、「なぜこのサッカーをするのか」「何のために勝ちたいのか」を選手と言葉で共有する場を年間に2〜3回設ける
- 二択を超えた問いを出す習慣をつくる — 「攻めるか守るか」だけでなく「何を優先して、何を手放すのか」という複合的な問いを試合前後のミーティングで投げかけ、選手自身の判断力を鍛える
- 社会のニュースとサッカーを橋渡しする — スポーツと政治の関係やボイコット議論を題材に、ピッチ外の出来事が選手の判断力・メンタリティに与える影響を指導テーマとして扱う
もし自分が選手だったら、どう考えるだろう
ここまで読んで、「結局どっちが正しいのか」を知りたくなるかもしれない。
ただ、サッカーの現場で日々起きていることを思い出すと、この問いは少し形を変えて見えてくる。
例えば、試合中のあるワンプレー。
自分のチームがカウンターを受けている。
目の前にはボールホルダー。
後ろから走ってくる味方のセンターバック。
横には、フリーになりかけている相手のウイング。
ファウル覚悟で止めに行くか。
コースを限定するだけにして、味方の戻りを信じるか。
あるいは、ボールホルダーを捨てて、フリーになりそうな相手に先回りするか。
どれを選んでも、「必ず正しい」答えはない。
それでも、その瞬間に、自分の価値観やチームとしての約束事、相手の特徴、自分の体力やポジションまで含めて判断する。
ワールドカップのボイコットも、スケールはまったく違うが、似た構図がある。
もし、自分が代表クラスの選手だったらどうだろう。
- 自分のキャリア
- 家族や仲間の期待
- 自分が大切にしたい社会的な価値観
- 協会や監督との関係
- 将来の契約やイメージ
これらすべてを抱えたまま、「行くか・行かないか」を決めなければならない。
周囲の大人から、「政治のことは考えなくていい」「お前はサッカーだけしていればいい」と言われるかもしれない。
逆に、「社会問題に目を向けろ」「沈黙は肯定と同じだ」と責められるかもしれない。
そのどちらの声にも揺れながら、「自分はどうしたいのか」を探す作業が始まる。
このとき、すぐに答えを出せる選手の方が少ないはずだ。
試合の中なら、0.5秒以内に決めないといけないこともある。
だが、人生や価値観に関わる選択は、そんなに早く決められない。
むしろ、迷っていい。
悩んで当たり前だ。
- 迷うことを恥じない — W杯ボイコット問題のように、キャリア・価値観・仲間への影響が絡む大きな選択は、すぐに答えが出なくて当然。まず「自分は何を大切にしたいか」を書き出してみる
- ピッチ内の判断力をピッチ外にも活かす — 試合中の「ファウル覚悟で止めるか、コースを限定するか」という瞬間と同じ構造が人生の選択にもある。ピッチで鍛えた決断力は、人生の場面でも使える
- 大人に「一緒に考えよう」と声をかける — 監督や保護者に「どちらが正しいですか」ではなく「一緒に考えてもらえますか」と聞く習慣が、より深い対話と自分らしい答えを生む
日本で同じことが起きたらどうだろう
ここで、日本のサッカーに引き寄せて考えてみたい。
もし、今後日本がワールドカップの共同開催国になり、そのときの政治状況や人権問題などを理由に「ボイコット」が議論されるような事態になったとしたら。
あるいは、日本代表が出場する大会の開催国に対して、強い批判が国内外から向けられ、「行くべきかどうか」が問われるような状況になったとしたら。
自分は、選手として、保護者として、指導者として、どう考えるだろう。
日本のスポーツ界では、「政治とスポーツは分けるべきだ」という言葉はとくによく聞く。
それは一面で理解できる。
子どもたちが安心してボールを追いかけられる環境を守りたい。
選手が政治的な発言で不必要に叩かれることを避けたい。
そんな思いもあるだろう。
一方で、世界のトップレベルでは、LGBTQ+の権利や人種差別、移民問題など、社会的なテーマとスポーツが交差する場面が増えている。
そこにどう向き合うかを考えずに、「関係ない」とだけ言い続けることは、本当に可能なのだろうか。
もし、自分の教え子が日本代表クラスの選手に育ち、「ボイコットするかもしれない大会」に招集されたら、その子に何と言葉をかけるだろう。
「サッカーだけ見ていればいい」と言うだろうか。
「自分でよく考えろ」とだけ突き放すだろうか。
「一緒に考えよう」と、時間をかけて対話するだろうか。
どれも、間違いだと言い切ることはできない。
ただ、そこには明らかに「選ぶ力」が求められている。
ボイコットを「正義の物差し」にしないために
歴史が教えてくれるのは、白黒ではなく「揺れ」
ワールドカップの歴史を振り返ると、ボイコットが実際に大会を大きく揺るがした例は、オリンピックに比べると多くはない。
1930年の第1回大会や1950年大会では、ヨーロッパのいくつかの協会が南米への長旅を理由に参加を見送った。
1934年、1938年のヨーロッパ開催では、アルゼンチンやウルグアイが参加を拒んだ。
そこには政治的な要素もゼロではないが、主には「スポーツ面の判断」として語られてきた。
2018年のロシア大会、2022年のカタール大会では、人権問題や開催国の姿勢を理由にボイコットの可能性が議論された。
しかし、実際にはどの強豪国も参加を取りやめることはなかった。
選手たちも、大会中に政治的な発言をすることはほとんどなかった。
なぜか。
リスクがあまりにも大きかったからだろう。
代表での立場を失うかもしれない。
クラブとの関係が悪化するかもしれない。
スポンサーが離れるかもしれない。
何より、「サッカー選手としての時間」が短いことを、彼らは痛いほど知っている。
だからといって、「発言しない選手は弱い」「行くと決めた選手は不正義だ」と言い切ることは、おそらく誰にもできない。
それぞれが、それぞれの情報量と、経験と、価値観の中で、ギリギリの判断をしている。
歴史の教科書には、「ボイコットした国」と「しなかった国」という分類だけが残るかもしれない。
だが、その裏側では、数えきれないほどの迷いと対話と衝突があったはずだ。
2026年をめぐる議論も、きっと同じだ。
「正しいかどうか」より、「どう考えたか」を見たい
ワールドカップのボイコット問題は、どうしても「賛成か反対か」の二択で語られがちだ。
しかし、サッカーを通じて見えてくるのは、その二択の前にある、無数の小さな問いだ。
- 何を優先したいのか
- 自分一人の考えと、チームや国の考えが違ったとき、どう折り合いをつけるのか
- 何をあきらめて、何だけは手放したくないのか
- 決断したあと、その選択とどう付き合っていくのか
これらは、プロの代表選手だけに突きつけられる問いではない。
クラブを移籍するかどうか。
海外に挑戦するかどうか。
進学か、プロか。
部活か、クラブチームか。
日常のサッカーの中にも、「どちらを選んでも、何かを失う」選択はたくさんある。
そのとき、周りの大人や仲間が、「どっちが正しいか」を押しつけるだけで終わるのか。
それとも、「どうしてそう思ったのか」を一緒に考え続けるのか。
2026年のボイコット議論は、遠い国の遠い話のように見えて、実は自分たちの足元にある選択の仕方を映し出しているのかもしれない。
答えを急がないサッカーのために
「行く」と決めても、「行かない」と決めても、そこから始まる
おそらく、フランスは単独でボイコットを決めることはないだろうと言われている。
周辺の強豪国が動かない限り、「普通に参加する」流れになる可能性が高い。
多くの国も同じだろう。
ボイコットが本当に大会を揺るがすレベルになるためには、ブラジル、ドイツ、スペイン、アルゼンチン、イタリアなど、タイトルを争う国々が一斉に不参加を表明する必要がある。
その現実的なハードルの高さを考えると、2026年のワールドカップは、おそらく予定通り開催されるだろう、と予想する人も多い。
けれども、今の段階で「どうせ何も変わらない」と諦めてしまうことと、「その中で自分はどうありたいか」を考え続けることの間には、大きな差がある。
ワールドカップに行くと決めるにしても、「すべてを見ないふりをして楽しむ」という態度もあれば、「開催国の現実も含めて、自分なりに向き合いながらピッチに立つ」という態度もある。
ボイコットをしないことが、必ずしも無関心を意味するわけではない。
逆に、行かないと決めることが、すべての場合で正義だとも限らない。
大切なのは、その選択がどこから生まれたのかだ。
サッカーがくれる「立ち止まる時間」
今、世界のどこかで、2026年のことを考えながらトレーニングをしている選手がいる。
同時に、その大会に参加すべきかどうかを頭の片隅で気にしながら、日々の指導にあたっているコーチがいるかもしれない。
ニュースで「ボイコット」という言葉を聞きながら、ただ純粋にワールドカップを楽しみたいだけの子どももいる。
その全員に、同じ考えを求めることはできない。
むしろ、一人ひとりが違う考えを持っていていい。
その違いを前提に、「自分ならどうするか」を静かに考えてみる。
サッカーは、ときどきそんな「立ち止まる時間」をくれる。
ピッチの上で、ワンタッチでボールをはたくか、キープして間をつくるか迷うように。
ピッチの外でも、すぐには答えが出ない問いに向き合うことがある。
2026年のワールドカップをめぐるボイコットの議論は、その一つの顔なのかもしれない。
行くか、行かないか。
どちらの決断が選ばれるとしても、その途中で生まれた問いや迷いが、サッカーの価値を少しだけ深くすることもある。
答えを急がずに、そのプロセスごと味わうこと。
それは、ゴールという結果だけでなく、そこに至るプレー一つひとつを大切にするサッカーと、どこか似ているのかもしれない。
