FIFAが「冷静でいよう」と言ったとき、何が消えたのか――ソマリア人審判の排除が問うサッカーと選択の話
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「冷静でいろ」と言えるのは、誰なのか

ワールドカップが始まる、その前日だった。
世界中のサッカーファンが、開幕戦への期待を膨らませていたちょうどそのとき、FIFAのジャンニ・インファンティノ会長があるインタビューに応じた。
話題の中心にあったのは、ソマリアのオマール・アルタン審判のことだ。
アルタンはアフリカ最優秀審判とも称される人物で、今大会への参加が決まっていた。 しかしアメリカへの入国を拒否され、結果として大会から姿を消すことになった。 アメリカ側はテロとの関連を理由として挙げたが、詳細は曖昧なままだった。
それに対してインファンティノ会長が語ったのは、こんな内容だった。
「残念なことが起きたが、我々がすべてをコントロールできるわけではない。 冷静に、落ち着いていることが大切だ。 このワールドカップで、世界をひとつにしたい。」
その言葉は、開幕前日のざわめきをなだめるように放たれた。 しかし、何かが引っかかる。
「冷静でいろ」という言葉の重さを、誰が受け取るのか
アルタン本人は、帰国後にモガディシュで英雄として迎えられたという。 それは彼の人格への敬意であり、理不尽な扱いへの無言の抗議でもあったかもしれない。
だが、英雄として迎えられることと、納得できる説明を受けることは、まったく別の話だ。
「冷静に」という言葉は、ときに正しい文脈で使われる。 感情的になって判断を誤りそうなとき、一歩引いて状況を整理するための言葉として。
しかし今回の文脈では、その言葉は少し違う方向に働いているように見える。
誰かが受けた不当な扱いに対して、「冷静でいよう」と言うとき、 その言葉は何を手放させようとしているのだろうか。
憤りを? 問いを? それとも、責任の所在を追及することを?
ピッチの外でも「選択」は続いている
サッカーというスポーツは、ピッチ上の90分だけでできているわけではない。
どの審判を選ぶか。 どの国で大会を開くか。 どんなルールのもとで選手や関係者が集まるか。
そのすべてに、判断と選択がある。
子どもたちにサッカーを教える現場でも、同じことは起きている。 「誰を試合に出すか」「誰をどのポジションに置くか」「ミスをした選手にどんな言葉をかけるか」。
一つひとつの選択が、その場にいる人たちの心に何かを残す。
アルタンの件で言えば、FIFAという組織が「選択できなかった」のか、それとも「選択しなかった」のか、外から見ているだけでは判断できない部分もある。 しかし、どちらであるにしても、「冷静でいよう」という言葉だけで幕を引こうとする姿勢は、多くの人の心に何かを残したはずだ。
「世界をひとつに」という言葉の引力と摩擦
インファンティノ会長が口にした「世界をひとつに」というフレーズは、サッカーが持つ力への信仰に基づいている。
その信仰は、決して間違っていない。
サッカーは、言葉も文化も違う人間たちが同じルールのもとで向き合える、稀有な場所だ。 ソマリアの審判がピッチに立つことで、それを見ている子どもたちの「世界」はわずかに広がる。
だからこそ、その場所を守るために何ができるかを問い続けることが、組織としての責任になるはずだった。
しかし現実には、「世界をひとつに」という言葉が、不都合な問いを覆い隠す布として機能することもある。
サッカーを愛する人間なら、この矛盾を感じずにはいられない。
選手として、指導者として、この場面をどう読むか
ピッチに立つ選手は、日々さまざまな理不尽と向き合っている。
不公平に思える判定。 努力が報われない日。 自分ではコントロールできない環境。
そのとき「冷静でいろ」という言葉は、確かに必要なこともある。 感情に飲み込まれて視野が狭まるとき、一度立ち止まることは力になる。
ただ、「冷静でいること」と「問いを手放すこと」は違う。
冷静に怒ることはできる。 冷静に問い続けることもできる。 冷静に、自分がどう行動すべきかを考えることも。
アルタンが受けた状況を自分ごととして想像してみると、 「どうすることもできなかった」という結論に着地する前に、 「何ができたか」「何を言えたか」「誰が動けたか」という問いが浮かぶ。
その問いを持ち続けることが、サッカーをただのゲームではなく、社会と地続きのものにしていく。
開幕の熱狂の裏で、静かに残るもの

ワールドカップはやがて始まった。 世界中が熱狂し、ゴールに沸き、スター選手たちの動きに目を奪われた。
アルタンの名前を覚えている人は、開幕から数日も経てば少なくなっていくかもしれない。
それは仕方のないことでもある。 祭りの中では、祭り以外のことは薄れていく。
だが、ユニフォームを着てピッチに立つ選手も、笛を手にグラウンドに向かう審判も、 スタンドからそれを見守る指導者や保護者も、 みな同じように「選択」の連続の中にいる。
「自分がその立場だったら、何を言えたか。何を選べたか。」
その問いを持ちながらサッカーを見るとき、試合の景色は少しだけ変わって見える。
誰かの「冷静でいろ」をそのまま受け取るのか、 それとも自分の言葉で問いを立て直すのか。
その選択は、ピッチの上と同じように、いつだって自分の手の中にある。
| 文脈 | 「冷静」の機能 | 誰に向けられるか | 問いとの関係 |
|---|---|---|---|
| 感情的判断ミスのリスク時 | 一歩引いて整理する | 本人への内省促し | ◎ 問いを鋭くする |
| 理不尽な扱いへの反応時 | 憤りを手放させる | 被害者・第三者へ | △ 問いを覆い隠す |
| 組織の都合がある時 | 責任追及を封じる | 外部・メディアへ | △ 問いを遠ざける |
| 指導現場でのミス後 | 冷静に次の判断へ | 選手本人へ | ○ 問いを継続させる |
| 社会課題に向き合う時 | 冷静に問い続ける | 行動者・観戦者へ | ◎ 問いと共存する |
- 「冷静に」を使う場面を分ける — 感情で判断が狂いそうなときと、正当な問いを抑える場面の違いを自分の中で区別してから選手に伝える
- 選手が感じた理不尽を「問い」として受け取る — 「落ち着け」で収束させず、「そう感じたとき、何ができると思う?」と問いに変換する場をつくる
- 「何を選べたか」を問い続けるチーム文化をつくる — 理不尽な状況の前でも次の選択を自分の手の中に戻す習慣を、練習から積み上げる
- 冷静さと問いを持つことは矛盾しない — 冷静に怒ること、冷静に「これはおかしい」と感じること、冷静に「何ができるか」を考えること、どれも立派な冷静さだ
- 試合外の「選択」もサッカーだと知っておく — 誰を審判に選ぶか・どこで大会を開くかもすべて判断と選択。そのことへの関心が、スポーツを立体的に見る力につながる
- 「その立場だったら何を言えたか」を想像する習慣をつける — 理不尽な扱いを受けた場面を自分に置き換えて考えること。その問いを持ち続けるだけで、ピッチの見え方が変わる
プロの世界に進めずにサッカーを離れることになった22歳のあの夜、誰かに「冷静でいろ」と言われていたら、自分は何を手放していただろうかと、いまも時々思う。「冷静に」という言葉が、励ましになる場合と、問いを封じる場合があることは、身をもって感じていた。
皆さんがこれまで見てきた現場が、いつも「冷静でいろ」を正しく使っていたとは限らない。ただ少しだけ思い浮かべてみてほしいのは、その言葉を聞いたとき、自分の中の何かが静かに止まったことはなかったかということだ。