6本のクロスバーが映し出した「選ぶ力」と「揺れる感情」――PGSドン・ボスコU17対スポルティング・マルコニアU17が投げかけた問い
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「6本のクロスバー」が問いかけるもの PGSドン・ボスコU17対スポルティング・マルコニアU17から考える

ボールがクロスバーを叩く音が、同じピッチに6回も響く試合がどれだけあるだろうか。
PGSドン・ボスコ対スポルティング・マルコニアのU17地域リーグ。
5本はホームのPGS、1本はマルコニア。
そしてスコアは、終盤の「物議を醸すPK」の1点だけ。
数字だけ見れば、「PGSの押し切り」「マルコニアの惜敗」というラベルを貼ってしまいそうになる。
けれど、クロスバーに当たった5本のシュート、認められなかった“ゴールラインぎりぎり”の場面、退場になった選手とベンチの思い、そして急きょGKを任されたディフェンダー・テデスコの3つのセーブ。
その一つひとつの裏側には、「どうプレーしたか」という技術だけでなく、「どう考えたか」「どう決めたか」というプロセスが、確かに存在している。
クロスバーに当たるたび、選手は何を選び直していたか
「ついてない試合」か、「選択を試されている試合」か
PGSは4-3-3。
センターバックにパスカレッタとマウロ。
中盤はアンカーのクルチョと二人のインサイドハーフ、クオモとサバティーノ。
前線は中央にセニセ、両翼にピエトラフェーザとロヴァッロ。
相手のマルコニアは3-5-2で構え、終始、組織的で粘り強い守備を続けた。
PGSは9分、40分、45分と前半だけで3度クロスバーを叩く。
後半にもCKからマウロのヘディングがバーを直撃する。
その間にマルコニアも、トゥッチーノのミドルがバーをかすめた。
ピッチにいる選手の感覚からすれば、「どうして入らないんだ」と思ってしまう展開だろう。
だからこそ問われるのは、「ついてない」と片付けるか、それとも、状況をどう捉え直すかという視点だ。
| 局面 | 選択A | 選択B | 評価 |
|---|---|---|---|
| シュートが続けてバーに当たる | 同じ狙いを続ける | コースや種類を変える | ◎状況読みが鍵 |
| 納得できない判定への対応 | 抗議して感情を表す | 切り替えて次に集中 | ○両方あり得る |
| PKを蹴る責任を誰が取るか | 指名される | 自分から名乗り出る | ◎主体性が重要 |
| 急きょGKを任される | 断る(できない) | 引き受けて前に出る | ◎引き受けが成長 |
| 数的不利での最終盤守備 | 引き切って全力守備 | カウンターを狙い続ける | △チーム状況次第 |
同じプレーを続けるか、変えるか
クロスバーに当たるシュートは、ゴールから数センチのところを通っている。
「あと少し下に叩きつける」「振り抜くのではなくコースを狙う」「逆サイドに打つ」。
観ている側なら、いくらでも言葉で修正点を挙げられる。
しかし実際にプレーしている選手の頭の中には、別の迷いも浮かんでいるかもしれない。
- 今の狙いは悪くなかったのか
- 同じ技術を信じて続けるべきか
- それとも、リスクを下げて安全な選択に切り替えるか
「同じことを続ける勇気」と「変更する勇気」は、どちらも簡単ではない。
バーに3度、4度と嫌われていく中で、シュートを打つ選手だけでなく、パスを出す選手、ビルドアップを組み立てる選手、ベンチに立つ指導者まで、全員がそれぞれの立場で決断を迫られていたはずだ。
もし自分がそのチームの一員だったら、どのタイミングで「やり方を変えよう」と言い出せるだろうか。
あるいは、「いや、絶対にこの形から点が入るから続けよう」と、チームメイトや自分に言い聞かせるだろうか。
「見えない1点」と「見える1点」 ゴールライン上で起きていたこと
- 「クロスバーに当たったあと」の言葉かけを設計する — 「惜しかった」で終わらず「次は何を変えるか」を選手自身に問わせ、修正の主体を選手に渡す習慣をつける
- PKや突発的な役割交代を「決断の練習」として位置づける — 誰がPKを蹴るか・急きょGKを任されるかなどの状況を、日頃の練習で意図的に再現し「前に出る経験」を積ませる
- 判定への感情対応を具体的なルーティンで指導する — 「落ち着け」と言うだけでなく、「不満を感じたまま次のプレーに集中するにはどうするか」を選手と事前に言語化しておく
ゴールが「なかったこと」にされた瞬間
後半23分、PGSにとっては決定的なシーンが訪れる。
ロヴァッロの連続シュートを、GKカローネとDFリッツィがなんとか掻き出した場面だ。
現場の感覚としては「入っていたのではないか」と言われる、いわゆる“ゴールラインを越えたように見えた”プレー。
しかし主審はゴールを認めず、試合は続行された。
もしこれがゴールと判定されていれば、試合はまったく違う形で語られていただろう。
だが、実際には「なかったこと」として扱われる。
選手にとって難しいのは、「判定は変わらない」という事実を、どの瞬間に受け入れるかだ。
判定に納得できない感情と、「もう次に集中しよう」という切り替えのあいだで、心は揺れる。
ライン上で体を投げ出したリッツィにも、同じように葛藤はある。
自分のクリアがラインの内側だったのか外側だったのか、本人が一番よく分かっているかもしれない。
それでも、試合は進む。
その後に起きるプレーに、また全力で関わらなければならない。
- 「ついていない」で終わらず「何を変えるか」を自問する — バーに何度も嫌われた場面で「同じことを続ける勇気」と「変える勇気」どちらが必要かを考えることで判断力が育つ
- 急きょ任された役割で前に出た選手に注目する — 試合中に突発的な役割を引き受けた選手の行動は、技術だけでなく「引き受ける姿勢」として観察すると学びが深まる
- 退場になった選手の葛藤を想像してみる — 判定への抗議は単なる感情の爆発ではなく「自分は正しかった」という信念とのズレから生まれることを理解すると、試合の見方が変わる
日本の育成年代なら、どう向き合うだろうか
日本のグラウンドでも、よく似た場面は起きる。
ゴールライン付近の混戦、審判からは見えにくい角度。
ベンチから「入ってるだろ!」という声が飛ぶこともある。
このときに問われているのは、「審判の正しさ」だけではなく、選手や指導者がどこに意識を向けるかだ。
- 判定そのものを変えようとするのか
- 判定を受け入れたうえで、次の行動をどう選ぶかに集中するのか
どちらが正解とは言い切れない。
ただ、「試合を通して成長する」ことを大事にするなら、判定に感情を揺さぶられながらも、「次にどう戦うか」を自分で選び直す時間が必要になる。
81分のPK 蹴る人と止める人、それぞれの「迷い」
バーに当たって戻ってきたボールを、どう解釈するか
試合を決めたのは、81分に与えられたPGSのPKだ。
セットプレーからのクロスに対し、主審はディ・ビシェーリへの背後からの押しをファウルと判断した。
蹴るのは、センターバックのパスカレッタ。
彼のシュートは強烈だったが、またしてもクロスバー。
ボールはバーを叩いて地面に落下し、その後、GKカローネがキャッチ。
その勢いのまま、パスカレッタがカローネごとゴール内に押し込んだ、という形になった。
判定をめぐってマルコニア側は激しく抗議し、GKカローネとDFリッツィが退場。
結果として、このプレーが決勝点となった。
PKを「誰が蹴るか」を決めるという選択
PKは、技術だけでなく「メンタルの可視化」でもある。
この試合でチームがパスカレッタをキッカーに選んだことは、一つの決断だ。
- 彼自身が「自分が蹴る」と名乗り出たのか
- 監督が「お前が行け」と指名したのか
- チームの中で事前に役割として決められていたのか
いずれにしても、「責任を引き受ける」という行為がそこにはある。
試合の文脈を考えれば、すでに何本もバーを叩いている時間帯。
「また外したらどうしよう」という不安が頭をよぎっても不思議ではない。
それでも、助走を取り、蹴り込む。
バーに当たった瞬間、どんな感情がよぎっただろうか。
「やってしまった」という後悔か、「まだこぼれ球がある」という反射的な切り替えか。
その一瞬の差が、「こぼれ球を追いかけてゴールに押し込む」という次の行動を生んでいる。
もし、自分がパスカレッタの立場ならどうだろう。
クロスバーに当たった瞬間、足が止まってしまわないだろうか。
ゴールを奪われたGKは、何を守ろうとしたのか
一方で、GKカローネにも、GKとしてのプライドと責任があった。
PKをバーに当てさせ、リバウンドをキャッチしたところまでは、「仕事を果たした」という感覚だったかもしれない。
そこから体ごと押し込まれたとき、「これはファウルだ」と瞬間的に感じるのは自然だ。
判定への抗議は、単なる感情の爆発というよりも、「自分は正しく守った」という感覚とのズレから生まれる。
リッツィの抗議も含め、二人の退場は結果としてチームを苦しくした。
しかし、「勝ち点を失わないために、自分の感じた不公平を飲み込む」という選択は、大人でも簡単ではない。
育成年代であればなおさらだ。
ここでも、「どう振る舞うのが正しいか」より先に、「自分ならどう感じ、どう振る舞うか」を一度立ち止まって想像してみる余地がある。
急きょGKになったディフェンダー・テデスコの3セーブから見えるもの
「ゴールを守る役割」は突然やってくる
カローネとリッツィの退場で、マルコニアは9人になった。
残りは9分+アディショナルタイム。
そこでゴールマウスを託されたのは、もともとフィールドプレーヤーのDFテデスコだった。
彼はその後、ロヴァッロ、マンネー、セニセの3つの決定機を、防いでみせる。
慣れないポジションでの3セーブ。
この事実だけを切り取れば、「ヒーロー」として語ることができる。
だが、その裏側には「断らなかった」という選択がある。
誰かが「やる」と言わなければならない状況で、前に出たのか、押し出されたのか。
いずれにしても、「ゴールを任される」という重さを、短時間で受け止め直したことになる。
日本の現場で、こういう役割はどう決まるか
日本のユース年代でも、「GKが退場」「交代枠がない」という場面はときどき起きる。
そのとき、誰がゴールを守るか。
- 監督が「背の高い選手」を指名する
- 普段から「自分、GKやってみたいです」と言っていた選手が前に出る
- 誰も手を挙げず、沈黙の中で時間だけが過ぎる
このわずかな数十秒にも、選手たちの「選ぶ力」がにじむ。
テデスコは、その時間の中で何を考えたのか。
「自分がやるしかない」と腹を括ったのか。
「怖いけど、やってみよう」と半歩前に踏み出したのか。
3本のシュートを止めたあとに残るのは、結果としての「ナイスセーブ」だけではない。
「やったことのないことを、それでも引き受けた」という小さな経験が、彼の中に刻まれている。
読んでいる私たちも、もし同じ状況で「GKをやれるか」と問われたら、どう答えるだろう。
「戦術」と「態度」が絡み合う90分 4-3-3と3-5-2のあいだで
システムの違いが突きつける、小さな決断の積み重ね
PGSの4-3-3とマルコニアの3-5-2。
紙の上では、よくある組み合わせだ。
4-3-3側から見れば、サイドバックとウイングの2対1で相手の「ウイングバック」を攻略したい。
3-5-2側から見れば、中盤の枚数で優位をつくり、カウンターで前線の2枚を生かしたい。
試合を通じて見ると、PGSは主導権を握り、多くの決定機を作った。
いっぽうでマルコニアは、我慢強く守り、少ないチャンスからもバーを叩く場面を生んでいる。
この「押す側」と「耐える側」の構図の中でも、選手は細かな選択を繰り返している。
- 中盤の選手は、ボールに寄るか、リスクを見てポジションを保つか
- センターバックは、ラインを上げ続けるか、ロングボールに備えて少し下げるか
- サイドの選手は、個人で仕掛けるか、味方を使って時間を作るか
監督同士もまた、「誰をどのタイミングで交代させるか」「カードをもらった選手をどう扱うか」という決断を迫られている。
マルコニアは、イエローカードをもらったグエイを早めに交代させた。
それは、終盤に向けて「退場のリスクを減らす」という判断でもある。
結果的に、別のかたちで退場者は出てしまったが、それでも一つひとつの選択には理由がある。
日本で同じ試合があったら、どんな言葉が飛ぶか
日本の育成年代の試合で、こうした「荒れかけた試合」に直面したとき、ピッチ内外からどんな声が聞こえてくるだろうか。
- 「落ち着け」「審判に行くな」と感情のコントロールを促す声
- 「絶対に勝たないといけない試合だぞ」と結果への執着を煽る声
- 「ここから何を学ぶかだ」と、経験として意味づけようとする声
どの声も、ある意味ではもっともだ。
大事なのは、その中で選手自身が「自分はどうありたいか」を少しずつ言葉にしていくことかもしれない。
試合を終えたあと、PGS側のテクニカルディレクターは、判定について多くを語らなかったという。
映像を確認したうえで、「お互いに有利・不利なジャッジがあった」と冷静に受け止めた様子が伝えられている。
マルコニアのチームには、「最後まで諦めずに戦った姿勢」が高く評価されていた。
結果は1-0。
勝ち点3を得たのはPGSであり、マルコニアは悔しさを抱えてピッチを後にした。
だが、その90分で経験した「納得のいかない判定」「思い通りにいかないクロスバー」「慣れないポジションでのゴールマウス」などは、どちらのチームの選手にとっても、これからサッカーを続けていくうえで避けて通れない場面の縮図でもある。
勝ち負けの向こう側にある問いを、どこまで自分ごとにできるか
「歴史的2位」と「優勝目前」 順位表が映し出すもの
この勝利で、PGSドン・ボスコはクラブにとって歴史的ともいえる2位フィニッシュに近づいた。
首位リュコスは依然として9ポイント差を保ち、優勝は持ち越し。
順位表だけを見れば、「PGSは成功のシーズン」「マルコニアは惜しい敗戦」と整理することもできる。
だが、例えばPGSの選手たちにとって、「6本のクロスバー」と「1つのPK」はどう記憶されるだろうか。
例えばマルコニアの選手たちにとって、「納得のいかない判定」と「9人で守り切った最後の数分間」は、どんな意味を持つだろうか。
数字では表せない経験を、「勝ったから良かった」「負けたからダメだった」で終わらせてしまうのか。
それとも、「あのとき自分が何を感じ、何を選んだか」を、少し時間を置いてから振り返るのか。
読者である私たちは、どこまで想像できるか
この試合を遠くから眺めている立場の私たちにできるのは、「もし自分だったら」と想像してみることだ。
- クロスバーに3本連続で嫌われたとき、自分はシュートを打ち続けられるか
- 判定に不満があっても、カードをもらわずに抗議をやめるタイミングを選べるか
- 急にGKを頼まれたとき、「やります」と言えるか
サッカーは、90分間の中で、数えきれないほどの「選ぶ瞬間」が積み重なって出来ている。
その一つひとつの選択が、たまたま今回はPGSの勝利につながり、マルコニアの敗戦につながった。
けれど、次の試合では、同じような選択が違う結果を生むかもしれない。
だからこそ、「どの選択が正解だったか」を急いで決めつける必要は、実はあまりないのかもしれない。
むしろ、「あのとき自分は何を大事にして、その選択をしたのか」を、静かに言葉にしていくことの方が、長い目で見れば選手を強くしていく。
クロスバーが教えてくれること

6本のクロスバー、1本のPK、2枚のレッドカード、そして1-0というスコア。
この試合を形づくったのは、偶然のように見える出来事の連続だ。
けれど、その偶然の一つひとつの裏側で、選手も指導者も、自分なりの判断を下し続けていた。
「ついていなかった試合」と笑い話にして終わらせることもできる。
「理不尽な判定に泣かされた」と怒り続けることもできる。
あるいは、「あの日、自分はどんな選択をしただろう」と、少しだけ立ち止まって振り返ることもできる。
どの見方を選ぶかは、結局のところ、ピッチの中にも外にもいる、一人ひとりの自由だ。
クロスバーに当たって跳ね返るボールのように、答えを急いでゴールの中に押し込む必要はない。
ゆっくりと揺れながら、自分の中の問いを受け止め直していく。
その時間もまた、サッカーの一部なのだと思う。
