マルセイユという「火山」が問いかけるもの――サッカーにおける情熱と決断、そして「待つ力」
Share this column
マルセイユの「火山」から考える、サッカーの中の感情と決断

深夜2時35分、街が静まり返ったころにクラブの公式声明が出た。 ロベルト・デ・ゼルビとオリンピック・マルセイユ(OM)の物語が終わった瞬間だ。
表向きには「クラブと監督の合意による決断」と説明されたこの別れ。 しかし、多くの報道が指摘するのは「監督の側からの決断」だったという事実だ。 ブルージュ、パリでの痛い敗戦を経て、デ・ゼルビは自分のアイデアやトレーニングに対し、選手たちの心が離れていく感覚を持ったのだろうと言われている。
このニュースを聞いたとき、多くの人が思い浮かべたのは「またマルセイユか」という言葉かもしれない。 情熱的なサポーター、特別なスタジアム「ヴェロドローム」、常に揺れ動くクラブ環境。 だが今回の出来事を丁寧に辿っていくと、そこには「外からの圧力」だけでは説明できない、監督・フロント・クラブ内部の思考と選択の積み重ねが見えてくる。
もし自分が選手や指導者だったら、同じ状況でどう感じ、どう決断するのか。 マルセイユという「火山」を眺めながら、そこにある問いを少しずつほどいてみたい。
「外のせい」にしたくなる時に、ピッチの中で起きていること
誰の「プレッシャー」だったのか
マルセイユが crisis(危機)を迎えるたびに、よく語られる物語がある。 「サポーターのプレッシャーが強すぎる」「マルセイユという街が特殊すぎる」。 ユニフォームが重く、雰囲気が怖く、情熱が度を越しているから、監督や選手がつぶれてしまうのだ、と。
しかし、この一連の流れを追っていくと、少なくとも今回は、スタンドの熱より、クラブ内部の「火」の方が強かったことが見えてくる。 昨夏に混乱を生んだマルセリーノ退任の時期とは違い、ここ数カ月のサポーターは、基本的にはプロジェクトを支えようとしていたと伝えられている。 一部の横断幕や試合後のブーイングはあったにせよ、「デ・ゼルビを辞めさせろ」という大合唱が起きていたわけではない。
それでも、デ・ゼルビ、会長パブロ・ロンゴリア、フットボール部門を率いたメディ・ベナティアの「情熱的なトリオ」は、結果とパフォーマンスに過敏に反応し続けた。 試合後の強いコメント、審判への批判、選手に対する厳しいメッセージ。 いわば、自分たちでマッチを擦り続けたようなものだった。
もし自分がそのクラブの選手だとしたら、どう感じるだろう。 スタジアムのプレッシャーより、クラブ内部から絶えず発せられる「熱さ」の方が、判断を難しくしていないだろうか。 パフォーマンスが良いときには持ち上げられ、悪いときには強い言葉が飛ぶ。 その振れ幅の中で、冷静にサッカーだけを考え続けるのは、言葉ほど簡単ではない。
| 観点 | 感情優先アプローチ | 待つ・考え続けるアプローチ | 長期的効果 |
|---|---|---|---|
| 短期の動機づけ | 敗戦後の強い言葉がチームに緊張感を与える | 「なぜそうなったか」を問いかけで引き出す | △ |
| 選手の安心感 | 「いつ外されるか」という不安を選手が常に抱える | 猶予を与えることで選手が落ち着いてプレーできる | ◎ |
| プロジェクトへのコミット | 短期交代が続くと選手が全力を出しにくくなる | 長期ビジョンを示すことで本気でプロジェクトに乗れる | ◎ |
| フロントとの信頼 | 感情的な発言がフロントとの摩擦を生みやすい | 落ち着いたコミュニケーションが信頼の積み上げになる | ○ |
| サポーターとの関係 | 共感は得やすいが期待値コントロールが難しい | 長く一緒に歩む感覚をサポーターに与えやすい | ○ |
「情熱」はいつ、武器からリスクに変わるのか
ロンゴリア、ベナティア、デ・ゼルビ。 3人とも、いわゆる「温度の低いマネージャー」とは対極の存在だ。 勝てば大きく胸を張り、負ければ感情を隠そうとしない。 その姿勢には、現代フットボールには少なくなった「人間らしさ」があるようにも見える。
例えば、デ・ゼルビはリーグ戦でランスに勝利した後、審判や判定に関して強い表現を用い、自信に満ちたメッセージを発したと報じられている。 ベナティアもまた、トロフィー・デ・シャンピオンでパリ・サンジェルマンに敗れた後、「未来を描くのが難しい」と語り、自らの立場すら不安定であることを示唆した。 審判に対する批判や、特定選手への言及も、たびたび話題になった。
そこにあるのは、「勝ちたい」という思いの強さだろう。 サポーターと同じ目線で怒り、喜ぶ姿に共感した人も多いはずだ。 一方で、その「情熱」があまりに表に出ると、クラブ全体が常に洗濯機の中で回されているような状態になる。 監督が変わり、選手が短期間で出入りし、プロジェクトの輪郭が、はっきりと見えなくなってしまう。
日本のクラブでも、ときどき似た光景がある。 監督やフロントが熱い言葉で「変革」を叫び、数カ月ごとに選手やスタイルが入れ替わる。 見ている側からすると「本気で勝ちにいっている」と受け取れる一方で、ピッチに立つ選手たちには、別の問いが生まれる。
「この監督は、どれくらいの期間、ここにいるのだろう」 「今の自分のポジションは、どれくらい信用されているのだろう」 「ちょっと調子を落としたら、次のマーケットで入れ替えられるのではないか」
そんな感情がうっすらとでも心にあると、プレーの選択はどう変わるだろう。 リスクを避けるのか、それとも必死に目立とうとして無理をするのか。 もしかしたら、サッカーを「読む」よりも、「評価されるプレー」を優先してしまう選手も出てくるかもしれない。
「洗濯機」の中でプレーする選手たちの選択
- 選手を外す前に「何を待てるか」を自問する — 3カ月・半年・1年、どれくらいの時間で評価するかの基準を持っておく。「今日の結果」から距離を置いて選手の未来をイメージできる力が、戦術知識とは別に必要だ
- 感情を出すタイミングを意識的にコントロールする — 勝ったときも負けたときも感情を一定以上表に出すと、選手は「評価されるプレー」を優先して本来の判断が後回しになる。言葉の量と温度を意図して選ぶ
- 「待つ時間」をクラブ全体の文化にする — ひとりの指導者が辛抱強くても、クラブ全体が「すぐ変える」文化であれば選手は安心してコミットできない。「いつ決断し、いつ待つか」の軸をクラブとして明文化する
1週間で「大事な存在」から「構想外」になる現実
マルセイユでは、この数年、多くの監督が短期間でクラブを去っている。 ホルヘ・サンパオリ、イゴール・トゥドル、マルセリーノ、そしてデ・ゼルビ。 監督だけでなく、選手もまた「洗濯機」の中をぐるぐる回されているようだ。
「ある週には監督のお気に入りだった選手が、次の週には構想外として国外へ移籍する」といった状況が考えられる。 アミル・ムリーヨのように、短期間でベシクタシュやサッスオーロへ去っていった選手たちの例は、その象徴といえる。 ベナティアは「3~4カ月で見切られてしまう選手が多すぎる」という批判を暗に受ける立場でもある。
もちろん、クラブとして「結果」や「基準」を求めるのは当然だ。 高いレベルを目指すなら、現状に満足しているだけでは前に進めない。 しかし、「見切るスピード」をどこに設定するかは、とても難しい判断だ。
もし自分が指導者なら、どれくらいの時間をかけて、選手を評価するだろうか。 3カ月か、半年か、1年か。 伸び悩んでいるように見える選手にも、「この部分を待ってみよう」と思えるポイントがどこかにあるかもしれない。 一方で、チーム全体のバランスや結果を考えると、決断を先送りし続けるわけにもいかない。
その板挟みの中で、どこまで「今日の結果」から距離をとり、選手の未来をイメージできるか。 それは、戦術の知識とは別の種類の「見る力」なのかもしれない。
- クラブの不安定さを「自分の状態」と切り分ける — 監督が替わる・フロントが揺れる、そういった外部の不確実性の中でも「いま自分はなぜこのプレーを選んだか」を言語化できる選手は環境が変わっても自分を見失いにくい
- 「安全なプレー」と「成長するプレー」のどちらを優先しているかを定期的に確認する — 不安定な環境にいるとリスクを避けるプレーが習慣化しやすい。意識的に「いまチャレンジが足りていないか」を問い直す
- 保護者は感情の渦に飲まれず「なぜそのプレーを選んだか」を一緒に考える — 子どもがミスをしたとき、その場の感情よりも「どんな選択肢があったか」を落ち着いて話し合うことが判断力の育成につながる
「プロジェクトに乗る」とは何を意味するのか
監督やフロントが頻繁に入れ替わるクラブにいると、選手の側にも、独特の感覚が育つ。 「このプロジェクトにどこまで自分のキャリアを預けていいのか」という迷いだ。
ベナティアが「ここでは先のことを考えるのが難しい」と語った背景には、彼自身が、いつ自分がそのポジションから降ろされてもおかしくないと感じている側面もあったはずだと伝えられている。 つまり、「いつか自分も入れ替えられるかもしれない」と考えながら、他人に対しては厳しい要求と決断を突きつけていたことになる。
選手も、監督も、フロントも、「ここで長くやれる保証がない」と感じている。 その中で、どこまでクラブにコミットし、自分のプレーや考えを差し出せるのか。 日本でも、監督交代や方針転換が続くクラブで、似たような迷いを経験した人は少なくないはずだ。
「この監督のサッカーに、本気で乗るべきか」 「どうせすぐ変わるなら、自分のやり方を変えすぎない方がいいのではないか」 心のどこかでそう思ってしまったとき、トレーニングでの1本のパス、試合での1つの守備対応は、微妙に変化する。
デ・ゼルビは、ブルージュ戦やパリ戦の後に、「自分のアイデアに対する選手たちの信頼が薄れている」と感じたと伝えられている。 それは、単に戦術がうまくいかなかったという話ではない。 「このプロジェクトに、自分の全てを預けていいのか」という、選手一人ひとりの心の奥にある迷いが、ピッチ上の選択に現れていたのかもしれない。
「落ち着き」を選ぶことは、甘さなのか
サポーターは何を求めているのか
興味深いのは、サポーターの側が、必ずしも「常に激しい変化」を望んでいるわけではないという点だ。 報道によれば、多くのマルセイユファンが求めているのは、次のような、ある意味で「ささやかな」ものだという。
- チャンピオンズリーグで信じられないような大敗をしないこと
- 数カ月でいなくならない選手に、感情移入できること
- 2~3カ月ごとに大きな嵐が来ないシーズンを過ごすこと
極端なことをいえば、「タイトルを毎年取ってほしい」とまでは言っていない。 「一緒に歩んでいる感覚」を持てる時間がほしいだけだ、とも受け取れる。
日本のスタジアムでも、「勝ってほしい」のはもちろんだが、「このチームと一緒に成長していきたい」という願いが聞こえてくることがある。 そのためには、短期間での派手な変化より、少しずつでも積み重ねていくプロセスが必要になる。
ただし、ここで難しい問いが出てくる。 「落ち着き」を優先することは、競争の世界では「ぬるさ」と紙一重になってしまうことがある、という点だ。
負けたときに厳しい言葉を封印し、選手をかばい続けることが、本当に選手のためになるのか。 それとも、あえて厳しい要求を突きつけることでしか到達できないレベルがあるのか。 「変えない勇気」と「変える勇気」の境界線はどこにあるのか。
マルセイユの事例は、その答えが簡単ではないことを教えてくれる。 情熱と要求水準を下げることなく、同時に「長く一緒にやる」関係をどう築いていくか。 これは、ヨーロッパのビッグクラブだけでなく、日本の育成年代からトップチームまで、どのレベルでも突き当たるテーマだろう。
「今日の感情」と「長い目線」をどう両立させるか
デ・ゼルビの退任は、シーズンの途中で起きた。 プロジェクトの方向性が見えにくくなり、「クラブ全体が大きな霧の中にいる」と表現するメディアもあった。 感情の強い人たちが、感情のままに動いた結果としての「霧」だとすれば、そこには、もう一つの問いが生まれる。
もしもう少しだけ「答えを急がない」選択をしていたら、何が変わったのだろうか。
もちろん、ただ時間を引き延ばせば良いという話ではない。 問題が明らかなのに、誰も決断しないのは、別の意味で無責任だ。 しかし、「うまくいかないから、すぐに誰かを変える」という習慣が続くと、クラブには「待つ時間」「考え続ける時間」が残らない。
選手がミスをしたとき、指導者は瞬間的に「交代」「ベンチ外」というカードを切ることができる。 同時に、その選手が何を感じ、どんな選択肢の中からそのプレーを選んだのかに、目を向けることもできる。 後者を選ぶには、「今すぐ結果を変えたい」という感情と一歩距離をとる必要がある。
クラブ運営も、広い意味では同じかもしれない。 「今、なぜうまくいっていないのか」 「誰を責めるか」ではなく、「どの決断が、どんな影響を生んでいるのか」 そのプロセスを追いかける時間を確保できる組織ほど、最終的には安定して力を発揮しやすいのかもしれない。
もし自分が、この「火山」の中にいたら
選手として、どんなプレーを選ぶか
ここまで読んでみて、「マルセイユは特別なクラブだ」と感じる人もいるだろう。 だが、「監督交代」「フロントの発言」「サポーターの期待」が入り混じる環境は、日本のどのカテゴリーにも、形を変えて存在している。
もし自分が、マルセイユのように変化が激しいクラブにいる選手だとしたら。 次のような場面で、何を優先するだろうか。
- 安全なバックパスか、リスクのある縦パスか
- 監督の指示どおりの無難な動きか、自分で見つけたスペースへのチャレンジか
- 次の試合のスタメンのためのプレーか、自分の成長のためのプレーか
どの選択にも理由があり、「正解」は一つではない。 ただ、「自分は何を怖がって、どんなプレーを選んでいるのか」を一度立ち止まって考えてみると、見える景色が少し変わるかもしれない。
監督がいつ替わるか分からない フロントがどこまで守ってくれるか分からない サポーターがどんな反応をするか分からない そんな不確実な環境の中で、最後に残るのは、「自分で選ぶ力」だ。
感情の渦の中でも、「いま、自分はなぜこのプレーを選んだのか」を、後からでも言葉にできる選手は、環境が変わっても自分を見失いにくい。 マルセイユのようなクラブのニュースを読むとき、「あの監督は大変だな」「あのフロントは感情的だな」と他人事にするだけでなく、「自分ならどう決めるか」と置き換えてみる価値はありそうだ。
指導者・保護者として、どこまで「待つ」のか

では、指導者や保護者の立場なら、どうだろう。 負けた試合の後、感情の高ぶりのままに選手を責めることもできる。 一方で、少し時間を置き、「なぜその判断をしたのか」を一緒に探ることもできる。
マルセイユの例は、「感情を持つこと」そのものを否定しているわけではない。 ベナティアやデ・ゼルビのように、本気で勝ちたいと願い、悔しさを隠さない姿は、多くの選手たちの心を動かしたはずだ。 問題は、その感情が「誰かをすぐに入れ替える」方向だけに向かったとき、クラブ全体がどんな状態になるか、という点だ。
日本の現場で、選手が結果を出せないとき。 「この子はもう無理だ」と決めてしまうのは、ある意味では一番簡単な選択かもしれない。 逆に、「どこまで待つのか」「どこを変えてあげれば伸びるのか」を考え続けるのは、時間もエネルギーも必要になる。
その「待つ時間」をどこまで確保できるか。 それは、指導者のスタイルだけでなく、クラブ全体の価値観にも関わってくる。 マルセイユのように「すぐに変える文化」が根づけば、指導者もまた、「待つこと」を選びにくくなるだろう。
だからこそ、ひとりの指導者や保護者が、自分の中で「どのタイミングで決断し、どのタイミングで待つのか」という軸を持っておくことには意味がある。 それは、派手なスローガンにはならないが、選手の心の安定や、長期的な成長に深く関わっていく部分だ。
答えを急がないクラブ、答えを急がない自分
マルセイユの「火山」は、スタジアムの外ではなく、クラブの内側で燃えていた。 監督、フロント、選手、そしてサポーター。 それぞれの情熱と決断がぶつかり合い、短期間で多くの変化が起きた。
この物語から、「誰が悪いか」を探すこともできる。 だが、もう一歩だけ視線をずらして、「それぞれは、なぜその選択をしたのか」と考えてみると、見えてくる問いが変わってくる。
うまくいかないとき、どれくらいのスピードで「変える」決断をするのか。 そのとき、自分の中にどんな感情があり、その感情とどう距離をとるのか。 そして、「待つ」「考え続ける」という選択肢を、自分はどこまで大事にできるのか。
サッカーは、90分間の中で、無数の判断と決断が積み重なっていくスポーツだ。 クラブの運営も、選手のキャリアも、指導者の仕事も、本質的には同じかもしれない。 今日の結果に揺れながらも、「なぜその選択をしたのか」を問い続けるかどうかが、次の一歩を変えていく。
マルセイユのニュースを読んだあと、自分のチームや日々のトレーニングに戻ったとき。 ピッチの上でも、ピッチの外でも、ひと呼吸おいて考えてみる。 「いま、自分はどんな火を燃やし、どんな火を消さずに持ち続けるのか」 その小さな問いこそが、サッカーと人生をゆっくりと前に進めていくのかもしれない。
