誤審とレッドカードから何を学ぶか――バイエルン対レアルのカマヴィンガ退場を手がかりに、選手と指導者が「理不尽なジャッジ」と向き合う視点とチームづくり
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「忘れられたレッドカード」が問いかけるもの

バイエルン対レアル・マドリードのチャンピオンズリーグ準々決勝。 4−3、トータル6−4という派手なスコア、ハリー・ケインとキリアン・エンバペというスターのゴール、GKのミス、そして2枚の退場。 すべてが揃った「狂った試合」の中で、ひとつの判定が大きな議論を呼んだ。
レアルのエドゥアルド・カマヴィンガに出されたレッドカード。 元審判のジャンパオロ・カルヴァレーゼは「VAR時代では取り返しのつかない重大なミス」と表現し、クラブ関係者も試合後に強い言葉で不満を示した。 中継映像には、レアル側の選手やスタッフが審判に向けて「信じられない」「試合を壊した」と感情を爆発させる様子が映し出されている。
しかも、その審判は一度レッドカードの存在を「忘れていた」とも伝えられている。 ふだん画面越しに見るジャッジの議論よりも、どこか生々しく、人間的なミスとして感じられる場面だった。
こうした試合を見るとき、つい 「レッドはおかしいか、正しいか」 「審判が試合を壊したのか、そうではないのか」 という二択の議論に引き寄せられてしまう。 ただ、そこで立ち止まってみると、もう少し違う問いも浮かび上がってくる。
審判の「重大なミス」を、ピッチの中はどう受け取ったのか
決断の重さを、誰がどう背負うのか
VARの時代になり、「明らかな間違い」は減るはずだと言われてきた。 ところが、今回のように、ビデオがあるからこそ余計に目立ってしまう「取り返しのつかないミス」も起きる。
審判は一瞬で判断する。 映像は何度も確認する。 それでも、最終的に「レッド」という色は変わらない。 凡ミスと言うのは簡単だが、その瞬間に審判の頭の中では、いくつもの要素がぶつかり合っていたはずだ。
- ファウルの強さ、危険度
- 試合の流れとヒートアップの度合い
- 以前のプレーとの整合性(同じ基準で吹いているか)
- VARの介入の可能性と、自分の決断への自信
このすべてを、観客の叫びと選手の抗議にさらされながら、数秒のうちに整理し、言葉ではなく「カードの色」として表現しなければならない。 人間である以上、ミスは起こり得る。 問題は、「間違えないこと」よりも、「間違えたあとにどうするのか」という部分かもしれない。
審判が一度、レッドの存在を忘れていたと伝えられていることも含めて考えると、そこにはひとつの問いが生まれる。 ミスをした瞬間、審判は自分の判断にどう向き合ったのだろうか。 そして、選手や監督は、そのミスにどう向き合おうとしたのだろうか。
感情と戦術のあいだで揺れる90分
| 場面 | 感情に任せた反応 | 記事が推す対応 | 評価 |
|---|---|---|---|
| 退場直後のベンチ | 「試合を壊した」と叫び続ける | 不満を言葉にしつつ戦術を描き直す | ○ 怒りを力に変える |
| 10人になった後 | ゲームプランを捨てて守備に籠る | 共有済みの「数的不利の型」に戻る | ◎ 事前準備が効く |
| 試合後の振り返り | 判定批判だけで終える | 判定と自分たちの選択を切り分ける | ◎ 次に生かす整理 |
| 育成年代で2枚目を受けた時 | 一方的に叱責する | 「なぜその選択か」を一緒に振り返る | ○ 経験を材料化 |
| 審判の見え方 | 自分の目線だけで断罪する | 「自分が審判なら」と俯瞰する | △ 余白を持つ練習 |
「理不尽」とどう付き合うか
レアル側からすれば、カマヴィンガの退場は納得しがたいものだった。 ベンチにいたスタッフが怒りをあらわにし、アルベロアも「こんな場面で選手を退場にする理由は誰も説明できない」と強い表現を使って審判を批判したと伝えられている。 それでも、スコアボードには時間が流れ続け、ピッチの上には10人の仲間が残される。
そこで問われるのは、「正義」よりも、「今からどうするか」だ。 選手もスタッフも、気持ちのどこかでは 「これはおかしい」 「こんな判定でシーズンが変わるのか」 と思っていたはずだ。 それでも、戦術ボードの上では、すでに新しい配置と役割が描き替えられていく。
- 誰を残し、誰を犠牲にするのか
- プレスの強度を落とすか、それともリスクを負って前から行くのか
- エンバペや他の攻撃陣に、どこまで自由を与えるのか
「理不尽」と感じる出来事があったとき、 感情を押し殺して淡々とプレーすることが「正しい」わけではない。 怒りをエネルギーに変え、逆に集中力を高めるチームもある。 一方で、その怒りに飲み込まれて、冷静な選択ができなくなることもある。
もし自分がピッチにいたら、どちらに傾くのか。 審判への不満を言い続ける自分か。 それとも、「おかしいものはおかしい」と心の中で呟きながらも、 「じゃあ、10人でどう戦う?」と仲間に問いかけられる自分か。
- 数的不利の型を事前に共有する — ラインの高さ、奪った後の選択、声を出す役を練習で決めておく
- 判定と選択を分けて振り返る — 「判定は判定」としたうえで自分たちが取れた行動を整理する
- 「自分が審判なら」の視点を持たせる — 角度や位置で見え方が変わることを全員で体験する
10人になったあとに求められる「別のサッカー」
数的不利になったチームには、強制的に「別のサッカー」が突きつけられる。 本来、用意していたゲームプランは、ほとんどの場合そのままでは通用しない。
この試合も、レアルにとっては激しいゲームの流れの中で退場が生まれ、その後の選択はひとつひとつが重くなった。 守り切るのか、奪い返しに行くのか。 エンバペやアルダ・ギュレルといった攻撃的なタレントの扱い方も悩ましい。
- スターを残せば守備の負担は増えるが、一瞬で試合をひっくり返せるかもしれない
- 守備要員を増やせば失点リスクは減るが、自分たちから試合を動かす力は落ちる
どちらを選んでも、「たられば」は残る。 だからこそ、そこで何を優先したのか、その判断の背景に目を向けたくなる。 相手がバイエルンのような攻撃的なチームであること、 2試合合計のスコア状況、 自分たちのコンディションやベンチメンバー。 そうした要素を絡めながら、スタッフと選手は「今、この瞬間に最も納得できる答え」を探していたはずだ。
日本のピッチで同じことが起きたら
- 「おかしい」と言葉にする権利を持つ — 感じたことを押し殺さず、落ち着いて表現する
- 「じゃあ次のプレーで何をするか」を選ぶ — 怒りをエネルギーに変え、冷静さとの両立を試す
- レッドを「材料」に変える — 退場経験をトラウマで終わらせず、次の選択に活かす振り返りを家族でする
「ジャッジ批判」の先にあるもの
日本のサッカー界でも、審判の判定を巡る議論は尽きない。 Jリーグでも育成年代でも、「あのPKはない」「あの退場は厳しすぎる」と話題になる試合は少なくない。
では、もし日本の中学生や高校生の試合で、同じように重要な試合での「疑問の残るレッドカード」が出たとしたら。 選手はどう受け止めるだろうか。 保護者は、ベンチは、指導者は、どんな言葉を選ぶだろうか。
- 「審判が試合を壊した」で終わらせるのか
- 「判定は判定として、そのあと自分たちは何ができたか」を一緒に振り返るのか
もちろん、理不尽さを感じる権利は誰にでもある。 おかしいと感じたことを「おかしい」と言葉にすることも大事だ。 ただ、その先にもう一歩だけ進むと、見えてくるものが変わってくる。
退場をきっかけに崩れてしまった試合があったとしたら、 「崩れてしまったこと」は事実であっても、そこには選択がかならず存在している。 ラインをどこまで下げるか、 誰が声を出して整理するか、 ボールを奪った時に無理をするのか、時間を使うのか。 一つ一つは些細に見えるけれど、積み重なると試合全体の表情を変えてしまう。
若い選手にとっての「レッドカードの経験」

プロのトップレベルのレッドカードは、世界中のメディアで取り上げられる。 一方で、育成年代では、似たようなことがもっと身近な形で起きている。 例えば、
- 判定に納得できず、熱くなりすぎて2枚目のイエローをもらってしまう
- 自分には軽く感じたタックルが、主審には危険と映って退場になってしまう
そんなとき、その選手の心の中では、どんな声が響いているだろうか。 「なんで俺だけ」 「審判は俺のことを分かっていない」 「みんなに迷惑をかけてしまった」
チームに戻ったあと、 監督や仲間がその出来事をどう扱うかで、選手の中に残る意味は変わってくる。 一方的な叱責で終わるのか。 「どうしてあのプレーを選んだのか」を一緒に振り返るのか。 「審判はこう見たかもしれない」という別の視点にも触れてみるのか。
レッドカードという出来事そのものは変えられない。 でも、その経験を「ただのトラウマ」にするのか、「次に生かす材料」にするのかは、周りの大人やチームメイトの関わり方にも左右される。
「間違い」がある前提で、どうサッカーを設計するか
完璧なゲームは存在しないという前提
今回のような大きな試合での誤審や疑惑の判定が起きるたびに、「VARは何のためにあるのか」という議論も繰り返される。 ただ、どれだけ技術が進歩しても、完全にミスがなくなることはないだろう。
では、選手や指導者は「間違いがある前提」で、どのようにサッカーを組み立てていけばいいのだろうか。 例えば、
- 一つの判定で感情が吹き飛ばされても、最低限の約束事に立ち戻れるようにしておく
- 数的不利になったときの「型」を、ある程度チームとして共有しておく
- 試合後、判定への不満と自分たちの選択の振り返りを切り分けて話す習慣をつくる
こうした準備は、試合前には目に見えない。 でも、予想外の事態が起きたとき、 「こんなはずじゃなかった」で止まってしまうチームと、 「こんなこともあるよね」と言いながら次の一手を探せるチームの差になっていく。
「もし自分が審判だったら」と考えてみる
もう一つ、ジャッジに腹を立てたときに試してみられる視点がある。 それは、「もし自分が審判だったらどう見えただろう」と想像してみることだ。
選手の目線は、ボールと相手とゴールに向いている。 審判の目線は、複数の選手、ボールの位置、プレーの流れ、接触の角度、すべてを俯瞰しようとしている。 同じプレーでも、見る位置を変えれば違うものに見える。
これは、審判を擁護するための話ではない。 「自分の見え方が、世界のすべてではない」と一度立ち止まることで、 怒りの中にも、ほんの少しだけ余白が生まれる。 その余白ができたとき、 「じゃあ次のプレー、どうしようか」と考えるスペースが戻ってくる。
答えの出ない判定と、答えを急がない態度
勝敗の陰で続いていく物語
今回の試合は、バイエルンが勝ち、レアルが敗れた。 スコアも、スタッツも、ハイライトも、結果を分かりやすく伝えてくれる。 しかし、その陰で、審判のミス、レッドカードに揺れた選手たち、感情を抑えきれなかったスタッフ、落ち込むカマヴィンガ自身、それぞれの物語が静かに続いていく。
あの退場が「あり得ない誤審」だったのか、「ギリギリの判断」だったのか、はっきりとした正解は出ないかもしれない。 それでも、その出来事をどう受け止め、どんな言葉で語り直すのかは、選手や指導者一人ひとりに委ねられている。
もし自分が、あの日のカマヴィンガだったら。 もし自分が、あの日の審判だったら。 もし自分が、あの日のベンチに座っていた指導者だったら。 それぞれの立場から「自分ならどう感じ、何を選ぶか」を想像してみること。 その繰り返しの中で、サッカーの見え方は少しずつ変わっていく。
判定は一瞬で下される。 スコアははっきり残る。 だが、その裏側で続いていく思考は、急いで結論を出さなくてもいい。 時間がたってから振り返ってみたとき、あのレッドカードが、ただの「ミス」以上の意味を帯びて見えてくることもあるかもしれない。
サッカーは、ときに理不尽で、ときに残酷だ。 それでもなおピッチに立ち続ける人たちは、きっとどこかで、 「それでも、この不確かさごと引き受けたい」と思っているのだろう。 答えの出ない判定と一緒に、答えを急がない自分なりのサッカーを探していく。 そんな姿勢そのものが、試合の結果には映らない、もうひとつの勝負なのかもしれない。
