コリンチャンス元会長ドゥイリオの「自ら退く決断」から考える──指導者・選手・保護者が向き合うクラブ政治と見えないゲームの操り方
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「去る」という選択の重さと、クラブを動かす見えないゲーム

ある「キャプテン」の降板劇から考える
ピッチの上ではなく、クラブハウスの会議室で起きた出来事がある。
ブラジルの名門クラブ、コリンチャンス。
その前会長だったドゥイリオ・モンテイロ・アルヴェスが、自らクラブ会員としての権利をすべて手放し、組織から完全に離脱する決断をした。
それは、長年続いた「クラブの一員としての人生」を、自分の手で終わらせるという選択だった。
タイトル獲得に関わり、会長も務め、祖父の代から続くクラブとのつながりを、「もう続けない」と決める。
そこには、感情だけでは説明しきれない、複雑な思考のプロセスがあるように見える。
もし自分がチームのキャプテンで、チーム内が深刻に分裂し、「もうこの船は動かせない」と感じたとき、どうするだろうか。
残って、内部から変えようとするか。
一度降りて、違う形でクラブと向き合う道を探すか。
ドゥイリオの手紙の中には、そうした葛藤の痕跡がいくつもにじんでいる。
| ピッチ上の場面 | クラブ政治での対応場面 | 共通する問い | 反応の分岐 |
|---|---|---|---|
| ハイプレスにビルドアップが詰まる | 批判と調査が積み重なり身動きが取れなくなる | 「誰のせいか」より「どう外すか」 | ◎ 構造を問い直す |
| 縦パスのリスクを「無謀」と叩かれる | 日常業務が「不正の温床」と見なされる | 文脈と信頼関係が評価を変える | ○ 立場によって見方が異なる |
| ミスを恐れて縦パスをつけない選手増加 | 自分で決断して動く人がいなくなる | 評価軸の曖昧さが萎縮を生む | △ 組織全体のリスク |
| 「誰が悪いか」の口論になる | 「誰を追放するか」にエネルギーが注がれる | 本来の問い(戦術・持続性)が消える | ◎ 本質に立ち返る必要がある |
| 選手がクラブ退団・引退を決める | ドゥイリオが会員権を手放す | 「去ること」は弱さか戦略か | ○ 当人にしか分からない判断 |
ピッチ外にもある「戦術」と「プレッシング」
ドゥイリオは、2021年から2023年までコリンチャンスの会長を務めた。
クラブは巨大で、サポーターは約3,500万人規模と言われる。
その運営は、単なる「サッカーチーム」の枠を超え、巨大企業の経営に近い。
在任中、彼はクラブの借金を抑え、3年連続の黒字を出したと主張している。
一方で、コーポレートカードの使い方などをめぐり、クラブ内部で調査を受ける立場にもなった。
同じタイミングで、コリンチャンスの象徴的な存在でもあった元会長アンドレス・サンチェスは、クラブ資金の私的流用が原因とされる処分によって追放が決まった。
「次は誰が追い出されるのか?」
ドゥイリオは、自身の退会を知らせる手紙の中で、そんな問いを投げかけている。
サッカーの試合で、相手のハイプレスに耐えきれず、ビルドアップするたびにボールを失う状況を想像してみる。
パスコースを作っても、味方が次々とプレッシャーに潰され、最終的には「誰かを責める」空気になっていく。
前線の選手は「後ろからつなげ」と主張し、後ろの選手は「前が動かないからだ」と言い返す。
分析すべきは、本当はプレッシングを外すための配置や原則なのに、議論の矛先は「誰が悪いか」に向かってしまう。
クラブ内部の政治的な衝突も、どこかそれに似ている。
本当は「どうやってこの巨大クラブを持続させるか」という戦術の話をしなくてはいけないのに、
「誰を追放するか」「誰を責めるか」にエネルギーが割かれていく。
- 「誰が悪いか」より「何がこの状況を生んでいるか」を先に問う — チーム内の対立が生じたとき、責任の所在を探す前に、その状況を生んでいる構造・ルール・期待値のズレを確認する
- 評価軸を選手と共有する — 同じプレー(例:縦パスの多用)が「勇気あるチャレンジ」にも「無謀」にもなる。基準を曖昧にしたまま評価すると、自分で判断して動く選手が減る
- 「去ること」を選択肢として尊重する — 選手がチームや環境を離れる選択をしたとき、「逃げた」と即断しない。その背景にある問い(何を守ろうとしたか)を聞き取る姿勢を持つ
「カードの使い方」をどう解釈するか
ドゥイリオは、自身が会長時代に使ったコーポレートカードについて、「1日あたりの平均利用額は約35レアル程度で、業務上の目的に限っていた」と説明している。
一方で、クラブ内ではその使い方が問題視され、調査が続いている。
ここで重要なのは、「誰が正しいか」を決めることではなく、「何がどのように『問題』とされていくのか」というプロセスだ。
サッカーの現場で考えるなら、次のような場面に少し近いかもしれない。
ある選手が、チームのためにリスクの高い縦パスを多用する。
それは監督からすれば、「ゴールに向かう勇気あるプレー」かもしれない。
しかし、結果的にボールロストが増えれば、スタジアムの雰囲気は一気に変わる。
同じパスが、「チャレンジ」と評価されることもあれば、「無謀」として叩かれることもある。
違いは何か。
文脈と、見る側のスタンスだ。
クラブ経営の場でも、借金の再交渉やカードの利用といった「日常の業務」が、「当然の業務」と見なされるか、「不正の温床」と見なされるかは、文脈と信頼関係の中で変化していく。
その評価軸が曖昧なまま、「誰かを処罰する」方向にだけアクセルが踏まれていくと、組織の中で「自分で決断して動く人」はどんどん減っていく。
ピッチ上で言えば、「ミスを恐れて縦パスをつけない選手」ばかりになるようなものだ。
- 「おかしい」と感じたとき、すぐ結論を出さない — チームや組織への違和感は大切なサインだ。「誰が悪いか」を急いで決める前に、「なぜそう感じるのか」をゆっくりたどる時間を持つ
- 「残るか出るか」に正解はないと知っておく — 内部から変えようとする選択も、一度距離を取る選択も、どちらも「何を守ろうとしたか」によって意味が変わる。外からの評価だけで決めない
- 「数字」と「感情」の両方を持つ — 得点や勝ち点だけでは測れない「このチームで成長できているか」という感覚も、自分のサッカーを判断する大切な軸として持っておく
「クラブが大きすぎる」という感覚
ドゥイリオは、コリンチャンスの現状を「政治的な戦争状態」と表現し、この規模のクラブを今の会員制の仕組みでは運営しきれないと感じているようだ。
ブラジルでは、企業が運営するサッカークラブ、いわゆるSAFへの転換が各地で議論されている。
さらに、税制改革によって、会員制クラブの方がSAFよりも不利になる可能性も指摘されている。
加えて、ブラジルサッカー連盟は、財務フェアプレーのルールを導入し、移籍市場での制裁や降格といった重いペナルティの可能性も見据えている。
こうした変化の中で、ドゥイリオは「このままでは、クラブは外部からの介入に支配されるか、誰か一人のオーナーのものになるのではないか」と危機感をつづっている。
日本のサッカー界にも、規模や制度は違えど、「クラブは誰のものか」「誰が何を決めるべきか」という問いがある。
地域密着といいながら、実際にはスポンサー企業の影響力が大きいクラブもある。
一方で、サポーターの声をどう位置づけるかに悩むクラブもある。
「会員制だから民主的」とも、「企業所有だから合理的」とも、簡単には言えない。
どの構造にも、メリットと、必ず「見えにくいリスク」が埋め込まれている。
数字と感情の間で、何を守るか
ドゥイリオは、自分の任期中の実績として、「3年連続の黒字」「借金のコントロール」「収入の過去最高」を挙げている。
一方で、その後のクラブ経営において借金が再び増大し、今の経営陣やその周辺にも、将来の選挙に向けた思惑が絡んでいると指摘する。
ここには、「数字で語られるクラブ」と「感情で語られるクラブ」が、複雑に絡み合っている。
選手や監督も、よくこの板挟みに遭う。
勝ち点、得点数、走行距離、パス成功率。
数字だけを見れば「成功」と言えるシーズンであっても、サポーターの心には「何か違う」というモヤモヤが残ることがある。
逆に、タイトルを逃しても、クラブ全体が「これは次につながる」と感じられるシーズンもある。
経営者にとっても、選手にとっても、「数字」と「感情」のどちらを優先するかは、常に難しい問いだ。
それは、単に「どちらが正しいか」ではなく、「いま、このクラブにとって何を守るのか」という選択の問題でもある。
・今期の数字か
・10年後の競争力か
・サポーターの誇りか
・選手のキャリアか
どれか一つだけを守ることはできない。
だからこそ、誰かの選択は、必ず別の誰かの不満を生む。
「去る」という決断は、弱さか、戦略か
ドゥイリオは、「自分は虚栄心ではなく、クラブの未来の議論を促すために身を引く」と語っている。
同時に、「ここまで自分の生活を犠牲にしてきたが、これ以上は健康面でも限界だ」ともにおわせている。
選手が代表引退やクラブ退団を決めるときにも、似たような構図がある。
・自分の体が持たないと感じたとき
・クラブの方針と、自分の価値観がすれ違い続けたとき
・自分がいることで、むしろチームの成長が止まると感じたとき
「残って戦うべきだ」という声もあれば、「一度距離を取った方がいい」という声もある。
本人の胸の内では、
・自分がここで降りたら、裏切りになるのではないか
・自分が残ることで、誰か他の可能性をつぶしてしまうのではないか
そんな問いが、行ったり来たりしているはずだ。
外からは「逃げた」とも、「潔い」とも解釈できる。
だが、どちらにしても、その決断の裏には、「何を守ろうとしたのか」という個人的な答えがある。
クラブのためか、家族のためか、自分の心のためか。
それは、当人にしか分からない。
日本のクラブにとっての「見えないゲーム」


ブラジルの巨大クラブで起きている「政治の試合」は、日本のクラブにとっても他人事ではない。
Jリーグでも、ライセンス制度や財務基準、スタジアム問題、スポンサーとの関係など、多くの「見えないゲーム」が存在する。
指導者や選手は、日々のトレーニングや試合に意識を向けながらも、その背景でクラブを揺らす決定が下されていることを、完全に無視することはできない。
日本の育成年代でも、
- 学校とクラブの関係
- 保護者の期待と現場の方針
- 勝利と育成の優先順位
といった「見えないゲーム」が、常に存在している。
その中で選手は、時に自分の進路や、所属するチーム、指導者との距離を選ばなくてはならない。
どこかのタイミングで、「ここからは、自分で決めるしかない」という瞬間がやってくる。
周囲の大人たちも、クラブ関係者も、その決断を「正しい」「間違い」と一言で裁くのではなく、「なぜそう選んだのか」を聞き取る姿勢が求められているのだと思う。
「次の追放者」を探す前に
ドゥイリオは、手紙の中で、「誰を次に追放するか」という問いかけを残し、最後を「時間が真実を示すだろう」というような言葉で結んでいる。
そこには、開き直りと、どこか達観したような空気が同居している。
読んでいる側は、彼の主張すべてを受け入れる必要はない。
ただ、「誰を悪者にするか」というゲームに乗ってしまった瞬間、本当に考えるべき問いが見えなくなる危険は、誰の目にも映るはずだ。
クラブを愛するがゆえに、感情が先に立つことはある。
その熱があるからこそ、サッカーは特別な存在でもある。
ただ、その熱が、「対立を深めるため」だけに使われてしまうとき、クラブは少しずつ、自分で自分を傷つけていく。
選手も、指導者も、保護者も、サポーターも。
「誰が一番悪いか」を探す前に、
「この状況を生み出している仕組みは何か」
「自分だったら、どこから手をつけるか」
と、一度立ち止まって考えてみる余地がある。
あなたなら、どこで立ち止まるか
もし、自分がクラブのトップで、内部の争いが激化し、過去の自分の決断も批判の対象になっていたとしたら、どうするだろうか。
・中に残って戦い続ける
・一度離れて、別の立場からクラブを見つめ直す
・新しい仕組みづくりに全力を注ぐ
・それでも、あえて何もしない
どれも一つの選択肢だ。
同じように、選手として、指導者として、保護者として。
自分が所属するチームや組織について、「これはおかしいな」と感じたとき、自分ならどう動くだろうか。
すぐに答えが出なくてもいい。
むしろ、すぐに結論を出さずに、「なぜそう感じるのか」をゆっくりたどっていく時間こそが、次の一歩を変えていくのかもしれない。
サッカーは、ピッチの上だけで完結するスポーツではない。
クラブを動かす人たちの迷いや選択もまた、ひとつの「見えないゲーム」として、日々続いている。
そのゲームをどう受け止めるかは、観ている私たち一人ひとりに委ねられている。
ひとつのクラブが選手を育てる10年を、外側ではなく内側から見ていた時期があった。「誰かを責める空気」が漂い始めると、自分で判断して動こうとする人が口をつぐんでいく流れが、何度か見えた。問題の原因を誰かに帰着させることで、「どう変えるか」という議論への入り口が静かに閉じていく。
もちろん、皆さんが関わってきた組織がそうだったとは限らない。ただ少しだけ思い浮かべてみてほしい。自分が「おかしい」と感じたとき、最初に向かった問いは「誰が悪いか」だっただろうか、それとも「何がこうさせているのか」だっただろうか。
