ワールドカップをボイコットするか、それでもピッチに立つか――サッカー選手に突きつけられた「選択の責任」
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「ボイコットするかどうか」を前にして、サッカー選手は何を考えるのか

ワールドカップのピッチに立つか、それとも立たないか。
その選択が、政治や国際情勢と結びついて問われる時代に、サッカー選手はどんなことを考えているのだろうか。
2026年のワールドカップは、アメリカ、カナダ、メキシコの3カ国共催として予定されている。
しかし、アメリカではドナルド・トランプ氏が2025年初めに大統領へ復帰し、カナダへの“併合”をほのめかし、メキシコに対しては国境封鎖や移民の大量送還を公然と口にしていると報じられている。
さらに、ベネズエラへの軍事介入、グリーンランドへの圧力、国内での移民政策をめぐる混乱。
その一方で、FIFAのクラブワールドカップは2025年夏にアメリカで実施され、表向きは「無事終了」したものの、表彰式ではトランプ氏が選手以上に目立つ形になったとも伝えられている。
FIFA会長ジャンニ・インファンティーノ氏は、ワールドカップの組み合わせ抽選会の場で、トランプ氏に「平和のトロフィー」を渡すパフォーマンスまで行い、多くの人があ然とした。
そうした一連の出来事の中で、「そもそもこのワールドカップに参加すべきなのか」というボイコット論が、現実味を帯びた議題として浮上している。
「政治とスポーツを分ける」という、言葉の重さ
歴史の中の沈黙とためらい
ワールドカップがボイコットによって大きく揺れた歴史は、意外と多くない。
1930年の第1回大会や、1934年、1950年の大会で、南米やヨーロッパの一部の国が参加を見送った例はあるが、それは政治というより、移動や日程、競技的な優先順位といった事情の方が大きかったと言われる。
一方でオリンピックは、1976年から84年にかけて、南アフリカのアパルトヘイト、ソ連のアフガニスタン侵攻などを背景に、大規模なボイコットが相次いだ。
サッカーのワールドカップは、どちらかと言えば、その嵐の外側にいた。
2018年ロシア大会、2022年カタール大会も、「開催国の人権問題」をめぐって強い批判やボイコット論があった。
しかし結果的に、出場資格を得た代表チームで不参加を選んだ国はなかった。
大会は通常通り行われ、スタジアムは満員になり、政治的な抗議は選手の口からほとんど語られなかった。
「なぜ黙っているんだ」と批判するのは、実は簡単だ。
けれど、もし自分がその立場だったらどうだろう。
人生をかけて目指してきたワールドカップ。
代表に選ばれれば、自分のキャリアも、家族の生活も、大きく変わるかもしれない。
そこで、
「政治的理由で今回は出ません」
と言えるだろうか。
プロ契約の更新、スポンサーとの関係、クラブとの信頼、代表監督との関係。
それら全てに影響が出ることが目に見えている状況で、どんな言葉を選ぶのか。
考えれば考えるほど、白黒で割り切ることが難しい問いであることが見えてくる。
| 立場 | 優先する判断軸 | 選べること・選べないこと | 評価 |
|---|---|---|---|
| 政府・政治家 | 外交的メッセージと国益 | ボイコット宣言は可能、選手の個人判断は縛れない | ○ |
| サッカー協会 | スポーツ継続性・スポンサー・国民の期待 | 大会参加可否を最終決定する権限を持つ | ◎ |
| 代表監督 | 自分の仕事(大会準備)を全うしたい | 出場メンバー選考はできる、政治判断の代表はしにくい | ○ |
| 選手 | 夢・家族・価値観・キャリアすべてが天秤に | 個人として参加拒否を表明する自由はあるが代償が大きい | ◎ |
| ファン・メディア | 応援か批判か、道徳か娯楽か | 観戦・支持・不買など行動で示す選択がある | △ |
| 育成年代の選手 | 遠い出来事に見えるが「海外遠征に行くか」と地続き | 自分のモヤモヤを言葉にして大人に相談することができる | ○ |
フランスが抱える「ためらい」と、ひとりの選手の記憶
フランス国内でも、2026年大会のボイコットについて議論が起きている。
アフリカの国々に「アメリカには渡らない」という選択肢を提案した指導者もいると伝えられる。
ドイツ、ノルウェー、デンマークといった国々も、参加をどうするか時間をかけて考える姿勢だと言われる。
フランスは、そのど真ん中で板挟みになっている。
大統領は、対米関係の舵取りに苦しむ一方で、国内では「スポーツは政治と切り離すべきだ」という、おなじみのフレーズがスポーツ担当大臣から繰り返されている。
しかし、その同じ国のトップが、ワールドカップやユーロの優勝直後には、ロッカールームまで駆けつけて選手たちと写真を撮り、政治的支持を高めるために「サッカーの勝利」を利用してきたことも、また事実だ。
政治とスポーツを「分ける」のか、「都合よくくっつける」のか。
それ自体が、もうひとつの問いになっている。
そんな国で、最終的な決定権は政府ではなくサッカー協会にある。
フランス協会トップは今のところ明言を避けているが、代表監督ディディエ・デシャンは「政治的なボイコットには慎重」だとみられている。
では、選手はどうか。
政治意識の高い選手もいるだろう。
しかし、代表の候補リストから自分の名前を外す覚悟を持てるのか。
ここで思い出されるのが、1978年アルゼンチン大会のフランス代表ドミニク・ロシュトーのケースだ。
軍事独裁政権下で行われたその大会に、彼は強い疑問を抱きながらも参加したと伝えられている。
それでも代表を辞退するのではなく、「現地に行き、自分なりの形で状況に光を当てたい」という思いを抱えていたという。
実際には、チームメイトの多くは、人権問題よりも出場給の方に関心を向けていたとも言われる。
理想と現実。
ひとりの選手の悩みは、周囲の無関心や別の優先順位とぶつかる。
それでも、その揺れの中で、彼は「自分なりの選択」をした。
今、2026年に向けて悩んでいる選手がいるとしたら、その思考のプロセスは、きっとロシュトーの時代とそれほど変わらないのかもしれない。
ボイコットは「正解」なのか、それともひとつの選択肢なのか
- 海外遠征の前に「なぜその国に行くのか」を選手と一緒に調べる時間を設ける——目的地の文化・歴史・社会情勢を知ることで、ピッチ外の現実とサッカーがつながる体験になる
- 「もし自分が代表候補だったら、どう考えるか」をチームディスカッションのテーマにする——正解を求めるのではなく、「自分が大事にしたいことは何か」を言葉にする練習として活用する
- 判定・不公平・理不尽に直面したとき「自分で変えられることに何があるか」を問いかける習慣をつける——審判批判を超えて自分の選択に戻る思考は、ボイコット論と同じ根っこを持つ
国が決めること、選手が決めること
「ボイコットすべきだ」「参加すべきだ」。
議論はつい、二項対立になりがちだ。
だけど、実際にピッチに立つのは選手であり、そのメンバーを選ぶのは監督であり、大会参加の可否を決定するのは協会だ。
それぞれの立場で、「選べること」と「選べないこと」は違う。
- 政府や政治家は、外交的なメッセージを優先して判断するかもしれない
- 協会は、スポーツの継続性、スポンサー、国民の期待を天秤にかける
- 監督は、キャリアの集大成としての大会を前に、自分の仕事を全うしたいと考えるかもしれない
- 選手は、自分の夢、家族の生活、自分の価値観、その全部を前にして迷う
それぞれが違う地図を持っている。
だから、「国がボイコットを決定したから、自分の悩みは終わり」というわけではない。
むしろ、国が参加を決めたとき、初めて選手ひとりひとりに「行くのか、それとも行かないのか」という問いが降りてくる。
大会に向かって準備を続ける中で、その問いとどう付き合うのか。
すぐに答えを出せる人もいれば、ギリギリまで決められない人もいる。
「黙って参加する」のも、ひとつの選択。
「声を上げて不参加を表明する」のも、ひとつの選択。
「参加しながら、自分にできる形のメッセージを考える」のも、また別の選択。
どの道を選ぶにせよ、そこには「自分の責任で決める」という重さがある。
- 世界のサッカーニュースを読むとき「もし自分がその選手だったら?」と問いかけてみる——遠い出来事も「自分ならどう選ぶか」という問いに変えると、判断力を育てる素材になる
- 「選手に罪はない」で話を終わらせず「その選手がどう考えたか」に興味を持つ——参加した選手の葛藤や覚悟を想像しながら観ると、プレーの見え方が変わる
- 海外遠征や合宿で「なんとなく引っかかる」ことがあれば信頼できる大人に話す——モヤモヤを言葉にして相談する一歩は、ワールドカップを巡る選手たちの葛藤と地続きの経験
日本で、この問いはどう受け止められるだろうか

では、日本代表や日本の選手だったら、どう考えるだろう。
日本でも、ロシア大会やカタール大会のたびに開催国の問題は報じられた。
ただ、ボイコット論が現実的な政治課題として本格的に議論されたことはほとんどない。
「せっかく出場権を取ったのに、行かないなんてありえない」
「選手に罪はない」
そんな言葉で、話が終わってしまうことが多い。
もちろん、それも一つの考え方だ。
けれど、「選手に罪はない」からこそ、選手自身がどう考えるかを尊重する、という視点もあり得るはずだ。
もし日本代表のある選手が、2026年のアメリカ大会に対して強い疑問を持ち、
「自分は今回、参加したくない」
と言ったとしたら、私たちはどう受け止めるだろう。
- 代表を裏切った、と批判するのか
- ひとりの人間としての判断だと受け止めるのか
- その選択に納得できなくても、「なぜそう思ったのか」を聞こうとするのか
逆に、深く考えた末に、
「それでも自分は、ピッチの上でプレーすることを選ぶ」
と決断した選手がいたら、その迷いと葛藤を想像しながら、そのプレーを見ることはできるだろうか。
ボイコットするかしないかという「結論」だけを見るのではなく、その前にあったプロセスを想像すること。
そこにこそ、サッカーを通して「考える力」を養う余地があるのかもしれない。
若い選手たちにとっての「遠い問題」と「身近な問い」
世界のニュースと、自分のグラウンドがつながる瞬間
アメリカの移民政策、南米の軍事介入、北欧のボイコット議論。
一見すると、日本でボールを蹴る小中高生、大学生、Jリーグを目指す選手たちには、遠いニュースに思えるかもしれない。
でも、少し角度を変えると、この話は急に身近な問いに変わる。
たとえば、自分のチームが海外遠征に行くことになったとする。
その国では、ニュースで耳にするような人権問題や差別の問題があるかもしれない。
指導者や保護者は「サッカーの成長のために、いい経験になる」と考えている。
チームメイトの多くも、楽しみにしている。
でも、自分はなんとなく、引っかかるものを感じている。
そのとき、どうするだろう。
- 何も言わずについていく
- 信頼できる大人に、自分のモヤモヤを相談してみる
- 自分なりにその国のことを調べ、納得してから参加するかどうか決める
正解はひとつではない。
ただ、「どう感じているのか」「なぜ引っかかっているのか」を自分の言葉で整理してみること。
それを誰かに伝えてみること。
その小さな一歩は、ワールドカップのボイコットをめぐる壮大な議論とも、どこかで地続きになっている。
「サッカーだけしていればいい」のか、「サッカーを通して考える」のか
プロの世界でも、育成年代でも、「サッカーだけに集中しろ」という言葉はよく聞かれる。
確かに、トップレベルを目指すうえで、フットボールに多くの時間とエネルギーを注ぐことは欠かせない。
一方で、ピッチの外の現実から完全に目を閉じることが、果たして本当に選手を守ることになるのかどうかは、簡単に決めつけられない。
ボイコットをめぐる議論は、選手に政治思想を押しつける話ではない。
むしろ、
- 自分は何に違和感を覚えるのか
- 自分は何を大事にしたいのか
- そのうえで、どんな選択をするのか
という問いを、自分自身に返してくれるきっかけになる。
それは、サッカーのプレーに近い。
ボールを受ける前に、周りを見て、選択肢を数える。
リスクとリターンを天秤にかけながら、「自分はどのプレーを選ぶのか」を決める。
ワールドカップへの参加、不参加という大きな決断も、根っこは同じなのかもしれない。
結論を急がず、「もし自分だったら」と問い続ける
ボイコットの成否よりも、大切なこと
2026年のワールドカップが実際にボイコットされるかどうかは、まだ誰にも分からない。
ボイコットが実現したとしても、それで世界情勢が劇的に変わるわけではないかもしれない。
それでも、意味があるとしたら、どこにあるだろう。
おそらく、それは
- 「なぜこの大会に参加するのか(しないのか)」を、各国、各協会、各選手が言葉にしようとすること
- サッカーが、単なる娯楽ではなく、社会とつながった営みであることを、改めて意識すること
そのプロセス自体にあるのではないだろうか。
そして、それを見ている側の私たちも、同じ問いを自分に向けることができる。
もし自分が、代表候補のひとりだったら。
もし自分が、その選手の親だったら。
もし自分が、その選手を指導する立場だったら。
何を大切にして、どんな選択を後押しするだろう。
答えのない問いと、サッカーのこれから
ボイコットするべきか、しないべきか。
この問いに「これが正解だ」と言い切ることは、きっと誰にもできない。
でも、「自分ならどう考えるか」を止めずに問い続けることはできる。
ピッチの上でも、ピッチの外でも。
相手、味方、状況、自分の気持ち。
それらを見つめ直しながら、ひとつひとつの判断を積み重ねていく。
ボールひとつ、パスひとつに迷いながら成長していく選手と同じように、サッカーというスポーツもまた、世界の中で揺れながら、選択を迫られているのかもしれない。
2026年のワールドカップをめぐる議論は、その揺れの一場面に過ぎない。
そこで出された答えよりも、その過程で生まれた無数の問いが、これからサッカーをする人、サッカーを見る人の心の中で、静かに生き続けていく。
そしていつか、自分自身が何かを選ばなければならない瞬間に、その問いが、そっと背中を押してくれるかもしれない。
