FIFAが動かす"1兆5000億円の構想"——ワールドカップの民間開放は、サッカーを誰のものにするのか
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ワールドカップは、誰のものか
サッカーの試合が始まる前、スタジアムにはいつも、言葉では説明しにくい空気が流れる。
選手たちがウォームアップをこなし、観客が席を埋め、子どもたちが首を伸ばしてピッチを見つめる。
その瞬間に漂うものは、スコアボードにも、放映権料にも、どこにも数字では表れない。
それでも最近、サッカーを巡る議論の中心には、ますます大きな数字が置かれるようになった。
2025年、国際サッカー連盟(FIFA)が新たな構想を打ち出した。
ワールドカップを含む自団体の大会運営を担う新会社を設立し、そこに民間の投資を受け入れるというものだ。
総額100億ドル(約1兆5000億円)を超える「サッカー発展基金」の拡充を謳い、各加盟国には最大2000万ドルの資本が提供されるとも示された。
FIFAは211の加盟国の投票で最終的な承認を得る必要があるとしており、計画はまだ流動的だ。
しかしこの動きに対し、欧州サッカー連盟(UEFA)やイングランドのアンディ・バーナム首相が強く反発した。
「フットボールは投資家のものではない。スタンドを埋め、雨の日もタッチラインに立ち続ける人たちのものだ」と、バーナム首相は自身のSNSで記した。
「誰も所有者ではない」という言葉の重さ
UEFAが声明の中で使った一節が、ひとつの問いとして残り続ける。
「私たちの誰もフットボールの所有者ではない」。
この言葉は、FIFA批判として発せられたものだ。
だが読み返すほどに、その射程距離が広がっていく気がする。
ワールドカップという舞台が民間資本と結びつくことへの是非は、専門家の間でも見解が分かれる。
フットボール財務の専門家は、FIFAにとって新たな収益機会となりうる一方、投資家の利益を満たすために大会の規模や開催頻度が拡大していく圧力が生まれると指摘する。
64チームへの拡大、2年ごとの開催、冬季開催の可能性。
それらはすでに国内リーグや選手の体に重くのしかかっているカレンダーを、さらに圧迫しかねない。
利益は誰に届き、負担は誰が引き受けるのか。
その問いに対して、まだ明確な答えは出ていない。
「グローバルな発展」という言葉と、その裏側
FIFAのジャンニ・インファンティーノ会長はこう述べた。
サッカーの人気が生み出した商業的な価値は称賛されるべきであり、それをまだ恩恵を受けていない地域へと広げることが自分たちの使命だ、と。
確かに、2000万ドルという数字はイングランドのトップクラブにとっては小さな金額かもしれない。
しかし世界の多くの国にとって、それは育成環境を一変させるほどの規模になりえる。
この非対称性がある限り、全会一致の理解は難しい。
豊かな国のクラブにとっての「リスク」と、発展途上の国の協会にとっての「機会」が、同じ言葉でくくられているからだ。
だからこそ、211の加盟国がどのような判断を下すかは、単純な賛否では語れない問題をはらんでいる。
ピッチの外で起きていること、ピッチの中にいる者への影響
この話題が、選手個人とは遠い場所での出来事に見えるかもしれない。
政治と資本とガバナンス。日々練習に取り組む選手にとって、それは抽象的な世界の話だろう。
しかし、ワールドカップが2年ごとに開催されるようになったとき、選手の体と心はどう変わるか。
大会の規模が膨らむほど、出場できる国は増えるかもしれないが、その一方でトーナメント全体の密度や緊張感はどこへ向かうのか。
もし自分が代表チームの中心選手だったとしたら、どんな未来を望むだろう。
「4年に一度だからこそ、あの舞台は特別だった」という感覚は、どこかに消えていくのだろうか。
あるいは、もっと多くの選手が夢の舞台に立てる世界の方が、サッカーにとって豊かなのだろうか。
答えは一つではない。
そしてその答えを、どこかの会議室だけが決めていいのかどうかも、問われている。
| 立場 | 構想への姿勢 | 主な論拠 | 抱える懸念 | 評価 |
|---|---|---|---|---|
| FIFA(インファンティーノ会長) | 推進 | 商業的価値をまだ恩恵を受けていない地域へ広げる | 透明性・独走への批判 | ○ |
| UEFA | 反対 | 「誰もフットボールの所有者ではない」 | 投資家主導への懸念 | △ |
| アンディ・バーナム英首相 | 反対 | フットボールはスタンドを埋める人たちのもの | 商業化への警戒 | △ |
| 発展途上国のサッカー協会 | 期待 | 最大2000万ドルは育成環境を一変させる規模になりうる | 豊かな国との非対称な恩恵構造 | ○ |
| 日本サッカー協会(JFA) | 困惑 | 発表について事前に知らされていなかった | 意思決定プロセスの不透明さ | △ |
| 代表クラスの選手 | 不透明 | 大会規模拡大がカレンダーと心身を圧迫しかねない | 4年に一度の特別感の喪失 | △ |
- 選択肢を可視化して見せる — 「選ばせる」前に、実際に何を選べるのかを子どもに具体的に説明する
- 決定プロセスを事後でも共有する — 誰が何を、どんな順番で決めたのかを言葉にして伝える
- 負荷の変化に目を配る — 試合数や大会規模の変化が選手の心身に与える影響を日々の練習量で調整する
日本サッカーにとって「遠い話」ではない理由
日本の視点からこの問題を見るとき、ひとつ気になることがある。
日本サッカー協会(JFA)は今回の発表について、事前に知らされていなかったと述べた。
それはFIFAの加盟国のひとつとして、211の投票権のひとつを持つ立場でありながら、計画が公表されるまで蚊帳の外に置かれていたことを意味する。
これはFIFAの意思決定の構造に関わる話でもある。
何百もの国が加盟する組織で、本当に全員が対等に「選ぶ」立場にいるのかどうか。
決定がなされる前に、情報はどのように、どの順序で共有されるのか。
育成の現場においても、似たような問いが生まれることがある。
子どもたちが自分の意見を言える前に、大人の側で物事が決まっていないか。
「選ばせる」と言いながら、選択肢は最初から絞られていないか。
構造そのものを問い直す視点は、どんな規模の組織にも共通して必要になる。
フットボールが示す、静かな問いかけ
今回の構想が最終的にどうなるかは、まだ誰にもわからない。
FIFA議会での投票は早くても来年春以降と見られており、各加盟国や利害関係者がどのような判断を示すかによって、話は大きく変わりうる。
ただ、ひとつ確かなことがある。
これがヨーロッパスーパーリーグ構想と並ぶほどの衝撃として受け止められているという事実だ。
あの時も、世界中のサポーターが「サッカーは誰のものか」と声を上げた。
そしてあの時、選手たちもまた、自分たちが何のためにプレーしているのかを問い直した。
大きな力が動くとき、個人の声は小さく見える。
しかし歴史を振り返れば、その小さな声の積み重ねが、方向を変えてきた場面も少なくない。
スタジアムに流れる、言葉にならない空気。
子どもが初めてボールを蹴ったときの顔。
雨の日もタッチラインに立ち続ける人たちの存在。
それらはどんな数字にも変換されないが、確かにフットボールを支えてきた何かだ。
その「何か」が今、静かに問われている。
あなたにとって、サッカーとは何のためにあるものだろうか。
その問いに、すぐに答えを出す必要はない。
でも、いつか自分の言葉で答えを持てるようになるために、今は少しだけ立ち止まって考えてみることが、一番大切なことかもしれない。
- 大会の背景を親子で話す — 開催規模や頻度が変わるニュースを見たら、なぜそうなったのかを一緒に考えてみる
- 「特別さ」を言葉にしてみる — 4年に一度という大会の重みを、子ども自身の言葉で説明させてみる
- お金の話を単純化しない — 大きな数字のニュースを見たとき、誰が得て誰が負担するのかを話し合う
観戦者としてではなく、ピッチの上で長くボールを追ってきた時期があった人間として、この構想を巡る記事を読んだ。大きな数字が動くとき、現場でボールを蹴ってきた選手や指導者の実感が、決定が下される場所まで届いているようには、あまり感じられなかった。
もちろん、皆さんが見てきた組織やクラブの意思決定の場が、必ずしもそうだったとは限らない。それでも少しだけ、自分の知らないところで何かが静かに決まっていくとしたら、という感覚を、思い浮かべてみてほしい。