FIFA会長インファンティーノの決断から問い直す、サッカーと権力とお金との向き合い方
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FIFA会長インファンティーノと「サッカーを動かす人」が抱える、静かな問い

拍手の方向は、どこを向いているのか
巨大なスクリーンの前で、ひとりの男が頭をわずかに下げて拍手を送っている。
画面には、世界中の211のサッカー協会の会長たちの顔が並ぶ。
その男は、FIFA会長ジャンニ・インファンティーノ。
その場で決まったのは、2034年ワールドカップの開催地・サウジアラビアだった。
その瞬間に居合わせた人たちは、違和感と現実感を同時に味わったはずだ。
「本当に、これでいいのか。」
けれど、拍手は鳴り止まない。
トロフィーを掲げる選手の姿とは違う、もう一つのサッカーの現場。
そこでは、ボールではなく「お金」と「影響力」が主役になっている。
この物語は、その世界の中心に立つインファンティーノの話だ。
だが、ここで考えたいのは、彼個人の善悪ではない。
「権力を持つ人は、どんな選択肢の中から、どうやって決めているのか。」
そして「自分がチームのキャプテンだったら、監督だったら、どう選ぶだろうか。」
そんな問いを、読んでいる一人ひとりのサッカーに少しだけ持ち帰ってみたい。
| 観点 | 就任時の公約 | 実際の行動 | 評価 |
|---|---|---|---|
| 監視体制 | 211協会への財務監査・倫理委員会強化 | 倫理委員会の要職が次々辞任・更迭 | △ 変化 |
| 資金配分 | FIFAのお金は全協会のためと宣言 | お金を配る権限を会長が集約 | △ 変化 |
| 透明性 | 会長報酬を公開する約束 | プライベートジェット利用・CO₂排出が大量に判明 | △ 変化 |
| 開催地選定 | 公正な審査プロセスを示唆 | カタール・サウジアラビアが相次いで選出 | △ 変化 |
| 環境対応 | COP28/COP29に環境担当として出席 | 4年間で60万km移動・約1900トンのCO₂排出 | △ 変化 |
| 組織構造 | 民主的な意思決定 | 事務総長が会長直属に変更・規約変更が次々承認 | △ 変化 |
改革者として現れた男が、なぜ「元の姿」に近づいていくのか
2016年、スイス生まれのインファンティーノは、汚職スキャンダルで揺れるFIFAの新会長に就任した。
前会長ジョゼフ・ブラッターと同じ山あいの地域で育ち、かつてはUEFAチャンピオンズリーグの抽選会でボールを引いていた、あのスキンヘッドの司会者だ。
就任当初、彼は「改革」を強く打ち出した。
・会長の任期を最長12年に制限する
・女性の代表を増やす
・211の協会すべてに対する財務監査
・会長自身の報酬を公開する
そんな約束を掲げ、「FIFAのイメージを取り戻す」と宣言した。
「FIFAのお金は、皆さんのためのお金だ。」
そう言いながら、世界中の協会に対して「これまで以上の資金」を約束していった。
そこで、ひとつの構図が生まれる。
お金を配る側と、受け取る側。
政治の世界なら見慣れた光景かもしれない。
けれど、サッカー協会の会長たちも、クラブの会長も、地域の協会の理事も、究極的には「選手のため」に存在しているはずの人たちだ。
インファンティーノの改革は、本当にその方向を向いていたのだろうか。
ここに、ひとつの「分かれ道」があったように見える。
・FIFAそのものを厳しくチェックする仕組みを強めるのか
・それとも、お金を増やし、配る権限を強めるのか
インファンティーノが選んだのは、後者に近い道だった。
倫理委員会の要職を担っていたハンス=ヨアヒム・エッカートやコーネル・ボルベリ、会計監査を担うドメニコ・スカラが組織を去っていく。
報道によれば、その背景には会長報酬への異議や、ロシア側の理事再選を止めた判断など、インファンティーノと衝突した決定があったとされる。
「監視する側」が次々といなくなるということは、どういう状態なのか。
チームで言えば、ミーティングで意見をぶつけてくるコーチや、厳しい分析をするアナリストがいなくなり、監督の言うことに疑問をはさむ人が消えていく状態に近い。
プレーのクオリティは、すぐには落ちないかもしれない。
むしろ、短期的には「まとまっている」ようにさえ見えるだろう。
けれど、誰も間違いを指摘しないチームは、本当に強くなっていくのだろうか。
- 意見をぶつけてくるコーチやアナリストの役割を守る — 監督の言うことに疑問を挟む人がいなくなったチームは短期的にはまとまって見えるが長期的に弱くなる。批判的な意見をチームの財産として扱う
- 年間スケジュールを選手と一緒に見直す時間を取る — 「上から決まったこと」として受け入れるだけでなく、選手が自分たちで選ぶ経験を積む機会を設ける
- 権力やお金と関わる際に「なぜか」を言葉にする — スポンサー・行政・クラブとの関係において、どんな支援を受けてどこに線を引くかを自分たちの言葉で語れる状態を保つ
サッカーの「お金」と「誇り」は、どこでぶつかるのか
ワールドカップは、巨大なお金を動かす装置になっている。
カタール大会の4年間のサイクルで、FIFAは約75億ドルを得たとされる。
2026年大会では、その数字が110億ドル規模にまで膨らむ見込みだという。
これだけの資金は、世界の多くのサッカー協会にとって、まさに「生命線」だ。
・グラウンド整備
・育成年代のリーグ運営
・女子サッカーの立ち上げ
・指導者講習や審判育成
そうした現場の活動は、多くの国でFIFAからの資金に依存している。
だからこそ、多くの協会がインファンティーノを支持する。
資金が増えること自体を、単純に「悪」と切り捨てるのは簡単ではない。
問題は、その資金がどんな条件で配られ、どんな対価が求められているのか、という点にある。
例えば、カタールやサウジアラビアといった開催国の決定。
そこには、移民労働者の権利、人権問題、労働環境といったテーマが絡み合う。
カタールでは「カファラ制度」と呼ばれる仕組みのもと、多くの移民労働者がパスポートを取り上げられ、低賃金で働かされていた。
人権団体やメディアは、その実態を数年にわたり調査し続けた。
「制度は改革された」との発表は出たものの、現場ではほとんど変わっていないという証言も多い。
その中でFIFAが設けたのが、「ワールドカップ・レガシー基金」だった。
だが、そのお金は、カタールで働いていた労働者への直接的な補償ではなく、国際機関を通じた社会プログラムに使われると発表されている。
「責任のとり方」として、それで十分なのか。
サッカーそのものは、世界中の人々に夢を与えつづけている。
一方で、その舞台裏では、誰かの命と引き換えにスタジアムが建ち、大会が行われている可能性もある。
選手として、指導者として、あるいはサポーターとして。
無邪気にボールを追いかけたい気持ちと、そうした現実をどう折り合いをつけるのか。
そこには簡単な答えはない。
ただ、「知らないまま」でいるのか、「知った上で、なおサッカーを選ぶ」のか。
その違いは、小さく見えて実は大きいのかもしれない。
- チームの決定に疑問を持つ習慣を持つ — 過密スケジュールや勝利至上主義的な方針に直面したとき、「本当にそれが必要か」と問い直す姿勢が自分のサッカーを守る
- 世界のニュースをピッチの自分に引き寄せて読む — FIFAで起きていることは、スポンサーとのクラブ関係や育成年代の選考基準など、身近なサッカーに構造として重なる
- 答えを急がずに問いを持ち続ける — 「FIFAは腐っている」と断ち切るのではなく、「それでも自分はサッカーを好きでいるか」を問い続けることがサッカーを観る力・考える力を育てる
飛行機の窓から見えないものを、ピッチの上では見えるか

報道によれば、インファンティーノはカタールが所有するプライベートジェット機で世界中を飛び回っている。
2021年から2024年の間だけで、60万キロ以上を移動し、およそ1900トンを超えるCO₂を排出したと試算されている。
地球温暖化の影響を強く受けるオセアニアで女子ワールドカップを開催していた同じ時期に、彼は「住んでいるように」空を移動していた。
その一方で、気候変動対策の国際会議COP28やCOP29の場には「環境問題に取り組むFIFA会長」として姿を見せる。
この矛盾を、どう受け止めればいいのか。
一人の人間としての生活スタイルと、組織として掲げる理念の間で、常に完璧でいられる人はいないだろう。
選手にも同じことが言える。
トレーニングでは「チームのために走ろう」と言い、ミーティングでは「守備の責任」を口にする。
でも、90分の中でふと足が止まる瞬間がある。
あのとき、なぜ走れなかったのか。
疲れていたからか。
ボールが来ないことへの不満か。
相手の実力に気持ちが折れかけていたのか。
そうした「ズレ」を、自分で自分に問い直すことができるかどうか。
インファンティーノの行動を批判することは簡単だ。
だが、同じ構造は、もっと小さなスケールで日々のサッカーにも現れている。
・口ではチームのためと言いながら、実際は自分のゴール数ばかり気にしていないか
・「育成のため」と言いつつ、目先の勝利だけを追いかけて選手を交代させていないか
・協会やクラブとして「地域のため」と掲げながら、本当はスポンサーの顔色だけ見ていないか
世界の頂点で起きていることは、鏡のように私たちの足元を映している部分もある。
権力と距離をどうとるかという「ポジショニング」の話
インファンティーノは、政治的なリーダーたちとも深く結びついている。
ロシアのプーチン大統領から「友好勲章」を授与され、ルワンダのカガメ大統領とは何度も会談し、アゼルバイジャンやカタール、サウジアラビアの指導者たちと並んで写真に収まる。
そして最近では、アメリカのドナルド・トランプ前大統領との親密な関係が話題になっている。
トランプの勝利演説の中でFIFAに言及されたことを、「FIFAが最大限に尊重されている証」と喜んだと報じられている。
権力者の隣に立つことは、サッカーにとって本当にプラスなのか。
それとも、サッカーが誰かのイメージアップに利用されているだけなのか。
この問いは、規模を変えれば日本でも起きうる話だ。
・自治体の首長とクラブ
・スポンサー企業と育成年代のチーム
・学校の部活動と地域クラブ
多くの現場で、サッカーは「誰かにとって都合の良い道具」にされるリスクを抱えている。
では、完全に距離を置けばいいのかと言えば、それもまた現実的ではない。
グラウンドをつくるには土地が必要だし、リーグを回すにはお金がいる。
選ばなければならないのは、「誰と」「どの距離感で」関わるのかというポジショニングだ。
選手で言えば、ピッチ上でのポジショニングを選ぶようなものでもある。
・相手CBの背後ぎりぎりに立って、一発を狙うのか
・中盤に降りてボールに多く関わるのか
・サイドに開いて、1対1を仕掛けるのか
どのポジションも、一長一短がある。
重要なのは「なぜそこを選んだのか」を自分なりに言葉にできることだ。
クラブとして、チームとして、あるいは個人として。
権力やお金とどう距離を取るのか。
その選択を、誰かに任せきりにせず、自分たちの言葉で語れているかどうか。
「文句を言う側」ではなく、「選ぶ側」になるということ
バンコクで開かれた第74回FIFA総会では、将来の女子ワールドカップ開催地や、FIFAの組織構造に関わる重要な規約変更が次々と決まっていった。
・FIFAの事務総長が会長直属になる
・同時に複数のワールドカップ開催国を決定できる
・FIFA本部がチューリヒ以外に移転する可能性
こうした変更は、多くの加盟協会から大きな反対を受けることなく承認されたと報じられている。
同時に、女子15歳以下の世界大会構想や、レジェンドたちによるワールドカップ構想など、華やかなアイデアも披露される。
そこには、「現場の声」と「権力を持つ側の都合」の微妙なズレが透けて見える。
選手や指導者としても、似たような局面は日常的に訪れる。
・リーグ戦の日程が過密でも、「上から決まったことだから」と受け入れるか
・トレセンの選考基準にモヤモヤしても、「仕方ない」と流すか
・チーム方針に疑問があっても、「言っても変わらない」と黙るか
もちろん、すべてに反発していてはチームにならない。
ただ、「いつも受け身でいる」ことに慣れてしまうと、いざ本当に譲れない場面でも、自分の意見を持てなくなる。
FIFAの会議で、ほとんどの協会が沈黙する構図は、そうした「慣れ」が極端に現れた姿にも見える。
日本の現場で、私たちはどうだろう。
・自分のチームの年間スケジュールを、選手と一緒に見直す時間を取れているか
・保護者と、「何を大事に育てたいのか」を話し合う場をつくれているか
・選手自身が「この大会は本気で勝ちにいく」「ここはあえてチャレンジする」と選べているか
「言われた通りにやる」だけのサッカーから、「自分たちで選ぶ」サッカーへ。
FIFAのニュースは遠くの話に見えるが、実は、そうした変化を促す鏡としても読むことができる。
日本ではこの現実をどう受け止めるか
日本の選手や保護者、指導者にとって、インファンティーノの行動はどんな意味を持つのだろうか。
・ワールドカップの規模拡大
・クラブワールドカップの巨大化
・中東やアメリカを中心としたマネーゲームの加速
これらは、Jリーグや日本代表、アジアの国際大会の価値にもじわじわ影響していく。
日本のクラブは、海外ツアーやスポンサーシップで、こうした流れに巻き込まれていくかもしれない。
そこで問われるのは、「世界の潮流にどう向き合うか」という選択だ。
・何も考えずに、金銭的なメリットを追いかけるのか
・すべてを拒絶して、「きれいごと」だけを守ろうとするのか
・それとも、現実を直視しながら、自分たちなりの線引きを探すのか
日本のサッカー文化には、「調和を大事にする」「周囲に迷惑をかけない」といった価値観が強くある。
それ自体は美点でもあるが、ときに「何も言わない」「何も選ばない」ことにもつながりうる。
例えば、子どものサッカーの現場。
・移動距離が大きすぎる遠征
・過密なスケジュール
・勝利至上主義的なチーム作り
そうした現実に直面したとき、「本当にそれが必要なのか」と問い直す勇気を持てるだろうか。
世界のFIFA会長がどんな判断をしているかと同じくらい、「自分たちの身近なサッカーを、どう選び直すか」が重要になってくる。
すぐに答えを出さないで、問いを持ち続けるという選択
インファンティーノの物語には、「権力」「お金」「イメージ」「利用」「沈黙」といった言葉がつきまとう。
そこには、多くの問題があるだろう。
だからといって、「FIFAは腐っている」「ワールドカップなんて見ない」と断ち切ることが、本当に自分のサッカーを豊かにしてくれるだろうか。
もしかしたら、もっと大切なのは、こうしたニュースに触れたときに、すぐ答えを決めつけないことかもしれない。
・なぜ、この国が開催地に選ばれたのか
・その裏で、誰が、どんな代償を払っているのか
・それでも自分はサッカーを好きでいる、と言えるのか
・自分のチームでは、何を大切にすると決めたいのか
サッカーは、90分の中で無数の「判断」と「選択」が積み重なってできている。
・パスをつけるか、運ぶか、シュートを打つか
・寄せるか、待つか、ラインを下げるか
・声をかけるか、黙って見守るか
世界のどこかで、1本のペンを握った誰かが、何十億円というお金を動かし、開催地を決めている。
その一方で、週末の土のグラウンドでも、小学生が一歩足を踏み出すかどうかを迷っている。
どちらも、「サッカーを動かす選択」だ。
インファンティーノというひとりの会長の言動をきっかけに、自分自身に返ってくる問いがある。
・自分がキャプテンだったら、どんなチームにしたいか
・自分が指導者だったら、どんな大会には出て、どんな大会は断るか
・自分が協会の立場なら、どんな支援は受けて、どこに線を引くか
その問いに、今すぐ答えを出す必要はない。
ただ、ボールを追いながら、たまに立ち止まって考えてみる。
「自分なら、どう選ぶだろう」と。
世界のサッカーの頂点で行われている決断と、日々の練習での小さな判断は、まったく違うようでいて、どこかでつながっている。
そのつながりに気づこうとする視線自体が、サッカーを「観る力」と「考える力」を、少しずつ育てていくのかもしれない。
ピッチの中でも外でも、最後にボールを蹴るのは、いつだって自分自身なのだから。