青いスタンドが問いかけるもの──誰をスポーツの物語に招き入れるのか
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青く染まったスタンドから考える「見る人」の力

スペイン代表対ウクライナ代表、バスケットボールの世界予選。
会場はオビエドのパラシオ・デ・ロス・デポルテス。
その一角だけが、特別な「青」に染まっていました。
スポンサーであるCaixaBankが企画した「グラダ・ソリダリア(連帯のスタンド)」。
アストゥリアス州の社会団体から、164人の人たちが招待され、代表戦というトップレベルの舞台を体験しました。
ダウン症のある人たち、知的障がいのある人たち、精神的な困難を抱える人たち、ウクライナからの避難民、貧困や排除のリスクにある子どもたち、車いすバスケットの選手たち、骨系統疾患と向き合う人たち。
彼らは試合だけではなく、前日のトレーニング見学や、試合後のVIPゾーン訪問、スタッフとの交流など、「一日まるごと」スポーツを味わう時間を過ごしています。
この出来事はバスケットボールの話です。
けれど、この「青いスタンド」から立ち上がってくる問いは、そのままサッカーにも重なっていきます。
プレーする人だけでなく、「見る人」「支える人」がどう関わるか。
そこに、どんな選択の余地があるのか。
「見る人」をどう招き入れるかという選択
スタンドは、誰のための場所なのか
CaixaBankは2013年からスペインバスケットボール連盟(FEB)を支え、代表チームのスポンサーとして、男女、年代別を問わず関わり続けています。
さらに、車いすバスケットボールの連盟も支え、全国各地のクラブや育成年代にも目を向けています。
その活動の一つが「グラダ・ソリダリア」。
2024年に再スタートしてからは、スペイン各地で55以上の団体、2,350人以上の人たちが、この特別なスタンドを経験してきました。
代表戦という「非日常」の場に、普段スポーツを見に来ることが難しい人たちを招く。
しかも、ただ席を用意するだけではなく、トレーニングの見学、VIPエリアの見学、スタッフやレジェンドとの交流など、「内側」に一歩踏み込める仕掛けを用意している。
ここには、ひとつの問いが潜んでいます。
スタジアムやアリーナは、誰のための場所なのか。
チケット代を払える人だけのものなのか。
移動手段や体力に問題がない人だけのものなのか。
それとも、もう少し広く「社会全体の場所」として考える余地があるのか。
オビエドの青いスタンドは、ひとつの答えではなく、ひとつの「試み」と言えます。
通常なら来られない人たちを招き入れてみる。
新しい観客を増やすというよりも、「今までスタンドにいなかった社会の一部」を、意識的に座らせてみる。
この選択の裏側には、「競技の強さ」や「勝敗」だけでは測れない、スポーツの意味を考え直す視点があります。
プレーだけでなく「プロセス」を見せるという判断
| 関わり方 | 対象者 | 具体例 | 意義 |
|---|---|---|---|
| 観戦する | 一般サポーター | チケットを購入してスタジアムへ | ○ 基本の関わり方 |
| 招かれて観戦する | 社会的に孤立しやすい人たち | 障がいのある人・避難民・貧困家庭の子ども | ◎ 新しい物語をスタンドに加える |
| プロセスを見る | 招待者・ファン | トレーニング見学・VIPゾーン訪問・スタッフとの交流 | ◎ 「結果」以外の価値を共有できる |
| ボランティアとして支える | プレーしない人・引退選手 | 試合運営・大会スタッフ・地域イベントの補助 | ○ 関わり方の選択肢を広げる |
| 街に出向く形で参加する | 地域住民・未接触層 | ストリート大会・商店街イベント・校庭での体験会 | △ インフラ制約があるが可能性は大きい |
トレーニング公開にあるメッセージ
今回の企画の特徴は、試合当日だけでなく、「前日から始まっている」ことです。
トレーニングの見学。
スタッフとの対話。
それらをセットで提供している。
表舞台である試合は、言ってしまえば「結果」や「表現」の部分です。
でも、チームがそこで表現するためには、日々の準備、ミーティング、リカバリー、移動、さまざまな過程がある。
その一部を見せることで、「スポーツ=90分(40分)だけのもの」というイメージが、少し崩れていきます。
ここで起きているのは、「答えだけでなく、途中経過も共有する」という選択です。
日本のサッカーでも、トップクラブや代表チームが、練習を部分的に公開することがあります。
ファンサービスの側面もありますが、そこに「プロセスを見せる」意味をどれだけ意識できるか。
自分が選手だとしたら。
あるいは指導者だとしたら。
どこまでを見せたいか、どこからを見せたくないか。
その線引きには、価値観や覚悟が表れます。
結果だけ見てほしいのか。
過程も含めて、一緒に味わってほしいのか。
オビエドでの代表チームは、少なくとも一部の人たちに対して、プロセスを開いた。
それは同時に、自分たちの準備の姿を見られるリスクも受け入れることです。
それでも公開する理由を、チームはどのように考えているのか。
そこに思いを馳せてみると、私たち自身の「見せ方」「隠し方」にも、問いが返ってきます。
「弱さ」と一緒にスタンドに座るということ
- 練習を「開く」選択肢を持つ — トレーニングの部分公開は、答えだけでなく途中経過を共有する行為。保護者や地域住民が準備の現場を見ることで、サッカーへの理解と信頼が深まる
- プレーしない子どもに役割をつくる — ケガや特性で試合に出られない選手に「ボランティア」「スコア記録」「映像撮影」などの関わり方を用意することで、チームへの帰属感を保てる
- 「うちのチームは誰の物語を背負うか」を問い直す — 地域の家計的に厳しい家庭の子どもや障がいのある子どもが、本物の試合を見に来る機会をどれだけ持てているかを定期的に考える
スポーツは誰の「物語」を背負うのか
今回招待された団体の多くは、「弱さ」や「生きづらさ」と向き合っています。
ダウン症や知的障がい。
精神的な疾患や、「障がい」と名づけられる状態。
戦争から逃れてきた人たち。
貧困や家庭環境によって、サッカーやバスケットボールに触れる機会が少ない子どもたち。
車いすでプレーする選手たち。
彼らがスタンドに座るとき、その身体と心、その過去と現在も、一緒にスタジアムに入ってきます。
スポーツ観戦は、ただ「上手いプレーを見て楽しむ時間」ではなく、「いろいろな人生が一時的に交差する場」に変わる。
日本のスタジアムやグラウンドは、今どうでしょうか。
車いすの人は、どこに座れるか。
発達特性のある子どもが、大きな音や光に敏感だったとき、どう配慮されているか。
家計的に厳しい家庭の子どもが、「本物」を見に行く機会をどれだけ持てているか。
すべてを一度に変えることはできません。
けれど、「誰をスタジアムに招き入れるか」という問いを持ち続けるかどうかで、少しずつ景色は変わっていきます。
オビエドの企画は、スポンサー主導の取り組みです。
しかし、その根本にあるのは、「この競技は、どんな人たちの物語を背負うのか」という問いかけに見えます。
もし自分がクラブ関係者だったら。
あるいは保護者だったら。
「うちのクラブ」「うちのチーム」は、どんな人の物語をスタンドに招きたいだろうか。
そこから逆算して、どんな仕組みや企画が必要になるのか。
ボランティア25,000人が示す「関わり方の多様さ」
- スタジアムは様々な人生が交差する場所 — 観戦は「上手いプレーを楽しむ時間」だけでなく、障がいのある人・難民・貧困家庭の子どもなど多様な背景を持つ人が同じ方向を向く場でもある。その多様さ自体に価値がある
- 自分からスポーツに来られない人がいる現実を知る — チケット代・移動手段・音や光への感受性など、さまざまな理由でスタジアムに来られない人がいる。わが子に「スポーツを見に行ける環境」があることの意味を一緒に考えてみよう
- プレー以外の関わり方を選んでもいい — サッカーを続けるか迷っている子どもには、ボランティアや運営スタッフとして関わる形もある。「やめる」と「続ける」以外の選択肢を示せると、スポーツとの縁が長く続く
プレーしない人の役割をどう捉えるか
CaixaBankとスペインバスケットボール連盟は、2014年の男子ワールドカップをきっかけに、「Voluntarios FEB CaixaBank」というボランティアプログラムを始めました。
大会だけで終わらせず、その後も継続。
今では約2万5千人のボランティアが、スペイン国内のさまざまなイベントを支えています。
ここにも、「選手ではない人の関わり方」を広げる発想があります。
日本のサッカーでも、ボランティアは珍しい存在ではありません。
Jリーグの試合運営、地域リーグ、ユース大会、少年サッカーのフェスティバル。
多くの場が、無償あるいは低い報酬で動いてくれる人たちに支えられています。
けれど、「ボランティア」と聞いたとき、どんなイメージを持つでしょうか。
義務感でしょうか。
「手伝ってあげる」という上から目線でしょうか。
それとも、自分自身がスポーツと関わる一つの「選び方」として、主体的なものとして捉えられているでしょうか。
スペインのボランティアプログラムは、「コミュニティ」としての側面を大切にしているようです。
イベントを支える仲間として出会い、学び、経験を分かち合う。
そこに参加すること自体が、一つの「スポーツとの関わり方」になっている。
プレーするだけがスポーツではない。
見るだけがスポーツでもない。
支える、運営する、伝える、学ぶ。
さまざまな役割の中から、「自分はどう関わるか」を選べる余地がある。
これは、日本のサッカーにとっても、大きなヒントになり得ます。
たとえば、サッカーを続けるか迷っている高校生。
ケガでプレーを諦めざるを得なかった選手。
子どもの送り迎えでスタジアムには来るけれど、「自分ごと」としては関わりきれていない保護者。
彼らに、「ボランティア」や「運営スタッフ」という形での関わり方を示せているだろうか。
プレーしない人の役割をどこまで想像できるかで、クラブや地域のスポーツ文化の厚みは変わっていきます。
3x3が街に出ていくとき、何が起きているか
「こちらから出向く」という発想
CaixaBankは、代表戦や大きな大会だけでなく、「Circuito 3x3 CaixaBank」というストリートの3x3バスケットボール大会も、長く支えています。
2012年から50以上の都市で143回開催。
6万4千人のプレーヤー、47万5千人以上の観客。
屋外のコートにリングを立て、街の真ん中にバスケットボールを持ち込む。
ここでは、「人をアリーナに呼ぶ」のではなく、「競技のほうが街に出ていく」という動き方をしています。
日本のサッカーで考えてみると、どうでしょうか。
スタジアムやクラブハウスに人を呼ぶ発想だけでなく、商店街のイベント、小学校の校庭、駅前の広場などに、「こちらから出向く」ことはできるのか。
もちろん、スペースや安全面の課題もあります。
でも、その制約の中で、「どんな形なら街に出ていけるか」を考えること自体が、サッカーの可能性を広げる作業になります。
オビエドでの青いスタンドもそうです。
招待された164人は、自分からチケットを買ってスタジアムに来たわけではありません。
クラブとスポンサーが、「あなたたちにも、ここに来てほしい」と手を差し伸べた結果として、そこに座っています。
スポーツ側から歩み寄る。
これも一つの「街に出ていく」形です。
もし、自分がクラブやチームの立場にあったとしたら。
あるいは、学校や地域のサッカーに関わる大人だったとしたら。
「誰に向かって、どんな形でこちらから出向くか」を、一度立ち止まって考えてみる価値はありそうです。
日本のサッカーは、誰の「青いスタンド」をつくるのか

問いを手放さないために
オビエドの一日の出来事を追いかけていくと、そこには、いくつもの小さな選択が積み重なっていることに気づきます。
- 誰をスタジアムに招き入れるのか
- プロセスをどこまで見せるのか
- プレーしない人たちに、どんな役割を開くのか
- 競技から街に出ていくのか、街から来てもらうのか
それぞれの問いに対して、スペインのバスケットボールは、一つの答えではなく、一つの「試み」を続けています。
重要なのは、完璧な解決策を持っていることではなく、「問いを持ち続けること」かもしれません。
日本のサッカーでも、すでに多くの取り組みが始まっています。
スタジアムのバリアフリー化。
親子観戦デーや地元小学生の招待。
車いすサッカー、ブラインドサッカー、知的障がい者サッカーへの支援。
地域イベントとのコラボレーション。
その一つ一つを、「なぜそれをやるのか」「誰のためにやるのか」という問いとセットで続けていけるかどうか。
選手として、もし自分がピッチに立っているなら。
スタンドにどんな人が座っていてほしいか。
その人たちに、どんな姿を見せたいか。
指導者として、子どもたちにどんな景色を見せたいか。
保護者として、わが子にどんな「スポーツとの出会い方」を体験させたいか。
クラブの立場として、どんな社会の一部でありたいか。
それぞれの立場から、このバスケットボールの事例を、自分のサッカーに持ち帰ってみる。
「日本でも同じことをやるべきだ」と短絡的に考える必要はありません。
むしろ、「自分たちなりに問いを立てる」ところから始めたほうが、長く続く取り組みになっていくはずです。
青いスタンドを思い浮かべながら
静かに残る問い
青く染まったオビエドのスタンド。
そこに座る164人の顔を、ひとりひとり思い浮かべてみると、同じ景色なんて一つもありません。
その中に、サッカーをやっている子がいるかもしれない。
ボールを蹴りたくても、まだその機会がない子がいるかもしれない。
ピッチに立つことはなくても、誰かを応援することで救われる人がいるかもしれない。
スポーツは、そんなさまざまな思いを、一時的に同じ方向へ向けさせてくれる不思議な力を持っています。
だからこそ、その力をどのように使うかは、常に問い直されていいのだと思います。
自分が関わるサッカーの現場で、「青いスタンド」をつくるとしたら、どんな人に、どんな景色を見てもらいたいか。
その問いを、すぐに答えを出さずに、しばらく心の中に置いてみる。
走るとき、指導するとき、スタンドに座るとき。
ふとした瞬間に、その問いが浮かんでくるかもしれません。
サッカーのボールが転がる場所が、少しずつ、いろいろな人の物語を受け止められる場所へと変わっていくとき。
そこにはきっと、プレーの上手さとは別の、「強さ」のかたちが見えてくるはずです。
その「強さ」がどんなものなのかを考えながら、今日もそれぞれのピッチに立つこと。
それ自体が、静かな一歩なのかもしれません。
