1%の可能性から始まる「考えるサッカー」──エウセビオ・サクリスタンが日本の選手と指導者に投げかける問い
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クライフの教室から、リハビリ室まで──エウセビオ・サクリスタンが教えてくれる「サッカーの考え方」

ウェンブリーの芝生の真ん中でボールを受けるかのように、ゆっくりと言葉を選びながら話す人がいる。
エウセビオ・サクリスタン。
バルセロナでクライフのサッカーを体現した頭脳であり、プリメーラ通算543試合出場という数字を残した元MF。
そして、数年前の大きな事故で意識も言葉も失いかけたあと、時間をかけて「もう一度、考え、話すこと」を取り戻した指導者でもある。
ヨハン・クライフのもとで学び、レアル・ソシエダのベンチに座り、今はカスティーリャ・イ・レオン州の育成年代に関わる彼の言葉には、「戦術」よりも先に、「どうサッカーと向き合うか」という姿勢がにじんでいる。
その視線をたどると、今のレアル・ソシエダやレアル・マドリード、アトレティコ、そしてスペイン代表の戦い方が、少し違った風景で見えてくる。
日本でサッカーをする選手や、子どもを見守る保護者にとっても、「自分ならどう考えるか」を試されるような話が、いくつも隠れている。
「1%の可能性」を自分で選ぶということ
エウセビオは事故のあと、長く深いところに沈んでいたと振り返っている。
「もう人生は終わった」と思う時期があり、それでも「1%だけでいいから、自分で戦うと決めよう」と心のどこかで決断したという。
この「1%を選ぶ」という言葉は、リハビリの話であると同時に、試合中の選手の姿とも重なって見える。
たとえば、日本の中学生や高校生が、大きな怪我をしたとき。
あるいはベンチにいる時間が長くなったとき。
- 諦めるか
- 現実に不満をぶつけ続けるか
- 1%の可能性に賭けて、今できることを積み重ねるか
選択肢はいつも同じように並んでいる。
違いが出るとすれば、「どれを自分の意思で選ぶか」だ。
エウセビオは、意識も言葉も奪われた状態から、「もう一度ピッチサイドに戻る」という未来を選んだ。
それは医学的な奇跡だけでなく、「こうなりたい」と自分で方向を決めたからこそ、その1%を掴めたのかもしれない。
もし今、自分や自分の子どもが、サッカーで思うようにいかない時間を過ごしているとしたらどうだろう。
「1%だけ可能性があるとしたら、何を選ぶだろうか」と、一度立ち止まって考えてみる価値はありそうだ。
| 観点 | 指示に従うサッカー | 考えるサッカー | 評価 |
|---|---|---|---|
| 判断の主体 | 監督・コーチ | 選手自身 | ◎ |
| 三角形の意味 | 形をこなすだけ | 次の選択肢を増やすため | ◎ |
| 守備スタイルへの解釈 | 守備的=消極的と見る | なぜそのスタイルかを言語化できる | ◎ |
| 役割への向き合い方 | ポジションをこなす | チームに何が必要かから逆算する | ○ |
| 正解の探し方 | 外に正解を求める | 自分の選択の理由を考え続ける | △ |
クライフから受け取った「考えるサッカー」
エウセビオのキャリアを語るとき、クライフの名は避けて通れない。
バルセロナに移籍したとき、彼は自分が「力もスピードも突出していない」ことを、誰よりもよく理解していた。
代わりにあったのは、技術と、周囲を観る目と、フリーマンを見つける感覚。
クライフのトレーニングは、徹底したポゼッションと三角形の連続だったという。
三角形の一辺を担う選手として、どこに立てば味方が楽になるか。
パスを出したあと、どの角度に動けば、次の選択肢を増やせるか。
エウセビオは、その全部を自分の中で考えながらプレーした。
指導者になってからも、彼は「自分のチームにも、その『考える習慣』を植え付けようとしてきた」と話している。
日本の現場に置き換えてみると、この「考える習慣」は、どのくらい意識されているだろうか。
ポジションごとの役割を「説明」することと、状況に応じて「自分で判断できるようにすること」は、似ているようで違う。
- 監督に言われた通りに動く選手
- 監督の意図を理解した上で、自分なりの解決策を見つける選手
同じ戦術のもとに並んでいても、ピッチの中での存在感は変わってくる。
エウセビオは三角形の中で「どこに移動すれば、味方が困らないか」を、プレーしながら常に計算していた。
今、日本のグラウンドで三角形のパス回しをしている選手たちがいるとしたら、そこにどれだけの「自分なりの意味」を込めているだろうか。
ただ「こぼさないように」回している三角形と、「次のプレーの選択肢を増やすために」回している三角形。
外から見ると同じ練習でも、その差は将来、静かに広がっていくのかもしれない。
- スタイルの理由を言語化する — 守備的か攻撃的かというラベルより「なぜ今このバランスなのか」を選手に自分の言葉で説明できるかどうかを確認する
- 三角形の「意味」まで問う — パス回しの形を教えるだけでなく「その位置に立つとなぜ味方が楽になるのか」を選手に問いかけ、考える習慣を植え付ける
- 自由と責任をセットで与える — 「どこでも動ける選手」には自由を与えるとき、その意味をチームバランスの観点から選手と言葉にする時間を設ける
「守備的」と「消極的」は違う──マタラッツォのレアル・ソシエダ
今季のレアル・ソシエダには、新しい監督がいる。
ペッレグリーノ・マタラッツォ。
ラ・リーガの経験も、スペイン語もまだ十分ではない指揮官は、それでも就任から9試合負けなしというスタートを切った。
エウセビオは、そのサッカーを「より守備的」と評しながらも、そこに明確な意図を見ている。
選手たちの高い技術は維持しつつ、ブロックを固め、全員で守備をする。
それを「守備的だからつまらない」と切り捨てることもできる。
しかし彼は、「監督が自分の考えを伝え、選手たちがそれを信じていること」が何より大きいと見ている。
守備的か攻撃的かというラベルより、
- なぜ、そのスタイルを選んだのか
- その選択を、選手たちとどう共有したのか
という問いの方が、本質に近いのかもしれない。
日本でも、「ボールを持つサッカー」と「堅く守るサッカー」が対立軸として語られやすい。
だが、マタラッツォのレアル・ソシエダのように、守備的な配置の中にも、技術とアイデアを活かす余白は残せる。
逆に、攻撃的な姿勢を強調していても、実際には選手がリスクの意味を理解できておらず、「がむしゃら」に前がかりになるだけのチームもある。
守備を固めることと、考えることをやめることは、同じではない。
もし自分が指導者で、今のチームに結果が出ていないとしたら。
単に「もっと攻撃的に」あるいは「もっと堅く」ではなく、「なぜ、今はこのバランスなのか」を、自分の言葉で説明できるだろうか。
- ベンチの時間を「考える時間」に変える — 出られない試合中でも「自分がピッチに立ったら何を選ぶか」を観察し続けることが次のチャンスへの準備になる
- ボランチのイメージを「チームを整える存在」に持つ — 自由にゲームを作る10番ではなく、チームのバランスを整える視点で自分の優先順位を整理する習慣をつける
- 相手をよく観ることから逆算する — 自分たちのスタイルを貫く前に「相手は何を嫌がるか、どこにスペースが生まれているか」を観戦のたびに意識する
レアル・マドリードの「2人+1人」の中盤から学べること
エウセビオは、現在のレアル・マドリードの中盤についても語っている。
かつてのクロースとモドリッチが持っていた技術と戦術眼の「特別さ」を認めたうえで、今のチームには「2人の強いMFと、1人のゲームを落ち着かせるテクニカルな選手」が必要だと見る。
それは、システムの話であると同時に、「チームの中で何を求められているかを理解する選手」の話でもある。
多くの若い選手は、「自分の良さ」を前面に出したがる。
スピードがある選手は、スペースがなくても走りたくなる。
足元に自信がある選手は、どんな状況でもボールを受けたくなる。
だが、チームが必要としている役割は、必ずしも「自分が一番楽しいプレー」と一致するとは限らない。
今のレアル・マドリードでは、エウセビオの目から見ると、
- ボールを奪い、強度を保つ選手
- 攻守のバランスを取りながら、ゲームを操る選手
この組み合わせが鍵になっている。
たとえば、日本の小学生や中学生で「ボランチ」を任されている選手が、自分の役割をどう考えているか。
「自由にゲームを作る10番」として振る舞おうとするのか。
それとも、「チームのバランスを整える存在」として、自分のプレーの優先順位を整理するのか。
同じポジション、同じ背番号でも、頭の中にあるイメージの違いが、その選手の未来を変えていく。
エウセビオが「マドリードには、技術と戦術眼を持った選手がもう1人必要だ」と感じる背景には、「強さ」と「ゲームメイク」の両方を理解している経験者ならではの視点がある。
自分が「どのタイプとして評価されたいのか」。
それを、監督任せにせず、自分で選ぶところから全てが始まるのかもしれない。
走らないエースをどう扱うか──ムバッペという「問い」
今のレアル・マドリードで、最も分かりやすい「問い」を投げかけてくる存在が、キリアン・ムバッペだ。
31試合で38ゴールという圧倒的な数字。
エウセビオは、「もし自分が監督なら、守備のプレッシングにも関わらせたい」と感じながらも、現実にはマドリードが「8人で守り、1人にゴールを託すスタイル」を選んでいることも認めている。
この「割り切り」は、クラブの歴史や文化と、今のメンバー構成から導かれたひとつの答えだ。
では、自分がチームを率いていて、似たような才能を手にしたとしたらどうするだろう。
- 守備も攻撃も、全員に同じように求めるのか
- ある選手には特別な自由を与え、その分を他の選手に求めるのか
どちらが「正しい」という話ではない。
重要なのは、どちらを選ぶにせよ、「なぜそうするのか」を自分で説明できることだろう。
日本の育成年代では、「全員で守備」「全員で攻撃」という合言葉が好まれることが多い。
一方で、プロの世界を見れば、特別なタレントが特別な役割を与えられるチームも少なくない。
そのギャップの中で、子どもたちはどのように「役割」と向き合えばいいのか。
自分が保護者なら、もしわが子が「守備はあまりしないけれど、点を取る選手」だったら、コーチに何を望むだろう。
逆に「ずっと走り回ってチームを助ける選手」だったなら、どんな言葉をかけるだろうか。
ムバッペの数字は、単なる得点記録ではなく、「個とチームのバランスをどう考えるか」という問いを、静かに投げかけている。
自由を与えられたオヤルサバル──ポジションを超える選手の育ち方
レアル・ソシエダのミケル・オヤルサバルについて語るとき、エウセビオの声には特別なあたたかさが混じる。
彼がクラブの監督に就任する直前、オヤルサバルはトップチームでデビューした。
今季、マタラッツォのもとで、彼は「前線全体を自由に動き回る」役割を与えられている。
サイドに張ったり、中に入ったり、時に最前線に顔を出したり。
マークする側にとっては、非常に厄介な存在になっている。
同時に、スペイン代表でも同じ4-3-3の中で、似たような立場を任されている。
ここにはひとつのヒントがある。
ポジションは1つでも、役割はひとつではない。
オヤルサバルは、若いころからエウセビオと多くの話をしたという。
その中で、「自分はどういうプレーヤーになりたいのか」「どのエリアで違いを出せるのか」を、一緒に探してきたのだろう。
今、自由を与えられているのは、単に才能があるからではない。
自由を与えられても、チームのバランスを壊さずにプレーできるだけの「理解力」が育ってきたからこその、現在地ではないだろうか。
日本のジュニア年代では、「ポジション固定」か「ローテーション」かがよく話題になる。
しかし、その議論の前に、
- そのポジションで、どんな自由が許されているのか
- その自由を、選手はどこまで理解して扱えているのか
という視点を持つこともできる。
もし今、指導しているチームに「どこででも顔を出せる選手」がいるとしたら。
その選手の自由を制限するのか。
それとも、自由の意味を一緒に言葉にしながら、「チームの中での責任」とセットで与えるのか。
エウセビオとオヤルサバルの関係は、「自由にさせること」と「放任すること」の違いを、静かに教えてくれているように見える。
アトレティコ対バルサ4-0──「相手をよく観る」という準備
アトレティコ・マドリードが、バルセロナに4-0で勝った試合について、エウセビオは「アトレティコが、バルサの高い最終ラインの弱点を徹底的に突く準備をしていた」と分析している。
バルサの新しい守備方法は、これまでも結果を出していた。
だが、「うまくいっているやり方」であっても、相手がその構造を深く理解し始めれば、攻略されることがある。
アトレティコは、2列目からの飛び出しや、速い縦パスを繰り返し、バルサの背後を突き続けた。
ここにも、「考えるサッカー」の要素がある。
自分たちの良さを出すだけでなく、「相手が何をしたがっているのか」をよく観ること。
日本の育成年代の試合を見ていると、「自分たちのサッカー」を貫くことが強調される場面がある。
もちろん、それは大事な軸だ。
一方で、「相手は何を嫌がるのか」「どこにスペースが生まれているのか」を見抜く力は、どこで育つのだろうか。
もし、自分がチームのキャプテンとして、強豪校との試合に臨むとしたら。
- 自分たちのスタイルを貫くこと
- 相手の弱点を徹底的に突くこと
どちらを優先するだろうか。
あるいは、その2つをどのようなバランスで共存させるだろうか。
エウセビオが語るアトレティコの「準備」は、戦術ボードの話であると同時に、「どこまで相手をリスペクトして観察できるか」という、もっと根っこの態度の話にもつながっている。
日本ではどう考えられるか──「急いで正解を探さない」ための視点

エウセビオ・サクリスタンというひとりの元選手、指導者の言葉をたどると、
- 1%の可能性を自分で選ぶこと
- 三角形の中で、味方のために考えること
- 守備的か攻撃的かというラベルに縛られず、なぜそのスタイルを選ぶのかを言葉にすること
- チームが必要とする役割と、自分の「やりたい」をどう折り合いをつけるか
- 特別な才能をどうチームの中に位置づけるか
- 自由を与えるために、どれだけ相手と対話できるか
- 自分たちと同じくらい、相手のこともよく観ること
といったテーマが浮かび上がってくる。
日本のサッカー現場では、どうしても「正解」を急いでしまうことが多い。
- フォーメーションはどれが一番いいのか
- 守備的か、攻撃的か、どっちを選ぶべきか
- 技術を伸ばすか、フィジカルを鍛えるか
けれど、エウセビオの人生とサッカーを見ていると、「どっちが正しいか」を早く決めることより、「なぜ自分はそう選ぶのか」を深く考える時間の方が、長い目で見て大きな意味を持つように感じられる。
彼は、事故に遭った瞬間には何も選べなかった。
ただ、その後の長いリハビリの中で、「1%の可能性に賭ける」という選択だけは、自分の意思で行った。
ピッチの中でも同じことが言えるのかもしれない。
試合の流れや、相手の実力、監督の采配。
自分でコントロールできない要素はたくさんある。
それでも、次にどこに立つか。
誰に声をかけるか。
どのパスを選ぶか。
その1つひとつは、やはり自分自身の選択だ。
日本のグラウンドでボールを蹴っている誰かが、ふと立ち止まって、
「今、自分は何を選んでいるんだろう」
と問いかけてみる。
その小さな一瞬が、もしかしたら将来の「サッカーの見え方」も、「人生の見え方」も、少しずつ変えていくのかもしれない。
正解を急がなくてもいい。
考え続けることそのものが、サッカーの一部なのだから。
