瓦礫に囲まれた緑のフットサルコートでボールを追う子どもたち、サッカーと希望を考えさせるイメージ

瓦礫の街のピッチとワシントンの赤い帽子──サッカーが「希望」と呼ばれる前に考えたいこと

DEFINITION
サッカーと「希望」という言葉の重さとは
紛争地のピッチでボールを蹴ることと、国際会議で「サッカーは希望だ」と語ることは、同じ言葉でも全く異なる意味を持つ。希望という言葉を使う前に「誰のための希望か」を問う姿勢こそが、サッカーに関わるすべての人に求められている。

瓦礫の街に残った一枚のピッチと、赤い帽子の向こう側

爆撃で崩れた建物に囲まれた、細長いフットサルコート。

ガザ市で撮られた一枚の写真には、緑のチームと黄色のチームがボールを追いかけ、タッチラインのすぐ外には、ぎゅうぎゅうに人が群がって試合を見つめている姿が写っている。

周囲は灰色と茶色の瓦礫だらけなのに、コートだけが不自然なくらい鮮やかな緑で、まるでそこだけ別世界のようだと言われた。

「どうしてここだけ壊されずに残ったんだろう」

多くの人がそんな疑問を口にしたが、たぶん本当は、答えを知ることよりも、「サッカーだけは続いている」という事実にすがりたかったのかもしれない。

こんな状況でも人はボールを蹴る。

こんな状況だからこそ、人はボールを蹴る。

そこにあるのは、「サッカーは希望だ」というきれいな言葉だけでは説明しきれない、もっと複雑な感情だろう。

ワシントンの会議室で交わされた「75億円」の約束

その写真が撮られてからちょうど10日後、ワシントンで「Board of Peace」と呼ばれる新しい組織の会合が開かれた。

トランプ政権が国連に代わる存在にしようとしていると言われるその場には、49か国の代表が集まり、ガザ地区の「再建」について議論した。

そこに、FIFA会長のジャンニ・インファンティーノも参加していた。

多くのメディアで話題になったのは、会議机に用意されていた赤いキャップを、インファンティーノがためらわずにかぶったことだった。

帽子の前面には「USA」、横にはトランプの2度の任期を示す「45-47」の数字。

本来なら、その場で何を語ったかが注目されるべき立場の人が、「何をかぶったか」でニュースになる。

それ自体が、どこかサッカー界にとっての敗北のようにも見える。

会合でインファンティーノは、ガザに向けて7500万ドル規模のプロジェクトを約束したと言われている。

内容は、

  • フットサルコート50面
  • フルサイズのサッカー場5面
  • 「FIFAアカデミー」
  • ナショナルスタジアムの建設

そして、「サッカーは世界共通語であり、喜びや希望、団結をもたらす」という趣旨のメッセージを発信した。

壊れた街を再建する時に必要なのは、家や道路、病院、学校だけではなく、「感情」や「信頼」もだ、とも強調した。

言葉だけを取り出せば、多くの人がうなずきたくなる内容かもしれない。

ただ、その言葉が発せられた場所と、そこに誰がいて、誰がいなかったのかを考え始めると、話は急に単純ではなくなる。

ガザを「再建される側」として公式に代表するパレスチナの当局者は、その場にいなかったと言われている。

誰のための再建なのか。

誰が壊したものを、誰が、どのルールで「作り直す」のか。

あの瓦礫の隙間に残った一枚の緑のピッチとは、まるで別の論理が、ワシントンの会議室では動いていた。

「帽子」をかぶるかどうかを、もし自分が決めるなら

インファンティーノの行動は、国際オリンピック委員会からも問題視されている。

IOCの原則では、メンバーは政治や商業から独立して行動することが求められ、政府や組織からの指示に左右されてはならないとされている。

FIFA自身も、各国協会への政府介入を理由に加盟資格を停止することがあるくらい、「政治からの自立」はうたってきた。

その組織のトップが、特定の政治プロジェクトに深く関わり、その象徴とも言える帽子を迷いなくかぶる。

IOCは、数か月後に迫るワールドカップを前に、FIFAとの対立を選ぶのか、それとも自らの原則を曲げてでも沈黙を選ぶのか、難しい判断を迫られていると言われている。

もしこれが、自分のチームで、自分のクラブで、自分自身に置き換わったとき、どうだろう。

たとえば、あるスポンサー企業が強い政治的メッセージを発するようになり、そのロゴが大きく入った練習着を渡されたとする。

それを着ることで、チームの活動が続けられ、グラウンド代もボールも確保できる。

でも、そのメッセージに心から賛同しているわけではない。

「着るか、着ないか」

プロ選手であれば、「契約だから」という理由で割り切るかもしれない。

10代の選手なら、「チームに迷惑をかけたくない」と考えるかもしれない。

指導者であれば、「子どもたちの環境を守るためには、ある程度の妥協は必要だ」と自分を納得させることもあるだろう。

そのどれもが、「正しい/間違い」と単純に言い切れる話ではない。

大切なのは、「なぜ自分はそう選ぶのか」を一度立ち止まって考えてみることかもしれない。

インファンティーノの赤い帽子を見て、「なんでかぶるんだ」と批判する前に、自分が同じ席に座ったときに、何を優先し、何を手放すのかを想像してみる。

そこから見えるものは、少し違ってくるはずだ。

巨大な力とサッカーの「独立性」のあいだで

インファンティーノがトランプやアメリカに近い立場をとる背景には、具体的な利害関係が存在すると指摘されている。

今年のワールドカップはアメリカ開催。

2034年にはサウジアラビアでの開催が決まり、その過程では、トランプの娘婿ジャレッド・クシュナーとサウジのムハンマド・ビン・サルマン皇太子との関係が影響を与えたとも報じられている。

拡大されたクラブワールドカップの放映権は、最後の段階でDAZNが獲得し、そこにもサウジの政府系ファンドからの投資が流れ込んだと言われる。

こうしたネットワークが、FIFAにとっては「より大きく、より儲かる」大会を実現するための土台になっている。

そして、その「より大きく、より儲かる」大会は、FIFAにとっては各国協会にお金をばらまき、次の選挙での支持を固める手段でもある。

一見すると、サッカーの発展に必要なお金が増えることは、良いことのようにも見える。

その一方で、「誰のお金で、どんな条件で成り立っているのか」を考えると、簡単に喜んでいいのか迷う場面も出てくる。

日本のサッカークラブも、規模は違っても同じような悩みと無縁ではない。

スタジアムのネーミングライツ、ユニフォームスポンサー、海外資本からの投資。

クラブの理念と、外から入ってくるお金の論理が、いつもきれいに重なるとは限らない。

ジュニアやユース年代でも、

  • 遠征費を出してくれる企業の意向
  • 保護者の「進学実績」への期待
  • 地域の「結果を求める声」

といった現実が、指導方針や選手起用に影響しないと言い切るのは難しい。

重要なのは、外からの力を「全部拒否する」か「全部受け入れる」かではなく、

  • 自分たちは何を守りたいのか
  • どのラインを越えてはいけないと考えるのか

を、できる限り具体的な言葉で持とうとすることかもしれない。

FIFAやIOCが揺れている姿は、規模こそ違えど、私たち自身の問題を映す鏡にも見える。

「来られない」代表チームと、「関係ない」と言う大統領

スポーツの世界では長く、「オリンピック休戦」という考え方が語られてきた。

オリンピックや大きな大会の期間中は、戦争をやめようという、理想的でどこか象徴的な約束。

実際には、その約束が守られた例は多くないし、多くの人にとっては「きれいごと」に聞こえるかもしれない。

それでも、少なくとも表向きは、その理想を掲げ続けることに、スポーツの国際組織は意味を見出してきた。

ところが今、イラク代表はイランでの戦争の影響で、ワールドカップ予選のプレーオフ決勝に出られない可能性があると言われている。

イラン代表自身も、夏の本大会に参加できないリスクを抱えている。

あるいは、ハイチやセネガル、コートジボワールのサポーターは、アメリカ政府の入国制限によって、自国代表を応援しに行けないかもしれない。

トランプは、たとえ正当に予選を勝ち抜いたチームが来られなくなっても、「そんなことはどうでもいい」といった態度を示していると報じられている。

一方で、FIFAは大会を48か国に拡大し、「これまで届かなかった地域にも、サッカーの喜びと希望を届ける」とうたっている。

大会の規模は広がる。

けれど、政治的な事情で実際にはそこに参加できない国や、スタンドに行けないサポーターがいる。

その矛盾に、サッカーのトップはどこまで踏み込めるのか。

あるいは、踏み込むべきなのか。

この問いは、遠い国の話で終わらせるにはもったいない気がする。

たとえば、高校サッカーで、豪雪地帯の学校は毎年のように移動や練習環境で不利を強いられている。

あるいは、家庭の事情で遠征費が払えず、大会を諦めざるを得ない選手がいる。

制度としては「誰にでも開かれている」大会が、実際にはそうでない現実に直面したとき、自分たちはどこまで声を上げるのか。

大会を運営する立場なら、何を優先し、どの問題を「仕方ない」と受け入れてしまうのか。

サッカーが「平等」や「希望」を語るとき、その裏で誰がスタジアムにたどり着けずにいるのかを想像してみると、見えてくる景色は変わってくる。

「希望」という言葉を、簡単に口にしないために

瓦礫の中に残った一枚のピッチ。

ワシントンの会議室で語られた、50面のフットサルコートと5つのスタジアム。

そのあいだには、「サッカーは希望だ」という、同じような言葉が使われている。

ただ、その言葉が生まれる場所も、そこに込められた意図も、まったく同じではない。

ガザのコートでプレーする子どもたちは、おそらく「希望」という言葉を使わないだろう。

ただ、その瞬間だけでも、爆撃の音を忘れたい。

ただ、仲間と笑い合いたい。

そのごく個人的で切実な感情を、「希望」という大きな言葉で包んでしまうとき、何か大事なものがこぼれ落ちてしまうかもしれない。

一方で、国際会議の場で「希望」が語られるとき、それはしばしば政治的なプロジェクトや巨大な資金の流れと結びつく。

誰かにとっての「希望」が、別の誰かにとっての「支配」や「沈黙の強要」になることもある。

サッカーに関わる私たち一人ひとりが、「希望」や「平和」という便利な言葉を使う前に、

  • これは誰の希望なのか
  • その希望は、誰かの犠牲の上に成り立っていないか
  • 自分はその構図のどこにいるのか

を、少し立ち止まって考えてみることには意味があるはずだ。

それは、クラブのスローガンを決めるときかもしれないし、卒団文集のメッセージを書くときかもしれない。

あるいは、子どもに「サッカーは夢を与えてくれる」と伝える前の、ほんの一呼吸かもしれない。

もし自分が「ピッチを一枚だけ守れる」としたら

話を最初の写真に戻したい。

瓦礫の街に残った、一枚のフットサルコート。

もし、あなたがそこに住んでいて、

  • 家か
  • 学校か
  • 病院か
  • サッカーコートか

どれか一つだけを「壊さないでほしい」と願えるとしたら、何を選ぶだろう。

答えは人によって違うはずだし、どれを選んでも間違いではない。

ただ、その問いを自分に向けてみると、サッカーが自分にとってどんな意味を持っているのかが、少しだけはっきりしてくる。

指導者であれば、「この子どもたちにとって、サッカーは何なのか」を、改めて考えるきっかけになるかもしれない。

保護者であれば、「この子にとって、サッカーは塾や受験とどう違う存在なのか」を、見つめ直すヒントになるかもしれない。

そして選手であれば、自分が今立っているグラウンドが、「当たり前」にそこにあるわけではないことに、少しだけ思いを馳せるかもしれない。

FIFA会長がどんな帽子をかぶるかに怒ることも、もちろん大切かもしれない。

でも同時に、自分ならどんな帽子を、どんな理由でかぶるのか。

どんなピッチを、誰のために守りたいと思うのか。

その問いを手放さずにサッカーと向き合うことが、遠くの戦争や政治のニュースと、自分の今日の練習を、かすかにつなげてくれる。

答えは急がなくていい。

ただボールを蹴るその足元に、どんな選択とどんな迷いが重なっているのかを、ときどき思い出してみる。

それだけでも、同じピッチの景色が、少し違って見えてくるかもしれない。

COMPARISON / サッカーと社会的文脈 論点比較
観点 現場(ピッチ)の視点 組織・政治の視点 評価
「希望」の主体 ◎ 個人・コミュニティの切実な感情 △ 政治的メッセージに利用されやすい ◎現場の視点が誠実
スポーツの独立性 ○ 現場のサッカーは政治と切り離せる △ FIFA等の組織は政治と交錯しやすい △組織レベルでは独立性が脆弱
資金と理念の整合 △ 外部資金への依存がクラブの方針を歪める可能性 △ 大規模大会は政治資本と結びつきやすい △どのレベルでも緊張関係がある
参加の平等性 ◎ ピッチがあれば誰でも蹴れる △ 政治・経済的事情で参加できない国・人がいる △制度的な「開放性」と実態が乖離
意思決定の透明性 ○ 試合結果は明確 △ 開催地選定・放映権交渉は不透明なことがある △ガバナンスの課題
ローカルへの影響 ◎ 地域コミュニティの絆を育む △ 巨大大会の恩恵が末端まで届かないことも ○地域密着の価値は本物
◎=強み ○=中立 △=注意・課題あり。批判的な視点はサッカーへの不信ではなく、より誠実な関わりへの入口として捉えたい。
FOR COACHES / FOR COACHES
「サッカーは希望だ」の前に問うべき3つのこと
  1. 自チームのスローガンの根拠を言語化する — 「サッカーで夢を持て」「仲間を信じろ」といったメッセージを子どもに伝える前に、自分はその言葉の意味を説明できるかを確認する。言葉の重さを指導者自身が引き受けているか問い直そう。
  2. 外部資金・スポンサーの条件をチームで共有する — 遠征費や用具を提供する企業の意向がチームの理念と合っているかを、選手・保護者と一緒に考える機会を持つ。子どもたちが「なぜこのスポンサーか」を理解することは、社会とスポーツの関係を学ぶ教育にもなる。
  3. 参加できない子どもの存在を可視化する — 費用・距離・家庭事情で大会に出られない子がいるなら、その問題をチームで認識し、可能な範囲で解決策を探る。「誰でも参加できる」という理念と実態を近づける行動が指導者の誠実さにつながる。
STORY TEE
フットボールを、もう一度愛するために。
フットボールの奥行きを、一着に。NEWDIHのストーリーTシャツコレクション。
TEEコレクションを見る →
FOR PLAYERS & PARENTS / FOR PLAYERS & PARENTS
「サッカーは特別な場所」と気づくための問い
  1. 今立っているグラウンドが「当たり前」でないことを知る — 世界には練習できる環境がない地域もある。自分たちが毎週ボールを蹴れる場所と時間がいかに貴重かを知ると、グラウンドへの向き合い方が変わる。
  2. 「もし一つだけ守れるとしたら」を家族で話す — 家・学校・病院・サッカーコートのどれかを選ぶとしたら何を選ぶか。家族でこの問いを共有することで、子どもにとってサッカーがどんな意味を持つかが見えてくる。
  3. 試合結果の外にある「意味」を探す習慣を持つ — 勝ち負けだけでなく、今日の試合でどんな選択をしたか、仲間とどんな時間を共有したかを帰り道に親子で話す。サッカーの価値は結果だけでなく、経験の積み重ねにある。
FAQ / よくある質問
Q. スポーツ組織が政治に巻き込まれるのはなぜですか?
A. スポーツの国際組織は各国政府との関係なしには大会開催や資金調達ができないため、政治的な力学と無縁ではありません。特に開催地選定・放映権交渉・制裁問題などでは、スポーツの論理より政治・経済の論理が優先されることがあります。「スポーツの独立性」という理念を守るには、組織内の透明性とリーダーシップの誠実さが求められます。
Q. 育成現場でも「外部の力」との向き合い方は必要ですか?
A. はい、スケールは違っても同じ構造があります。スポンサー企業の意向、保護者の進学期待、地域からの結果要求など、外からの力がチームの指導方針や選手起用に影響することがあります。「何を守りたいか」「どのラインを越えてはいけないか」を指導者が具体的に持っておくことが、外部の力に流されないための基盤になります。
Q. 「サッカーは希望」という言葉は正しいですか?
A. 正しくも間違いでもなく、文脈に依存します。紛争地のピッチで子どもたちがボールを蹴るとき、その行為は確かに希望と呼べるものです。一方で「希望」という言葉が政治的なプロジェクトを正当化するために使われる場合、その言葉は別の機能を持ちます。大切なのは「これは誰の希望か」「その希望は誰かの犠牲の上に成り立っていないか」を問い続けることです。
Q. 子どもたちにサッカーと社会の関係をどう教えればいいですか?
A. 難しい政治問題を詳しく解説する必要はありません。「世界には試合を見に行けないサポーターがいる」「グラウンドが使えない地域がある」という事実をシンプルに伝えるだけで、子どもは自分のサッカー環境を相対化して見るようになります。重要なのは「なぜ?」と問いかける習慣を育てることであり、答えを押し付けることではありません。
ALSO ON NEWDIH
サッカーと社会を考えるコラム
フットボールが持つ文化・哲学・社会的意味を掘り下げた記事を読んでみよう。試合の外にあるサッカーの本質に迫る。
コラムを読む →
NEWDIH logo
NEWDIH / Perspectives & Methods
블로그로 돌아가기
홈으로 돌아가기