PKでもノーファウルでもない瞬間から学ぶもの──PSG対リバプールが問いかけた「倒れる勇気」と「守りにいく勇気」
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「笛が鳴らなかった瞬間」に、何を学ぶか PSG対リバプール、ザイール=エメリとコナテの交差点

PKかノーファウルか、そのわずかな「間」
パリで行われたチャンピオンズリーグ準々決勝。 PSGがリバプールを2−0でリードして迎えた71分。 スコア上は優位でも、試合はまだ完全には決まっていない時間帯だった。
ペナルティエリア内へと侵入したのは、パリの若きMF、ワレン・ザイール=エメリ。 細かいステップでボールを運び、次のタッチでシュートか、あるいは折り返しか。 スタジアムの視線と期待が、一気に彼へと収束する。
そこへ飛び込んできたのが、リバプールのセンターバック、イブラヒマ・コナテ。 長い脚を伸ばしたスライディングタックルは、ザイール=エメリの足にわずかに触れ、その後でボールをかき出したようにも見えた。
主審は一度、PKを指し示す。 PSGの選手たちはキッカーは誰かと話し始め、リバプールの選手たちは抗議に向かう。 しかし、同時にスタジアムのどこかから、ビデオ判定の「待った」がかかる。
VARチェックののち、主審は自らモニターで確認し、判定を取り消す。 結論は「PKなし」。試合はスローインから再開された。
パリの選手たちの不満、リバプール側の安堵、ファンのざわめき。 けれどピッチの上では、ただ一つだけはっきりしていることがあった。
「プレーは続く」。
| 立場 | 実際に選んだ行動 | 他にありえた選択 | 評価 |
|---|---|---|---|
| コナテ(CB) | 長い脚を伸ばしたスライディングで足→ボールの順にコンタクト | 距離を取ってシュートブロック/ボディコンタクトで限定しつつ戻りを待つ | △ リスクを取った判断 |
| ザイール=エメリ(攻撃側) | 接触を受けても簡単には倒れずプレーを続けようとした | 接触で倒れ、ファウルを強くアピールしにいく | ○ 「倒れない」選択 |
| 主審サンチェス・マルティネス | 最初PKを提示→VAR後にモニター確認し取消 | 一度の提示をそのまま維持する | ◎ 説明責任ある再決定 |
| PSG側 | 2−0の優位の中で「もっと点を取れた」と振り返る | PKが維持されていれば3点目で勝負を決めていた可能性 | △ 決定機不足の自覚 |
| リバプール側 | PKが消え、わずかな希望をつなぐ結果に | PKを与えて0−3で試合が事実上終了していた未来 | ○ 試合を残した恩恵 |
コナテはなぜ、あのタックルを選んだのか
あの場面、コナテにはどんな選択肢があっただろうか。 テレビ越しに見ていると、つい「無謀なタックルだった」「もっと慎重に」と言いたくなる場面かもしれない。
だが、センターバックの立場に立ってみると景色は変わる。 71分、敵地、2点ビハインド、目の前ではザイール=エメリがエリア内で前を向きかけている。 次の一歩を許せば、決定的なシュート、あるいはGKとの1対1になる可能性が高い。
そこでコナテの頭の中に浮かぶのは、例えばこんな選択肢かもしれない。
- 距離を取り、シュートブロックに集中する
- ボディコンタクトでコースを限定しつつ、味方の戻りを待つ
- リスクを承知で、ボールを奪い切るタックルに行く
彼が選んだのは三つ目だった。 結果として「足→ボール」の順にコンタクトが起き、判定が揺れるようなプレーになった。
もちろん、どの選択が「絶対に正しい」とは言い切れない。 ただ確かなのは、あの瞬間、コナテは得点を防ぐ可能性とPKを与えるリスクを天秤にかけ、それでも前に出る決断をした、ということだ。
本人も心のどこかで「少し触れたかもしれない」と感じていたかもしれない。 VARのチェック中、彼の中には「笛がそのまま生きる未来」と「取り消される未来」が同時に存在していたはずだ。
センターバックにとって、こういう一瞬の賭けは避けて通れない。 安全だけを選び続ければ、ゴール前は守れない。 しかし、無謀な賭けを続ければ、勝負は壊れる。
そのはざまで揺れながら、それでも足を出すかどうかを選び続けるポジションなのだと思う。
- 両方の勇気を言葉にする — コースを切る勇気とボールを奪いにいく勇気、どちらを取るかを練習から選手と対話する
- 倒れない選手を評価する — ファウルをもらわずプレーを続けた選手にも、「なぜ倒れなかったか」を聞き取り肯定する場を作る
- チャレンジした守備を切り捨てない — 失点につながったリスク守備を「無謀」と片付けず、選択のプロセスを一緒に振り返る
ザイール=エメリの「倒れなかった選択」

一方で、ザイール=エメリ側の視点はどうだろうか。 足に接触を受けた瞬間、彼もまた一つの岐路に立っていた。
- 接触を受けて倒れ、ファウルを強くアピールする
- 多少のバランスを崩しつつも、プレーを続けることを最優先する
現代サッカーでは、倒れることもまた一つの技術として語られる。 接触を感じた瞬間に身体を守り、ファウルをもらいにいく。 それが勝利のために合理的な選択になることもある。
だがこのシーンでザイール=エメリは、簡単には倒れず、プレーを続けようとしたように見えた。 「コンタクトはあった、でもまだボールに触れるかもしれない」。 彼の身体は、そういう迷いと欲を抱えたまま前へ進もうとしていたのかもしれない。
結局、主審は最初PKを示しながら、VARでの検証後に取り消した。 彼にとっては、倒れるか、立ち続けるか、その選択が得点に直結する可能性のある場面だった。 それでも「最後までボールを追う」という意識が優先されたとしたら、それはそれで一つの価値観の表れだろう。
もし自分が同じ状況で、相手の足が当たった感覚を覚えたらどうするだろう。 倒れる勇気と、倒れない意地。 どちらを選んでも、後から映像や周囲の声で評価される時代に、選手はいつもその間で揺れている。
- 倒れる勇気と倒れない意地 — 接触を受けた瞬間、シュート継続とファウル獲得のどちらを優先したいかを自分で決めておく
- 「触れば PK」の怖さを超える — CB視点では、触る怖さと触らずに決定機を与える怖さのどちらを受け入れるか事前に決める
- モヤモヤを「問い」に変える — 判定に納得がいかない場面で不満で終わらせず、「なぜそう選んだか」を家庭でも話題にする
主審とVAR、「正解のない正解」を探す仕事
主審サンチェス・マルティネスは、一度PKを宣告した。 その時点では、彼の中の「見えたもの」が、判定のすべてだった。
だが、その後にVARからの連絡が入る。 映像を見て、「足が先か」「ボールが先か」「接触の強さはどうか」「プレーの方向性はどうか」 いくつもの要素を数十秒で整理しなければならない。
判定を覆せば、「なぜ変えたのか」と問われる。 覆さなければ、「映像を見てなお、なぜそのままなのか」と問われる。 どちらにしても、誰かにとっては「納得がいかない」結論になる可能性が高い。
つまり、主審にとっての仕事は「皆が納得する正解」を見つけることではなく、 「自分が説明できる理由を持った決断」を下すことなのかもしれない。
日本の試合でも、VARが導入されて以降、こうした議論は増えている。 「映像では触れているように見える」 「スローで見ると余計にファウルっぽい」 「でも実際のスピードだとどうか」
結局、映像もまた一つの「情報」にすぎない。 そこから何を読み取り、どのラインで「ファウル」と「ノーファウル」を分けるか。 そこには、主審の中にあるサッカー観が反映されている。
選手がプレーで自分のスタイルを表現するように、 審判もまた判定を通じて、自分なりの「ゲームの捉え方」を表現している。 そう考えると、「なぜその判定になったのか」を想像することも、観る側にできる一つのサッカーの楽しみ方かもしれない。
「PKだった」「いや違う」だけで終わらせない視点
PSGの選手たちは試合後、「もっと点を取れた」「リバプールを生かしてしまった」という悔しさを口にしていた。 2−0で勝利しながらも、あのシーンのような微妙な判定や、決定機の数を振り返り、「足りなかったもの」を見つめようとしているように見える。
一方、リバプールにとっては、あの判定はわずかな希望をつなぐものだった。 PKを与えずに済んだことで、まだ試合は完全には終わらない。 コナテのタックルは、結果としてチームを試合に残したとも言える。
あの一つのプレーを、「PKだった」「いやそうではない」と言い争って終わるのは簡単だ。 けれど、サッカーをもう少し深く楽しもうとするなら、問い方を変えてみることもできる。
- コナテは、なぜあそこまで踏み込む必要があると感じたのか
- ザイール=エメリは、どこまで「倒れずに進む」ことを優先したのか
- 主審は、どのポイントを基準に判定を覆すと決めたのか
同じ映像、同じ事実を前にしても、「なぜそう選んだのか」をたどっていくと、見えてくる景色が変わってくる。
日本の育成年代の試合でも、似たような場面は必ずある。 PKかどうか微妙な接触、倒れなかったがゆえに流されたプレー、あるいは逆に「もらいにいった」と判断される倒れ方。
そのとき私たちは、子どもたちに何を伝えるだろうか。 「もっとアピールしなさい」と言うのか。 「最後までボールを追おう」と言うのか。 あるいは、そのどちらも簡単には決めつけず、「今の選択について、一緒に考えてみよう」と向き合うのか。
「もし自分があの場面にいたら」と想像してみる
自分が選手なら、あの場面でどんなプレーを選ぶだろうか。 自分が審判なら、何を基準にファウルかどうかを判断するだろうか。 自分が指導者なら、試合後にあのプレーについてどう言葉をかけるだろうか。
例えば、センターバックの立場なら、こんな問いが生まれる。
- 一歩下がってコースを切る勇気と、前に出てボールを奪いにいく勇気、どちらを持ちたいか
- 「触ればPKになる」怖さと、触らなければ決定機を与える怖さ、どちらを受け入れるか
攻撃側の選手なら、こうかもしれない。
- コンタクトを受けた瞬間、シュートを打つこととファウルをもらうこと、どちらを優先するか
- 倒れなかった結果、PKを得られなかったとしても、それでも「倒れない」ことを選べるか
保護者や指導者の立場なら、こうした問いがあるだろう。
- 子どもが接触で倒れなかった結果として、ファウルを取ってもらえなかったとき、何を伝えるか
- リスクを負ってチャレンジした守備が失点につながったとき、そのチャレンジ自体をどう評価するか
どの問いにも、唯一の正解はない。 だからこそ、「自分ならどうするか」を一度立ち止まって考えてみることに意味がある。
答えの出ないモヤモヤと、どう付き合うか
PSG対リバプールのあのシーンは、いつまでも議論され続けるだろう。 「やっぱりPKだった」「いや、あれはボールにいっている」 そんな議論が、世界中のサッカーファンの間で続いていく。
ただ、そのモヤモヤを「不満」で終わらせるか、「問い」に変えるかで、サッカーとの付き合い方は少し変わる。
なぜコナテは足を出したのか。 なぜザイール=エメリは前へ進もうとしたのか。 なぜ主審は判定を取り消したのか。
その「なぜ」の一つひとつを、自分の中でゆっくりと解いていく。 そうすると、次に自分がプレーするとき、次に誰かの試合を観るとき、見えるものが少しずつ変わってくる。
サッカーは、ときどき理不尽で、ときどき不公平に見えるスポーツだ。 VARがあっても、すべてが白黒はっきりするわけではない。 むしろ、映像が増えた分だけ、「どちらとも言える」場面は増えているのかもしれない。
それでも選手は、ピッチの上で決断を続ける。 審判は、笛を吹くかどうかを選び続ける。 指導者は、その選択をどう受け止め、次につなげるかを考え続ける。
あの71分の一瞬も、その連続の中の一コマにすぎない。 けれど、その一コマに立ち止まり、「自分ならどう考えるか」と向き合ってみる。 その積み重ねが、サッカーを少しだけ深く味わうことにつながっていくのではないだろうか。
答えの出ない場面に出会ったとき、そのモヤモヤをすぐに手放さず、少しだけ抱えてみる。 もしかしたら、その時間こそが、サッカーが僕らにくれるいちばん豊かな時間なのかもしれない。
