辞めても、戻ってもいい――マルティン・バリーニがサッカーと人生で選び続けたもの
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「辞める」と「続ける」のあいだで マルティン・バリーニが選び続けたサッカー

スーツにネクタイを締めて、オンラインマーケティングのオフィスに通う日々。
その数年前まで、マルティン・バリーニはウルグアイ代表のU-20で南米の強豪と戦い、イタリアでプロ契約寸前のところまで行った選手だった。
「このまま会社員として生きていくのか、それとももう一度サッカーに戻るのか。」
22歳で一度サッカー選手をやめ、26歳で指導の道に入り、29歳でトップカテゴリーの監督としてコパ・リベルタドーレスを戦い、32歳で故郷クラブとタイトルを取り、ブラジル、メキシコを経て、いまはメキシコ・リーグのネカクサを率いる。
経歴だけを並べれば、順風満帆の若手監督のサクセスストーリーに見える。
けれど、その裏側には、「どこでプレーするか」よりも、「どう生きるか」をめぐる、何度もの選択と迷いがあった。
プロになり損ねた22歳が、なぜスーツを選んだのか
イタリアでの3か月が教えた「サッカー以外の現実」
若い頃、バリーニはイタリアのヴァレーゼ(当時セリエB)にテスト生として参加し、監督からは「君を欲しい」と言われていた。
毎朝トップチームと同じようにトレーニングをし、「レベル的にやれる」と自分でも感じていた。
それでも、契約は成立しなかった。
クラブ事情や契約上の問題。
ピッチの外で決まる「目に見えない要素」が、彼の未来を止めた。
約3か月、イタリアで待ち続けた末に、話は立ち消えになる。
そこで彼がしたのは、「サッカーを完全に諦める」ことではなく、「いったん選手をやめて別の道を歩く」という決断だった。
この差は小さいようでいて、とても大きい。
もし同じ立場だったら、自分はどうするだろうか。
- 契約が決まるまで、別のクラブを探してヨーロッパに残る
- 一度帰国して、国内のクラブでやり直す
- サッカーから離れて、別の世界を見てみる
結果だけを見れば、「続けていればどこかと契約できたかもしれない」と言うこともできる。
けれどバリーニは、その時点までのプロセスを見て、「このまましがみつくより、一度離れる」と選んだ。
それは逃げだったのか、それとも、次に進むための一歩だったのか。
本人にとっても、明確な正解はなかったはずだ。
| 転換点 | 捨てたもの | 選んだもの | 評価 |
|---|---|---|---|
| 22歳:選手引退 | プロへの執着 | 別の世界を経験する自由 | ◎ |
| 26歳:コーチ転身 | 月2500ドルの会社員収入 | 情熱を燃やせる月500ドルの指導者の道 | ◎ |
| 29歳:リベルタドーレス | 理想のサッカーへの追求 | 現実との折り合いと実践での学習 | ○ |
| アシスタント転身 | 監督というポジション | 俯瞰の視点と観察の時間 | ◎ |
| ブラジル→メキシコ | 安定したリーグ環境 | 中長期プロジェクトとしての挑戦 | ○ |
月2500ドルの会社員と、月500ドルのユースコーチ
モンテビデオに戻ったバリーニは、経営・マネジメントの勉強を終え、法律事務所とオンラインマーケティング会社で働く。
キャンペーンの数字を分単位で追いかけ、結果が出ればインセンティブ。
月に約2500ドル。
営業成績でコスタリカ旅行を手に入れるほど、順調だった。
そんな生活の最中、古巣ディフェンサール・スポルティングから電話がかかってくる。
「ユースのコーチをやらないか」と。
提示された報酬は、およそ500ドル。
額面だけ見れば、会社員としての安定を手放し、収入を大きく落とす選択だ。
それでも彼は、ユースコーチの道を選ぶ。
理由のひとつには、家族の支えがあった。
両親のもとで生活していたからこそ、収入を落としてでも「本当にやりたいこと」に賭けることができた。
もうひとつは、自分の中にあった「リーダーシップへの興味」だった。
選手時代からキャプテンを務め、ピッチの中でチームを動かすことに喜びを感じていた彼は、「ピッチの外からリードする」という役割に強く惹かれていた。
ここで、ひとつ問いが浮かぶ。
もし自分や、自分の子どもが同じ状況になったとき、どちらを選ぶのか。
- 収入はあるが、心から情熱を燃やせるかは分からない仕事
- 収入は低いが、「これだ」と思える領域での挑戦
どちらが「正しい」と決めつけることはできない。
大切なのは、その選択を「なんとなく」ではなく、自分なりに考え抜いて決めることなのかもしれない。
29歳でリベルタドーレスの監督に 急速に進むキャリアの裏で
- 「やりたくないことリスト」を作らせる — 選手に「理想のプレー」だけでなく「これだけは譲れない」「これは自分に合わない」を言語化させる。バリーニがリベルタドーレスで「やりたくないことを学んだ」と語るように、制約の中でこそ軸が見えてくる。
- 「今ある条件でやれることは何か」を毎練習で問いかける — グラウンドが土でも、練習時間が短くても、言い訳を許さない問いを習慣化する。「言い訳を許してくれない環境だった」というブラジルでの学びをトレーニング設計に取り込む。
- アシスタントコーチ体験を取り入れる — 中高生に「一試合だけコーチ視点で観察する」役割を与える。監督を一度手放してアシスタントから学んだバリーニのように、立場を変えることで見えるものを体感させる。
ユースからトップへ、「チャンスは突然やってくる」
ディフェンサールの育成組織でコツコツと実績を重ねたバリーニは、スクール、U-14、U-15、U-21と段階を踏みながら、指導者としての階段を一気に駆け上がっていく。
26歳で指導を始め、29歳でレンティスタスのトップチーム監督に就任。
いきなりコパ・リベルタドーレスの舞台で、ラシン・クラブ(アルゼンチン)、サンパウロ(ブラジル)、スポルティング・クリスタル(ペルー)といった南米の名門と対戦することになった。
チームは、直前のシーズンで歴史的なリーグ優勝を成し遂げていたが、主力の約8割が移籍し、ほぼ新チームを作り直す必要があった。
「理想のサッカー」を追求したい気持ちと、「明日勝たなければならない」という現実。
その板挟みの中で、バリーニは多くのことを学んだと振り返る。
特に、「自分にはコントロールできない領域がある」という事実。
選手の流出、クラブの経済状況、日程、外部からのプレッシャー。
その中で、どこまで自分のスタイルを貫くのか。
どこからは現実に合わせて折り合いをつけるのか。
日本で指導している人、あるいは保護者として見守る立場にいる人にとっても、どこか他人事ではないテーマではないだろうか。
- 一度離れることを恐れない — バリーニは22歳でサッカーを「いったんやめた」が、それは諦めではなく視点を広げる選択だった。思い描いた道が閉ざされたとき、「完全に終わり」と「一度止まる」は別物だと知っておく。
- 収入や評価の「数字」だけで選ばない — 月500ドルのユースコーチを選んだバリーニの決断のように、「情熱を燃やせるか」を判断軸に加える。保護者は子どもの選択を数字の損得だけで評価しないよう意識する。
- 「今ここ」と「遠くの目標」を両方持つ — バリーニはヨーロッパ挑戦という夢を持ちながら、今日のトレーニングメニューに全力を注ぐ。遠い夢を言い訳に今をさぼらず、目の前の仕事を積み上げることで夢への道が開ける。
「やりたくないこと」が見えた経験
レンティスタスでの時間について、バリーニは「自分が、監督としてやりたくないことをたくさん学んだ」と語る。
多くの場合、僕たちは「やりたいサッカー」ばかりを考える。
だが現場で積み重ねられていくのは、
- 本当は使いたい選手がいるのに、クラブ事情で起用できない
- 時間が足りず、戦術の細部を仕込めない
- 怪我人や移籍で、描いていたプランが崩れる
といった「思い通りにならない現実」との向き合い方だ。
「これだけは大事にしたい」という軸と、「ここは妥協せざるを得ない」という部分。
その線引きを、彼はトップカテゴリーの現場で少しずつ見つけていった。
これは選手にも当てはまる。
「自分の得意なプレー」を伸ばすことと同じくらい、「これは自分には合わない」「ここは譲れない」という感覚を持つことも、長いキャリアの中では大きな意味を持つのかもしれない。
ブラジル、スペイン、そしてメキシコへ 変わる立場、変わらない問い
「二番手」として学んだ視点の違い
レンティスタスでの仕事ぶりが評価され、バリーニはブラジルの名門クルゼイロの監督、パウロ・ペッソラーノのスタッフに招かれる。
クルゼイロではセリエBからの昇格に成功し、その後はスペインのレアル・バジャドリードでもペッソラーノの右腕を務めた。
監督経験を持ちながら、再び「アシスタントコーチ」に戻る選択。
そこで彼は、トップでは見えづらかったものを多く学んだという。
- 決断の「最終責任」は負わないからこそ、俯瞰できるもの
- 監督と選手、フロント、メディアの関係性を横から眺める視点
- トレーニングの設計やマネジメントをじっくり観察する時間
ここでも、ひとつの問いが生まれる。
「常に一番上の立場にいること」と、「一度引いて別の視点を持つこと」。
成長につながるのは、どちらだろうか。
多くの選手にとっても似た場面がある。
- 常にスタメンで試合に出られるカテゴリーに残るか
- 出場機会は減っても、レベルの高いところに飛び込むか
バリーニは、「監督」というポジションを一度手放してまで、ペッソラーノのもとで学ぶ道を選んだ。
その決断が、のちのブラジルやメキシコでの指揮にもつながっていく。
ブラジルが教えた「言い訳できない環境」
クルゼイロのあと、2024年シーズンにバリーニが率いたのが、ブラジルのアトレチコ・パラナエンセだった。
クラブ創設100周年という節目の年に、チームはリーグ下位に沈んでいた。
最初の試合はコパ・ド・ブラジルのホーム&アウェイ方式の2ndレグ。
相手は4部のクラブだが、初戦での負けが響き、この試合で敗れれば即敗退というプレッシャーのかかった状況。
そこから逆転して次のラウンドに進み、コパ・スダメリカーナでもセルロ・ポルテーニョを下して勝ち上がった。
一方で、リーグ戦では超過密日程。
約3か月で20試合以上、月に8試合ペースというスケジュールのなか、フルのトレーニングができたのは1週間だけだったという。
ほとんどの日が「リカバリー」と「移動」で終わる中、ピッチ上で新しいことを積み上げるのは難しい。
そこでバリーニのスタッフは、ビデオ分析やミーティングの質を徹底的に高め、「頭で理解させる」アプローチにシフトした。
選手たちは回復と試合を繰り返しながら、映像と対話を通じてゲームモデルを理解していく。
こうした環境は、「時間がない」「練習できない」と言い訳をしたくなる状況でもある。
しかしバリーニは、「ブラジルは、言い訳を許してくれない環境だった」と話している。
うまくいかない理由を探すのではなく、その前提のなかで「やれることは何か」を考え続けること。
これは、部活やクラブで多忙な日々を送る日本の選手たちにも通じる。
週に数回しかボールを触れない。
グラウンドが土で、照明も暗い。
そんな状況のなかでも、「今ある条件のなかで、自分は何をできるか」を問い続ける姿勢が問われているのかもしれない。
結果が出ていても、交代は起こる
アトレチコ・パラナエンセでの成績は、およそ勝ち点55%。
ブラジルという競争の激しいリーグで、この数字は決して悪いものではない。
それでも、ラシン・クラブとのコパ・スダメリカーナ準々決勝、ホームでの第1戦に勝利した直後、遠征前にクラブは監督交代を決断した。
「なぜ、そのタイミングで?」と外から見れば思ってしまうような出来事。
だが、フットボールの世界ではこうしたことが起きる。
クラブの事情、政治的な力学、感情、期待値。
さまざまな要素が絡まり合い、一人の監督の運命は、ある日突然変わる。
そこでバリーニは、「自分たちは良い仕事をした」という感覚とともに、クラブに感謝を伝え、次の機会に向けて前を向いた。
選手であっても、似たような経験をする。
- 結果を出しているつもりでも、次の試合で外される
- チームが勝っているのに、監督が代わる
- 自分の評価が、数字だけでは測れないものに左右される
そのとき、「不公平だ」と感じるのは自然なことだ。
同時に、そこで何を学ぶか、何を大事に残すかは、自分で選ぶしかない。
ユースからネカクサへ 「プロジェクトをつくる」監督としての顔
プレーオフ未経験のクラブを「歴史の一歩目」に導く
ブラジルで鍛えられたバリーニは、その後メキシコへ向かう。
まずはフアレスを率い、短いシーズンのなかでクラブ史上初となるプレーオフ進出を果たした。
10年にわたり1部に在籍しながら、17試合制の短期リーグで最高勝ち点は19。
監督も選手も、実績のある名前が並んでいたにもかかわらず、「歴史」はなかなか動かなかった。
そんなクラブが、初めてプレーオフの舞台に立つことになる。
実際に何が変わったのかは、数字だけでは分からない。
バリーニは、「チームの結束」「プレーのアイデンティティ」「条件的不利な試合での粘り」をキーワードとして挙げている。
「自分が、そのクラブの歴史を変える一歩目になれるかもしれない」と考えることに、彼は強いモチベーションを感じるという。
日本でも、ビッグクラブではない地域クラブが、初めて全国大会に出るとき、似たような空気が流れる。
そこでは、「このチームだからこそできる一歩目とは何か」を、選手も指導者も一緒に考えている。
ネカクサで描く「主役になるサッカー」

2025年12月、バリーニは同じメキシコ1部のネカクサの監督に就任する。
新たなクラブ、新たな文脈。
そこで彼が志向しているのは、「主役として試合をコントロールする」スタイルだ。
特徴的なのは、ポジショナルプレーをベースにした、
- 相手守備の構造に応じて数的優位を作り出しながら前進すること
- エリア内への侵入は、人数をかけて一気に行うこと
- その一方で、後方では3-2のバランスを維持してカウンターに備えること
といった考え方だ。
守備では、積極的に前からプレッシャーをかけ、ボールを素早く奪い返そうとする。
自陣でのビルドアップでは、リスクを受け入れながら、最終局面で優位を作ることを狙う。
サイドでは1対1、あるいは2対2のデュエルが多くなるが、中央ではパスの連係で相手を崩していく。
こうしたスタイルは、もちろん一朝一夕で形になるものではない。
それでも、バリーニは「プロジェクト」として時間をかけて積み上げる道を選んでいる。
ここまで見てくると、彼の選択には一貫したものが見えてくる。
- 目先の安定より、自分が成長できる環境を選ぶ
- プレッシャーの大きい場を避けず、むしろ飛び込んでいく
- 短期的な結果だけでなく、中長期のプロジェクトを意識する
それは、「成功するための正解のパターン」というよりも、「自分が何を大事にしたいか」を問い続けた結果として浮かび上がっているように見える。
経営の知識を、ピッチサイドで使うということ
バリーニは、経営・マネジメントの学びが、監督業に直結しているとも話している。
トップチームの監督は、単にスタメンを選ぶだけでは終わらない。
- メディカルスタッフ
- フィジカルコーチやアナリスト
- メンタルコーチ
- スポーツディレクター
- オーナー・経営陣
- メディア、サポーター
多くの「ステークホルダー」の間に立ちながら、全体が同じ方向を向くように調整しなければならない。
そのときに必要とされるのは、
- ロジカルに物事を整理し、優先順位をつける力
- 相手の立場を理解しながら、伝える言葉を選ぶ力
- 短期の結果と長期のビジョンのバランスを見極める力
といった、ピッチ外の「判断力」だ。
そして、そのベースにあるのは、選手時代に育まれた「ロッカールームの空気」を感じ取る感覚だという。
選手たちが、何を不安に思い、何を望んでいるのか。
その空気を察しながら、なおかつチームとして進む方向を示す。
サッカーをしている子どもたちにとっても、将来の仕事が必ずしも「サッカー」だけとは限らない。
けれど、どんな仕事についたとしても、
- 状況を整理し、自分の頭で考えること
- 自分なりの優先順位を決めて選ぶこと
- 人と関わるときに、相手の立場を想像すること
といった力は、きっと共通して求められる。
バリーニは、その一例として、ピッチの内と外を行き来しながら歩んでいるのだろう。
「ヨーロッパに行きたい」けれど、今ここにいる
未完の夢と、目の前の仕事
バリーニには、ひとつの目標がある。
ヨーロッパで、トップレベルのリーグを率いること。
イタリアで選手としてのキャリアが閉ざされた過去があるからこそ、「復讐」ではなく、「自分への挑戦」として、その舞台に立ちたいと考えている。
しかし同時に、彼はこうも強調する。
「大切なのは、いま自分がいる場所で、しっかり仕事をすることだ」と。
ネカクサというクラブと日々向き合い、その歴史と現在の文脈を理解し、現実の制約を受け入れたうえで、少しずつ新しいものを積み上げていく。
遠くにある目標と、目の前の仕事。
その両方を持ちながら、今日のトレーニングメニューを選び、次の試合のメンバーを決める。
選手も指導者も、そして保護者も、どこかで同じようなバランスを探っているのかもしれない。
あなたなら、どこで何を選ぶだろうか
「正解」を探すのではなく、「自分の答え」を育てる
マルティン・バリーニの歩みをたどると、いくつもの分岐点があったことが分かる。
- イタリアで契約が破談になったあと、サッカーから一度離れるか、しがみつくか
- 月2500ドルの会社員を続けるか、月500ドルのユースコーチに戻るか
- 監督としてのキャリアを手放してでも、ペッソラーノのアシスタントとして学ぶか
- ヨーロッパでのキャリアを進めるか、母国クラブからのオファーを受けて戻るか
- プレッシャーの大きなブラジルを離れ、メキシコで中長期のプロジェクトを引き受けるか
どの場面にも、「これが正しい」と言い切れる唯一の答えはない。
むしろ大切なのは、その都度、その時点の自分なりに考え抜いて、選び取ってきたというプロセスそのものだ。
サッカーの現場では、つい「答え」を急ぎたくなる。
- なぜ試合に出られないのか
- なぜ監督はこの戦術を選ぶのか
- なぜ子どもはこのポジションをやらされているのか
けれど、答えを急ぐほど、見落としてしまうものもある。
そこに至るまでのクラブの事情、選手の成長段階、指導者の迷い、家族の思い。
それらを少し想像してみるだけで、同じ出来事が違った意味を持ち始めるかもしれない。
バリーニのように、自分のキャリアを何度も「選び直してきた」人の物語は、そのことを静かに教えてくれる。
いま、あなたの目の前には、どんな選択肢があるだろうか。
すぐに答えが出なくても構わない。
一度立ち止まり、「自分ならどう考えるか」をゆっくり味わうこと。
その時間そのものが、サッカーと共に生きていく力を、少しずつ育てていくのかもしれない。
ボールが転がり続ける限り、選び直すチャンスは、何度でも訪れるのだから。
