プレミアの“わかりにくいハンド”から学ぶ:エンベウモの物議をきっかけに、選手と指導者が身につけたい判定との向き合い方
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なぜ「ハンドボール」はこんなにも人を悩ませるのか

オールド・トラフォードでの一場面だった。
ブライアン・エンベウモが放ったシュートは、相手のブロックにあい、その流れの中でボールは彼の腕に当たったように見えた。
こぼれ球をマテウス・クーニャが押し込み、ゴールネットが揺れる。
しかし、スタジアム全体の反応はどこか奇妙だった。
喜びよりも、「あれ、今のは大丈夫なのか?」という戸惑いが空気を支配していた。
ノッティンガム・フォレストの選手たちはすぐに主審に詰め寄り、観客はスクリーンを見上げる。
ビデオ・アシスタント・レフェリー(VAR)が介入し、主審はオンフィールドレビューへ。
時間だけが過ぎていく。
そして主審は、17回目となる「珍しい」選択をした。
自分の最初の判定を覆さず、ゴールを認めたのだ。
ピッチの外では、「明らかなハンドだ」「どうして認められるんだ」という声が飛び交い、テレビの前の元選手たちでさえ戸惑いを隠せない。
同じ映像を見ているのに、なぜここまで意見が割れるのか。
このシーンは、「ハンドボール」という一つの反則をめぐって、サッカーに関わるすべての人が、何を、どう考えているのかを映し出していた。
変わり続ける「ハンド」のルール
いつからこんなにややこしくなったのか
かつて、ハンドボールはもっとシンプルに語られていた。
「わざと手や腕を使ったら反則」
多くの人がそう理解していたし、選手も、指導者も、観客も、大きなズレはなかった。
ところが近年、攻撃側のハンドをどう扱うかという問題が、試合を決める場面で何度も浮上する。
とくに2020年前後、「偶然」腕に当たっただけなのにゴールが取り消されるシーンが相次いだ。
ある試合では、ウェストハムが土壇場で決めた同点ゴールが、ビルドアップの中でデクラン・ライスの腕にボールが当たっていたという理由で取り消された。
ライスは「サッカーをやってきた人なら、あれがゴールだとわかるはずだ」と悔しさをにじませ、監督も「理不尽だ」と感じていた。
別の試合では、フルハムのジョシュ・マジャのゴールが、直前にマリオ・レミナの腕に偶然当たったことで無効にされ、大きな議論を呼んだ。
「偶然でも、攻撃側のハンドが絡んでいたらゴールは取り消し」
この運用は、あまりに厳しすぎるという声を生み、2021年にルールが変更される。
今は、「直接ゴールを決めた選手」が、意図的かどうかにかかわらず腕や手でボールに触れていればノーゴールとなる。
一方で、ビルドアップの中で腕に当たった場合は、「故意か」「不自然な腕の位置か」といった要素を見て、主審が判断することになった。
つまり、こういうことになる。
- シュートした本人の腕に当たってそのままゴール → ほぼ自動的にノーゴール
- ビルドアップ中に腕に当たった → 故意性や腕の位置などを「解釈」して判断
同じ「ボールが腕に触れた」場面でも、扱いが状況によって変わる。
ここに、プレーする側と見る側の感覚のズレが生まれやすくなる。
| 観点 | 従来の感覚 | 現在の運用 | 選手・指導者の対応 |
|---|---|---|---|
| 反則の前提 | わざと手や腕を使ったら反則 | 故意か『不自然な腕の位置』か等を要素で判断 | △ 変化 |
| シュート決定者のハンド | 故意でなければ認められた | 意図に関わらずノーゴール | ◎ 知っておくべき変化 |
| ビルドアップ中の接触 | 通っていた | 故意性・腕の位置で個別判断 | ○ 状況による |
| VARの介入 | ほぼ存在しない | オンフィールドレビュー含めて関与 | △ 解釈の場が増えた |
| 選手の振る舞い | 判定に詰め寄る/受け入れる | 次のプレーにエネルギーを残す選び方 | ◎ 育成現場で問える視点 |
「フットボール的期待」とは何か
VARの運用プロトコルには、「フットボール的な期待」という考え方がある。
つまり、「多くの人がサッカーの常識として、どう感じるか」を判定の基準のひとつとする、という発想だ。
今回のエンベウモの場面でも、元プレミアリーグの副審は、「多くの人はハンドを取ると考えるだろう」と話している。
ボールはエンベウモの腰に当たった後、腕に触れてこちら側のコントロールになる。
そのボールがこぼれてクーニャのゴールにつながった。
ルール上は、「シュートした本人が直接手でコントロールして決めたわけではない」ため、主審にはゴールを認める余地がある。
しかし、「あれは腕を使ってボールを自分の側に残したからこそ、その後のゴールが生まれたのではないか」と受け取る人は多い。
選手、監督、解説者、サポーター、多くの立場の言葉を拾うと、「ハンドだ」と考える人の方が多数派だったように見える。
一方で、「VARの助言に従わず、自分の判断を貫いた主審を評価したい」という声もある。
同じ映像から、まったく違う結論と感情が生まれている。
ここに、「答えが一つに定まらない」サッカーの難しさと面白さがあるのかもしれない。
主審の決断と、選手の決断
- 『ハンドかハンドじゃないか』を即答せず問い返す — 『自分はどう感じた?』『相手側だったら主張した?』と聞き、選手の言葉を引き出す
- 身体の使い方を技術として整理する — ペナルティエリア内での腕の位置、シュートブロック時の身体の向きを動作として共有する
- 判定後の振る舞いを評価軸に入れる — 詰め寄るか、次のプレーに切り替えるか。ピッチ外での関わり方が一瞬の決断に影響する
4分間のレビューの裏側で何が起きていたのか
VARが3分、主審が1分映像を確認したと言われている。
その4分間、主審は何を天秤にかけていたのだろうか。
画面上の情報だけでなく、ルールの文言、自分の立ち位置、判定が試合に与える影響、そして「フットボール的な期待」。
ドレッシングルームで準備してきた「基準」と、スタジアム全体の空気。
そのどれもが、頭の中を駆け巡っていたかもしれない。
結果として、彼は「最初の自分の判定」を選んだ。
これは、VAR導入後のプレミアリーグではとても珍しい選択だとされている。
このとき主審は、「間違っているかもしれないけれど、自分はこう見た」と腹をくくったのか。
あるいは、「ルール上はゴールを認められる」と冷静に整理したのか。
その内側は、本人にしかわからない。
ただひとつ確かなのは、彼もまた、あの瞬間に「選ばなければならない立場」にいたということだ。
- 同じ映像を家族や仲間と見比べる — 違う立場から違う答えが出るのが普通だと知ることが、考える力の入り口になる
- 『自分ならどんなリスクを取るか』を言葉にする — 腕の位置、身体の投げ出し方、その先のコース。条件を変えて考えると癖が見える
- 保護者は『正解』を子どもに代弁しない — 『あれはひどい判定だった』で終わらせず、子ども自身の見方を聞く時間を作る
もし自分がピッチに立つ選手だったら
このシーンを、自分のプレーに引き寄せてみることもできる。
例えば、あなたがディフェンダーで、ペナルティエリア内で相手のシュートが自分の腕に当たってしまったとする。
自分の感覚としては、「避けきれない距離だった」「腕は自然な位置だった」と思うかもしれない。
でも、相手は「シュートが明らかに腕に当たった」と主張する。
主審は、数秒の中で判断しなければならない。
そのとき、あなたは何を考えるだろうか。
- 次のプレーに切り替えることを最優先するのか
- 自分の感覚や主張を伝えることに力を使うのか
- 今のプレーを振り返り、「次はどう腕の位置を工夫するか」を考えるのか
どれが「正しい」という話ではない。
ただ、ハンドの判定が変化し続ける中で、選手自身も「自分はどこまでリスクを許容するのか」「どんな身体の使い方を選ぶのか」を問い直す必要が生まれている。
日本のサッカーにとっての「ハンド」を考える
ルールの「グレーゾーン」とどう向き合うか
日本でも、Jリーグや育成年代の試合で、「ハンドかどうか」の議論は尽きない。
審判講習ではルール改正が丁寧に説明され、指導者講習でも取り扱い方が共有されている。
それでも、試合現場では選手と審判の感覚がずれることは避けられない。
特に育成年代では、「ルールを守る」ことと同時に、「ルールの中で何を選ぶか」を学んでいく時間になる。
例えば、コーチは選手にこう声をかけることができる。
- ペナルティエリア内では、腕の位置をどう意識するのか
- シュートブロックするとき、身体の向きやタイミングをどう選ぶのか
- 判定に納得がいかないとき、どう振る舞うのか
ここで大切なのは、「ハンドを取られない方法」だけを教えることではないように思う。
むしろ、グレーゾーンが残る中で、自分のプレーと向き合いながら、何を基準に判断するのかを考えさせること。
「なぜそう身体を投げ出したのか」
「なぜその距離で腕を開いたのか」
「なぜ判定に対してあの態度を取ったのか」
問いかけは、技術や戦術だけでなく、「自分の選び方」そのものに向けることができる。
日本の育成年代で起きがちなこと
日本のサッカー現場では、判定に対する「正解」をすぐに求めてしまう場面も少なくない。
ある大会の試合後、「今のはハンドですか、ハンドじゃないですか」と審判に詰め寄る指導者の姿を見ることがある。
もちろん、ルールの確認自体は大切だ。
ただ、その場で「ハンドです」「ハンドではありません」と答えが示された瞬間、選手たちはどう感じるだろうか。
「ああ、そういうものか」で終わってしまえば、そこで思考は止まる。
一方で、もし指導者がこんな問いかけを選んだらどうなるだろう。
- 「主審はこう見たみたいだけど、自分はどう感じた?」
- 「もし相手側だったら、同じように主張したと思う?」
- 「次に似た場面が来たとしたら、身体の使い方を変えたい?」
そこには、「ルールの正解」を覚えさせるのとは違う、もう一段深い学びの余地が生まれる。
ハンドの基準が揺れ続ける時代だからこそ、「決まりごとを覚える」だけでは対応しきれない場面が増えていく。
だからこそ、選手一人ひとりが、「同じ映像を見たとき、自分はどう考えるのか」を言葉にしてみる経験が、より重要になっていくのではないだろうか。
「わかりにくさ」と付き合う力
レフェリーも、選手も、サポーターも迷っている
今回のプレミアリーグの一件では、元審判も、元選手も、現役監督も、「わかりにくい」と口をそろえている。
ノッティンガム・フォレストのキャプテンは、「誰もハンドの基準をはっきり理解できていないように感じる」と率直に語り、監督も「一度きちんと説明してもらう場を持つべきだ」と提案していた。
おそらく、多くの日本の選手や指導者も、似た戸惑いを抱いているはずだ。
ここでひとつ、立ち止まって考えてみたいことがある。
「わかりにくさ」がある状況で、どう振る舞うか、という視点だ。
ルールが完全に明快で、誰もが同じ解釈を持っている世界なら、判断も、振る舞いも、ある意味で単純だ。
しかし現実は、「レフェリーによって解釈が揺れる」「大会ごとに運用が微妙に違う」ことがある。
そのとき、選手や指導者にできることは何だろうか。
- 自分のプレーのリスクを理解したうえで選ぶ
- 判定に不満があっても、次のプレーにエネルギーを残す
- 試合後に冷静に振り返り、「なぜ、どうして」を言葉にしてみる
これは、ルールの説明書には載っていない力だ。
けれど、長い目で見れば、サッカーを続けていく上で確かに問われ続ける力でもある。
「故意かどうか」に戻るべきか
今回の騒動を受けて、ある元副審は「もう一度、故意のハンドに戻すべきだ」と話している。
ハンドのたびに、「不自然な位置かどうか」「攻撃か守備か」「ゴールにどれだけ近いか」といった条件を当てはめていく今のやり方は、複雑になりすぎているのではないか、という問題提起だ。
もし本当に「故意のハンド」だけが反則になる世界に戻ったら、プレーする側の感覚は少し楽になるかもしれない。
しかし同時に、「意図」をどう読み取るかという、別の難しさも浮かび上がる。
結局のところ、どんなルールに落ち着いたとしても、「完全な正解」は存在しないのかもしれない。
それでも、サッカーは続いていく。
その中で、選手も、審判も、指導者もサポーターも、それぞれの立場から「自分はどう考えるか」を更新し続けていくことになる。
あなたなら、どう見るだろうか
同じ映像を見て、違う答えを持つこと

エンベウモのシーンを、もしチームのミーティングで見返すとしたら、どんな言葉が交わされるだろうか。
「自分がDFだったら、腕をもっと後ろにしまっておきたい」
「FWとしては、あそこまで身体を投げ出すのはチャレンジする価値がある」
「主審の立場だと、どこから見えていたかも考えたい」
同じプレー映像の中に、いくつもの視点が重なっていく。
そこから浮かび上がるのは、単なる「正しい・間違い」ではない。
「自分なら、どんなリスクを取って、何を守りたいか」という、選手それぞれの選択の物語だ。
ハンドボールの議論は、ともすると感情的な対立を生みやすい。
しかし、少しだけ立ち止まってみると、それはむしろ、「サッカーに関わる人の考え方の違い」が表に出やすいテーマでもある。
結論を急がないという選び方
最後に、あえて結論を出さずに終わってみたい。
エンベウモのあのプレーは、ハンドだったのか、そうでなかったのか。
もしあなたがレフェリーなら、何を根拠に、どちらを選ぶだろうか。
もしあなたがエンベウモだったら、もう一度同じボールが転がってきたとき、同じように身体を投げ出すだろうか。
もしあなたがその試合を戦っていた選手なら、判定が出たあと、どんな言葉を選んで仲間に声をかけるだろうか。
サッカーのピッチには、こうした「揺れる場面」がいくつも生まれる。
そのたびに、誰かが、何かを選び取っている。
正解を急がず、自分ならどう考えるかを少しだけ持ち帰ってみる。
その繰り返しが、プレーも、見方も、少しずつ深くしていくのかもしれない。
後に日本代表に選ばれることになる選手たちと、ジュニアユースからユースまでの時期、同じピッチでボールを蹴っていた。同じ場面の映像でも、ピッチに立っていた選手の感覚と、外から見ている人の感覚はずれていることが多いと、何度も感じてきた。
もちろん、皆さんが見てきた選手や試合がそうだったとは限らない。ただ、判定に揺れた一瞬で、自分の身体がどう動いていたのかを、少しだけ思い浮かべてみてほしい。