ダービーを動かすもう一人の主役――審判とどう向き合うか
이 칼럼 공유하기
「ダービーの主役」は本当に22人だけなのか

サン・シーロのピッチに立つ瞬間、視線はどうしても赤と黒、青と黒のユニフォームに集まる。
だが、ミラノ・ダービーのような一戦では、もうひとり、静かに大きな決断を背負う存在がいる。
ダニエレ・ドヴェリ。
今度のセリエA第28節、スクデット争いにも直結するミラン対インテルを任された主審だ。
これまでミラノ・ダービーをすでに5度裁き、リーグ戦だけ見てもインテルの2勝1分、そしてコッパ・イタリアではミランの3−0勝利という結果が残っている。
数字だけ見れば、ひとつの「傾向」のようにも見える。
けれど、その裏側にあるのは、統計では測りきれない一つ一つの判断と、そのたびに迫られてきた「選択」の積み重ねだ。
笛を吹く前に始まっている「選択の試合」
キックオフのはるか前、頭の中で行われる準備
ドヴェリがこのダービーを担当するのは初めてではない。
2019年、コンテが率いたインテルが2−0で勝った試合。
2021年の3−0、スクデットへとつながるシーズンの一戦。
そして、ミランがタイトルを勝ち取るシーズンに1−1で終わった試合。
さらに、昨季のコッパ・イタリア準決勝第2戦、ミランが3−0で勝利した夜。
どの試合も、彼にとっては「ただの1試合」ではなかったはずだ。
試合前、審判は映像を見返し、両チームの特徴を整理し、これまでの自分の判定も振り返ると言われる。
あの時のファウルはどうだったか。
あの接触は流してよかったのか。
あのPKの基準は、今の自分でも説明できるだろうか。
選手や監督と同じように、審判もまた過去の選択と向き合う。
「あの笛は正しかったか」だけではなく、「なぜあの笛を吹いたのか」。
その問いを自分に返し続けることが、次の90分での判断の土台になっていく。
| 反応パターン | 短期的効果 | 長期的影響 | 評価 |
|---|---|---|---|
| 「審判のせい」と帰因する | 感情的な解放感 | 自己コントロール力が育ちにくい | △ |
| 「判定を情報として使う」 | 適応的な戦術変更が可能 | 状況判断力が向上する | ◎ |
| VARを全面信頼し結果を待つ | 主観的なストレスが一時軽減 | 自分の感覚基準が曖昧になりやすい | ○ |
| 判定後すぐ次プレーに切り替える | 流れを維持できる | 感情処理が後回しになるリスク | ○ |
| 指導者・保護者がタッチライン外から抗議する | 即時の感情発散 | 選手に「試合は審判次第」という信念を植え付けるリスク | △ |
| 審判の基準を試合中に読んで戦術を修正する | その試合内での最適化が可能 | 柔軟な問題解決力が身につく | ◎ |
VARがあっても「最後は自分」であること
今のセリエAでは、主審の周りを常にサポートする存在がいる。
サイドラインには副審のバッチーニとベルティ。
第4の審判にはマルケッティ。
そして、ビデオルームにはVAR担当のアビッソと、そのアシスタントを務めるディ・ベッロ。
画面越しに、さまざまな角度の映像が届き、「チェックしています」「見直した方がいいかもしれません」と声がかかる。
一見すると、判断の負担は軽くなったようにも見える。
ただ、最終的にスタジアムのど真ん中で決断を背負うのは、やはり主審ひとりだ。
VARから「オンフィールドレビューを」と告げられた時、モニターの前で彼は何を考えるのだろう。
映像に映るのは、極端にスローになった接触、拡大されたワンシーン。
だが、ピッチで感じていた試合の温度、選手どうしの駆け引き、直前までのプレーの流れは、画面の外側にある。
どこまで映像に委ねるのか。
どこからを「自分の感覚」として引き取るのか。
そのバランスを決めるのは、自分自身の中にある基準だけだ。
「傾向」をどう受け取るかという問い
- 試合後に「判定について」ではなく「判定の後に何を選んだか」を振り返る — 「あの笛は正しかったか」より「笛の後のプレーで何ができたか」を問う習慣が、状況適応力を育てる
- 審判の基準を試合中に読む視点を練習に組み込む — 「この審判は接触に厳しいか、流す傾向か」を観察し、ボールの奪い方や守備の立ち位置を調整する判断を、練習試合から意識させる
- タッチライン外の声が選手に何を伝えているかを自問する — 「今のはファウルだろう」という声が、選手に「自分では変えられない」という無力感を植え付けていないか定期的に確認する
数字が語るもの、語らないもの
ドヴェリはこれまで、ミランの試合を34回、インテルの試合を39回裁いている。
ミランは19勝9分6敗、インテルは16勝13分10敗。
いくつものシーズン、いくつもの監督、いくつものメンバー。
そのすべての上に積み上げられた数字だ。
ある人は、「この審判の時は相性がいい」「いや、あの時は不利な判定が多かった」と語るかもしれない。
もしプレーヤーとしてこの数字を目にした時、自分ならどう受け取るだろうか。
「やっぱりこの主審は自分たちに合っていない」と考えるのか。
「こういうタイプの試合運びになる可能性がある」と情報として使うのか。
どちらを選ぶかによって、ピッチに立った時の心の準備はまったく違うものになる。
不安を大きくする材料にすることもできる。
逆に、「どんな条件でも自分たちのやることは変わらない」と整理する材料にすることもできる。
同じ数字を見ても、何を拾い、何を手放すかは、一人ひとりが選べるのだと思う。
- 判定に納得できないとき、1回だけ深呼吸して「次に何をするか」に切り替える — 感情を無視するのではなく、感情に気づいた上で次の選択に意識を向ける練習を試合の中でできる
- 保護者はタッチライン外での審判批判を控える — 子どもは親の声を試合中も聞いている。「試合は審判次第」という信念が無意識に形成されると、プレーの自己決定感が失われやすい
- 試合後に「審判の基準はどうだった?」と聞いてみる — 判定の善悪ではなく、「その基準を読めたか・活かせたか」という分析的な視点を子どもと一緒に持つことが、状況判断力を育てる
「審判のせい」にする前に、立ち止まれるか
ミラノ・ダービーのような舞台では、ひとつの判定が試合の流れを大きく変えることがある。
例えばPK。
2019年の試合では、ハカン・チャルハノールがPKを決めてインテルが先制し、その後の展開が大きく傾いた。
ファウルかどうか、微妙なシーンもある。
選手から見れば、「なんで今のがPKなんだ」と感じることもきっとある。
でも、その瞬間、どんな言葉を自分に投げかけるかで、その後のプレーは変わっていく。
「またあの審判か」「やっぱり今日は流れが悪い」と心の中でつぶやいたら、その試合はもう、自分ではコントロールできないものになってしまうかもしれない。
一方で、「今の判定はもう変わらない」「この状況で自分はどうプレーするか」と一度だけ立ち止まる選択もある。
もちろん、それは簡単ではない。
感情が揺れ、納得できない気持ちが湧いてくるのは自然だ。
それでも、「判定を受け入れること」と「判定を諦めること」は少し意味が違う。
受け入れることは、その上で自分がどう動くかを考えること。
諦めることは、自分のプレーの責任まで手放してしまうことだ。
その境目をどこに引くのかは、誰かが教えてくれるものではなく、自分自身で時間をかけて探していくものなのかもしれない。
日本で「審判」とどう向き合うか

育成年代でよく見かける風景から
日本のグラウンドを見渡してみると、審判との距離感には独特の空気があるように感じる。
ジュニアやユースの試合では、指導者や保護者の声が大きく届くことも少なくない。
「今のはファウルだろう」「カードだろう」「オフサイドじゃないか」。
それは、選手を思う気持ちから出てくる言葉なのかもしれない。
けれど、その声を一番近くで聞いているのは、ピッチの中の子どもたちだ。
もし、自分がその選手の一人だったとして。
笛が鳴るたびに、大人たちが大きな声で不満を伝えている光景を見続けたら。
「試合は審判次第だ」「自分の努力だけではどうにもならない」と、どこかで思い込んでしまう危険はないだろうか。
「考える材料」としての審判
中には、こんな問い方もできるかもしれない。
「審判の基準がこの試合は少し厳しそうだ」と感じた時。
そこから、自分たちのプレーをどう変えていくか。
例えば、
- ボールを奪いにいく時の体の当て方を、よりクリアにする
- リスクの高いタックルを避け、立って対応する時間を増やす
- 相手のファウルをもらう技術ではなく、ファウルに依存しない攻撃の組み立てを選ぶ
こうした工夫もまた、「審判と共存する」ための一つの答えかもしれない。
逆に、ファウルがあまり取られない試合だと感じた時。
「この審判なら、少し接触があっても流すだろう」と見越して、守備のプレッシャーのかけ方を変えるチームもあるだろう。
「判定に合わせて自分たちを変えるなんておかしい」と感じる人もいるかもしれない。
でもそれは、「自分たちのスタイルを手放すこと」とは少し違う。
変えない部分と、状況に応じて変えていく部分。
その二つをどうバランスさせるかを考え続けることが、「考えるサッカー」に近いのではないだろうか。
スクデットがかかったダービーだから見える景色
勝敗だけでは測れない「90分の選択」
今度のミラノ・ダービーは、スクデット争いに直結する大一番と言われている。
ミランにとってもインテルにとっても、一つの判定、一つのゴール、一つのミスが、シーズン全体の空気を左右するかもしれない。
だからこそ、ドヴェリに向けられる目線も、いつも以上に厳しくなるだろう。
その中で、彼は90分間、何度も立ち止まり、何度も選び続ける。
・ファウルを取るか、流すか。
・カードを出すか、警告だけにとどめるか。
・VARの助言を受け入れるか、自分の目を信じるか。
そのどれもが、試合を動かす「ひとつのプレー」だ。
選手のスプリントや、監督の交代策だけが勝敗を左右しているわけではない。
審判の選択もまた、その一部として試合を形づくっていく。
もし自分があのセンターサークルに立つとしたら
自分がプレーヤーなら、あの場面で何を思うだろう。
自分が監督なら、どのタイミングで審判に話しかけるだろう。
自分がもし審判だったら、VARから「映像を見直してください」と言われた時、どんな気持ちがよぎるだろう。
「また自分の判定が疑われている」と感じるのか。
「より正確な判断材料が増えた」と受け止めるのか。
その解釈ひとつで、次の笛の音色は変わってくる気がする。
ダービーのような大きな試合を見ていると、つい「結果」と「ヒーロー」に目が奪われる。
だが、ほんの少しだけ視点をずらして、「判断を続ける人たち」の姿を想像してみることで、サッカーの見え方は変わっていく。
答えを急がないからこそ見えてくるもの
「正しかったか」より先にある問い
試合が終わると、判定はすぐに評価される。
「あれはPKだった」「あのカードは厳しすぎた」「オフサイドを見逃した」。
判定の「正しさ」を議論すること自体は、とても大切だと思う。
ただ、その少し手前にある問いを、忘れてはいないだろうか。
なぜ、あの瞬間にその判断を選んだのか。
別の選択肢はなかったのか。
もし別の選択をしていたら、何が変わり、何は変わらなかったのか。
それは審判だけの話ではない。
選手のパスひとつ、シュートを打つかキープするか、プレスに行くか下がるか。
監督の交代策、戦い方を変えるタイミング、守り切るか攻め続けるか。
ひとつの判断の裏には、いつもいくつかの選択肢があり、そこに至るまでの揺れや迷いがある。
そのプロセスに目を向けることで、勝ったか負けたかだけではない「サッカーの面白さ」が顔を出してくる。
ミラノの夜から、それぞれのピッチへ
ミラノ・ダービーの主審に任命されたドヴェリは、おそらくこれまで以上に、自分の基準と向き合う時間を過ごしているはずだ。
ひとつの試合の重さに押しつぶされそうになりながらも、それでも90分間、笛を吹き続けなければならない。
うまくいく判断もあれば、あとから振り返って「別の選択もあったかもしれない」と感じる場面もきっとあるだろう。
それは、日本のどんなカテゴリーの選手にも、指導者にも、同じように起こりうることだ。
大事な試合、大事なワンプレー、大事な決断。
そのたびに、「正解」を急いで掴みにいくのか。
それとも、「なぜそう選んだのか」をゆっくり言葉にしながら、自分なりの基準を育てていくのか。
ミラノのスタジアムで鳴る笛の音は、遠く離れた日本のグラウンドにも、小さく反響しているのかもしれない。
あの一音一音の背後には、迷いながらも選び続ける人間の姿がある。
そのことを思い出せるとき、サッカーは少しだけ、結果から自由になっていく。
そして、ピッチに立つ誰もが、自分なりの選び方で、その90分を生きることができるのだと思う。
