セリエAの灰色を切り裂く希望のドリブラー、ウディネーゼのアルチュール・アッタ
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セリエAの「灰色」の中で光る、ウディネーゼのアルチュール・アッタという希望
冬の金曜日、外は寒くて、なんとなく気分も沈みがちになることがあります。
フィオレンティーナのサポーターなら、トンネルの先の光が見えないような感覚かもしれません。
アタランタのファンなら、夜ごとにジャン・ピエロ・ガスペリーニのサッカーを夢に見ているかもしれません。
今季のセリエAは、得点こそ少し増えたものの、全体としては依然としてグレーな景色に包まれています。
ピッチを見渡せば「3-5-2」がずらりと並び、両サイドにはタッチラインを上下するウイングバック。
まるでレールの上を走る馬のように、決められたコースを往復するばかりのサッカー。
ゴールは貴重で、ドリブルはさらに希少価値。
「仕方ない」と私たちは自分に言い聞かせます。
監督にも選手にも結果が求められ、降格圏やヨーロッパ出場権が頭から離れない以上、リスクを冒す余裕はない、と。
ローンの支払い、光熱費の請求書、勝ち点1でも拾いたい現実。
セリエAの90分には、そんな生活の重さがにじみ出ているようにすら感じます。
それでも、そんな「灰色」の中に、ふと色彩が走る瞬間があります。
レアル・マドリーのニコ・パスが3列目で舞うとき。
ユヴェントスのケナン・ユルディズがゴール左上隅に突き刺すとき。
ボナッツォーリのオーバーヘッドが宙を舞うとき。
そして、ウディネーゼのアルチュール・アッタがボールに触れたとき。
「中庸」をブランドにしてきたウディネーゼと、そこに現れた異物
ウディネーゼというクラブは、ここ数年、ある意味で「中庸の象徴」のような存在です。
降格するほど弱くはないけれど、上位争いをするほど強くもない。
あるコラムでは、こんなふうに表現されていました。
「troppo forte per una autentica stagione fallimentare, ma non abbastanza forte per una stagione davvero di successo」
「本当の意味で大失敗のシーズンになるには強すぎるが、本当の意味で成功と呼べるシーズンを送るには、十分な強さがない」
そんな「中くらい」のクラブが多い時間帯に試合をします。
12時30分、あるいは15時キックオフ。
昼食後の眠気が襲う時間帯に、ペリメーターを回すだけの退屈なポゼッション。
まぶたが半分落ちかけるような、その単調さ。
しかし、その眠気を吹き飛ばすように、アッタのプレーだけが突然、画面から飛び出してきます。
彼のドリブル、ターン、トラップは、観る側の意識を強制的に「今ここ」に連れ戻してくれます。
数字に表れる「異常さ」と、それを超える「美しさ」
アッタの存在が特別だという感覚は、データでも裏づけられています。
今季のセリエAで、彼はもっとも多くドリブル成功を記録している選手の一人です。
90分あたり3.81回のドリブルを仕掛け、その成功率は驚異の70%。
すでに成功ドリブル数は33回に達し、2位のアレクシス・サーレマーケルスより6回も多い数字です。
しかも、彼はタッチライン際で1対1を繰り返すウインガーではありません。
ポジションは主にインサイドハーフ。
中盤の密集地帯でボールを受け、相手のシャツを数枚引き寄せながら、それでもするりと抜けていく。
ただ大事なのは、数字だけではないということです。
アッタのプレーの魅力は、「どれだけ抜いたか」ではなく、「どうやって抜いたか」にあります。
例えば、ある場面で彼はシンプルなダブルタッチのようなフェイントを見せました。
それは特別に派手なわけではありません。
しかし、「セリエAでこのタイミング、この場所でこの技?」と思わず声が出るような、冷たい夏の風のような感覚をもたらします。
データを見れば、今季のセリエAは「5大リーグで最もドリブルが少ないリーグ」です。
1試合あたりのドリブル試行回数は11.77回。
ブンデスリーガ(11.99)とほぼ同水準で、他の3つのリーグは軒並み13回以上。
リーグ・アンは13.18、プレミアリーグは13.29、ラ・リーガは14.03。
イタリアの絶対的強者インテルでさえ、ドリブル試行数の面では常に下位に位置します。
なぜか。
それは、ドリブルが「リスク」と見なされるからです。
ボールを失う可能性、カウンターを受ける恐怖。
イタリアの監督たちがもっとも嫌う要素のひとつが、この「予測不能なリスク」なのかもしれません。
「ストリート」としてのサッカー文化と、アッタの原点
ここには、単なる戦術やデータを超えた、文化的・心理的な側面も見えてきます。
イタリアサッカーが危機にある理由として、「子どもたちがもう路上でサッカーをしないからだ」と言われることがあります。
確かに一理あるかもしれません。
しかし、「ストリート」は、単なる場所ではなく「文化」でもあります。
「venire dalla strada(ストリート出身である)」という表現には、明確な意味が込められています。
そこには、挑発、反逆、ルールへの抵抗、1対1へのこだわり、そして何より「自分のスタイルを貫く」という精神が含まれています。
アッタ自身も、自分の原点に「ストリート」を挙げています。
彼はこう語っています。
「Io sono nato col pallone accanto」
「僕はボールのそばで生まれたようなものなんだ」
「Ce l’avevo in camera da letto mentre ero ancora nella culla.
Ho sempre voluto fare il calciatore」
「まだゆりかごにいたときから、僕のベッドルームにはボールがあった。
ずっとサッカー選手になりたいと思っていたよ」
「Me l’hanno chiesto tante volte, cosa avrei fatto se non fossi diventato un calciatore, e ho sempre dato la stessa risposta: non ho mai pensato di fare altro nella vita」
「何度も聞かれたよ、『もしサッカー選手になれなかったら、何をしていた?』って。
でも僕の答えはいつも同じなんだ。
この仕事以外のことなんて、一度も考えたことがない」
庭でひとりで、あるいは近所の子どもたちと遊びながら身につけたボールタッチ。
そこにクラブの下部組織で学んだ戦術や規律が加わり、いまのアッタを形づくっています。
ピッチの上では「路上のいたずら者」、ピッチ外では「静かな紳士」
アッタの面白さは、プレースタイルと人となりのギャップにもあります。
試合中の彼は、時に相手をからかうようなテクニックを披露します。
例えば、クルイフターンのような鋭い切り返しで相手を翻弄し、背後からついてきた選手を置き去りにするシーン。
あるいは、ボールを何気なくキープしているふりをしながら、突然相手の股の間に通してしまう股抜き。
それは、まるで「相手の腕時計をすり取ってしまう」かのような、巧妙な盗みのようです。
一方で、ピッチを離れると、彼は驚くほど落ち着いた人物像を見せます。
インタビューでは穏やかで丁寧な言葉を使い、SNSの投稿も控えめ。
試合後には、元選手でもある父親や母親に電話をかけて意見を求めると言います。
そして、サッカーに対する姿勢について、彼はこんな言葉を残しています。
「Il calcio è libertà, è ancora un gioco」
「サッカーは自由なんだ。
今でも“遊び”であることに変わりはないよ」
この言葉を聞いて、あなたはどう感じるでしょうか。
勝敗、契約、ビジネスが前面に出る現代のフットボールで、「遊び」としてのサッカーをどれだけの選手が忘れずにいられるのでしょうか。
「美しさのための美しさ」は、なぜ心を打つのか
アッタのプレーには、「勝つため」や「データのため」を一歩超えた、美学があります。
たとえば、相手を挑発するような意図のない、純粋に滑らかなピルエット(ターン)。
外側の足の甲で丁寧にボールをなでるようなコントロール。
相手のプレッシャーを誘い込み、「ここからは抜けられないだろう」と観客が思った瞬間に、するりと抜け出してしまう。
彼はこんなふうにも語っています。
「Da fermo puoi usare la tua qualità per uscire da una situazione」
「止まっている状態からでも、自分のクオリティを使えば、状況を打開できる」
現代サッカーは、相手の時間とスペースを削り取る方向に進化し続けています。
プレッシング、コンパクトネス、ブロック。
その圧力の中で、アッタはあえて「自分の時間」をつくろうとします。
二人、三人と囲まれても、すぐにボールを手放さない。
ギリギリまで引きつけて、最後の一瞬にボールを動かす。
それは単なるリスクではなく、相手の守備構造を崩すための「誘い」のドリブルです。
結果的にフリーの味方にボールが渡り、チームとしての攻撃に広がりが生まれます。
股抜き、ターン、アウトサイドでのスルーパス。
これらは同時に「相手をイラつかせる技」であり、「観客の心を躍らせる技」でもあります。
もし「股抜きのスタッツ」が存在するなら、おそらくアッタはそのランキングの上位にいるのでしょう。
比較される才能たち、そしてあなたが思い浮かべる「誰か」
ここ数カ月で、アッタはさまざまな名選手と比較されてきました。
チームメイトのアダム・ブクサは彼を「ベリンガムみたいだ」と表現しましたが、アッタ本人はそれをきっぱり否定したと言います。
他には、グラフェンベルフやポグバの名前が挙がることもあります。
ある試合でのファーストタッチを見たとき、ある人はこう感じたそうです。
「このトラップ、誰かに似ていると思ったら、あのジネディーヌ・ジダンだった」
もちろん、ジダンはジダンであり、安易な比較は意味を持ちません。
それでも、「そう連想してしまうほどの何か」がアッタのプレーに宿っていることは確かです。
あなたなら、アッタを誰に重ねるでしょうか。
ジダンでしょうか。
グルキュフでしょうか。
それとも、かつて公園や校庭で、自分が夢中で真似した「誰か」のプレーでしょうか。
あなたにとって、「サッカーの楽しさ」とは何か
イタリアでは、子どもたちがストリートでボールを蹴る機会が減ったと言われます。
日本でも、公園でボールを蹴れる場所は年々少なくなっています。
それでも、サッカーの本質が「遊び」であることは、どこかで変わっていないはずです。
ウディネーゼという「中くらい」のクラブ。
得点が少なく、ドリブルも少ないセリエAという「灰色のリーグ」。
その中で、アルチュール・アッタのような選手がボールに触れるたび、スタジアムにも、テレビの前にも、ふっと色が戻ります。
守備が大事なのも、戦術が大切なのも、もちろん事実です。
しかし、あなたがサッカーを好きになったきっかけは、本当に「4-4-2のスライド」や「ブロックの高さ」だったでしょうか。
もしかすると、それは、誰かの華麗なドリブルだったかもしれません。
想像もしなかったトラップやターンだったかもしれません。
あるいは、友達と遊んだ放課後の1対1だったかもしれません。
アッタのプレーを見ていると、そうした原点を思い出させてくれます。
「サッカーは、まだ“遊び”なんだ」と。
あなたにとって、「見ていて幸せになるプレー」とは何でしょうか。
ゴールでしょうか。
タックルでしょうか。
それとも、アッタのような、リスクを引き受けたドリブルでしょうか。
来週末、ウディネーゼの試合がもし15時キックオフでも、眠気をこらえて、少しだけ画面を見つめてみてください。
中盤のどこかで、白と黒のシャツに袖を通した背番号が、ひとりだけ「路上の匂い」をまとってボールを持っています。
最後に、こんな言葉で締めくくりたいと思います。
「Il calcio è fatto di cose superflue che ci ricordano perché vale la pena vivere le cose necessarie」
「サッカーは、人生にとって“なくても生きていけるもの”でできている。
けれど、その“無駄なもの”があるからこそ、私たちは“なくてはならない日常”を生きる意味を思い出せるのだ。」
| 観点 | セリエA | プレミアリーグ | ラ・リーガ | 評価 |
|---|---|---|---|---|
| 1試合あたりドリブル試行数 | 11.77回 | 13.29回 | 14.03回 | △ |
| ブンデスリーガとの比較 | 11.77回(ほぼ同水準) | 13.29回 | — | △ |
| リーグ・アンとの比較 | 11.77回 | — | —(13.18回) | △ |
| アッタのドリブル成功数(個人) | 33回(1位) | — | — | ◎ |
| アッタのドリブル成功率 | 70% | — | — | ◎ |
| 2位との差(成功数) | +6回(サーレマーケルス比) | — | — | ◎ |
- 密集地帯でのボール保持を練習に組み込む — アッタのように中盤の密集でボールを引き出し、複数人を引き寄せてから解放するパターンを2対多の局面練習として取り入れる
- 「止まってから動く」技術を評価する — アッタが「止まっている状態からでも打開できる」と語るように、静止状態からの方向転換とターンをドリル化して習慣づける
- ドリブルの目的を「前進」だけに限定しない — 相手を引き寄せて味方をフリーにする「誘いのドリブル」を戦術オプションとして選手に認識させ、意図を持った仕掛けを促す
- 1対1の場面を怖がらず仕掛ける — アッタは「自分のクオリティを使えば状況を打開できる」と語る。試合で囲まれたときこそ、練習で磨いたターンやフェイントを試す機会だと意識する
- テクニックの「タイミング」に注目して観戦する — アッタの凄みは技そのものより「いつ・どこで使うか」にある。試合観戦では「なぜそこでそのプレーを選んだか」を意識すると見方が変わる
- 「ボールと一緒に育つ」感覚を大切にする — アッタは「ゆりかごからボールがそばにあった」と語る。自由な時間にボールと遊ぶ感覚をキープすることが、創造的なプレーの土台になる
