誤審とどう向き合うか――理想と現実のあいだで揺れる監督の言葉とサッカーの価値観
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「間違い」とどう向き合うか チブとの揺らぎから考えるサッカーの選択

ルカ・カルルが退場を告げられた瞬間、スタジアムの空気が一度止まりました。 インテル対ユベントス、いわゆるダービー・ディ・イタリア。 緊張が極限まで高まる中で下された、一発退場とも言える誤審級の判定。 インテルのキャプテン、ラウタロ・マルティネスですら、その場で「今のは違う」と相手に伝えるほどの出来事でした。 それでも、笛はもう鳴ってしまった。 VARも介入できない種類の判定で、時間だけが前に進んでいく。
この試合のあとに、注目されたのはスコアや戦術だけではありませんでした。 インテルの監督、クリスティアン・チブが何を語るのか。 そこに、多くの人が耳を澄ませていました。
試合前に語られた「理想」と、試合後に選ばれた「現実の言葉」
「自分に有利な誤審」を、いつか認められるかという問い
そもそものきっかけは、試合前の会見でした。 チブは、イタリアで延々と続く「審判問題」の話題に、少しうんざりした様子を見せていました。
VARがあってもなくても、どの試合でも、ミスは起きる。 彼はそうした前提を認めながら、「審判のせいにする」パターンから距離を取ろうとしていました。
そして、こんな趣旨のことを話します。
- 自分たちは審判の判定を言い訳にしないでいたい
- いつか、恩恵を受けた側の監督が「自分たちは助けられた」と言える日を待っている
要するに、「不利な判定に文句を言う」のではなく、「有利な判定もきちんと認めよう」と提案していたわけです。 それは、イタリアのサッカー文化のなかでは、かなりラディカルなメッセージでした。
| 観点 | 従来型(批判・防衛) | 理想型(認める・透明化) | 評価 |
|---|---|---|---|
| 試合後コメント | 誤審を否定 or 無視 | 恩恵を率直に認める | ◎ |
| 選手の振る舞い指導 | 「審判に判断材料を与えるな」 | 「自分の感覚に正直でいろ」 | ○ |
| クラブ発言 | 過去の不利判定を持ち出し反論 | 冷静さを優先し競技全体の信頼を守る | △ |
| シミュレーション教育 | 暗黙容認(うまさと解釈) | 「子どもに説明できるか」を基準にする | ◎ |
| メディア対応 | クラブ利益を最大化する発言 | リーグ全体の空気を意識した発言 | ○ |
理想を掲げた指導者が、試合後に直面した「逆風」
ところが、その数日後。 自分のチームが、明らかに相手にとって不利な判定で助けられた試合の後、彼はマイクの前に立ちます。
ここで彼に向けられていた、周囲の「期待」は、ある意味とてもシンプルでした。
- 判定は誤りだったと思う
- 自分たちはその誤審の恩恵を受けた
- それでも試合は続くし、相手にとっては理不尽だっただろう
多くの人が、そんな言葉を心のどこかで待っていたのかもしれません。 少なくとも、「試合前に言っていたこと」とつながるメッセージを。
しかし、実際に出てきた言葉は、もう少し現実的で、かつ、従来型のサッカー界の論理に近いものでした。
- 接触自体はあった
- すでにイエローをもらっていた選手なら、ああいう行為は避けるべきだった
- 自分は選手に「審判に判断材料を与えるな」と伝えている
つまり、「誤審だ」と明確には言わず、むしろ退場になったカルルの軽率さを指摘する形になりました。 そのギャップに、イタリアのメディアやファンは一斉に反応します。
「仮面がはがれた」 「特別だと思っていたけれど、他の監督と同じだ」
そんな言葉が並びました。
「理想」と「現場」は、そんなに簡単に重ねられない
- 「審判に判断材料を与えるな」と「大げさに倒れるな」のどちらを教えるか明確にする — チームとしてどちらの価値観を持つかを決め、選手に一貫した言葉で伝える。曖昧にしたままだと選手は試合の局面で迷う
- 試合前に掲げた「理想」を、試合後も言語化する練習をする — 誤審や不利な状況の後でも自分の価値観を言葉にできるかは、日常のミーティングや振り返りで鍛えられる習慣だ
- 「高い基準を掲げるほど転んだときの痛みが増す」構造を理解して発言する — 理想を公言する前に、自分がそれを守れない場面が来たとき何を言えるかを想定しておく
揺らいだのは、人として当たり前の感情かもしれない
ここで、一度立ち止まってみたいところです。
もし、自分がチブの立場だったら、どう振る舞えただろうか。
- クラブは勝利で勢いづいている
- 相手クラブは怒りでいっぱいだ
- メディアは「あなたはどう言うのか」とマイクを突き出してくる
- 自分の前の発言は、すでに「理想の言葉」として広まっている
この状況で、冷静に、自分たちに不利なメッセージを発信できるか。 クラブ、サポーター、ロッカールームを前にして、どこまで踏み込んだ言い方ができるのか。
指導者は、倫理の代弁者である前に、「チームの代表者」です。 クラブの立場、選手の感情、サポーターの期待を背負いながら話します。 だからこそ、「分かってはいるけれど、言えない」「本音と役割がズレる」という揺らぎが生まれます。
今回のチブの言葉は、そうした「現場の役割」と「自分の理想」がぶつかった結果とも受け取れます。 優等生のような正解からは外れてしまったかもしれない。 けれど、そのズレの中にこそ、「考える余地」があります。
- 誤審が起きたとき、子どもに「自分がカルルだったら?」と問いかける — SNSで誰かを責める前に、選手の立場を想像する会話を親子でするだけで「自分で選ぶ力」が育ちやすくなる
- 試合で接触があったとき「倒れる/倒れない」どちらを選ぶか自分に問う — その選択を未来の自分やチームメイトに説明できるかを判断基準にする習慣を身につける
- 観戦時に「クラブはなぜあの言葉を選んだのか」を想像する — クラブの発言をそのまま評価するのではなく、組織の役割とサポーターへの責任のバランスを意識すると、試合以外の部分でもサッカーが深く見えてくる
「高いスタンダード」を掲げた人ほど、転んだときに叩かれる
イタリアでは、「清廉さ」を掲げる人に対して、厳しい空気が流れやすいと言われます。 「自分だって完全じゃないくせに」という感情が、あっという間に「偽善者」というラベルに変わってしまう。
サッカー界でも、
- 常に審判批判を繰り返すタイプの監督
- 時に過激な言動で注目を集める監督
が、今回と同じようなコメントをしても、「キャラ通り」で済んだかもしれません。 ところが、チブの場合は「違うスタイルを目指している監督」というイメージができつつあったからこそ、その反動も大きくなりました。
「高い基準を掲げると、そのぶんだけ転んだときの痛みが増す」 このことは、指導の現場や育成年代でも、どこか身に覚えのある感覚かもしれません。
「正しい/間違い」より、「どこで何を選ぶか」を見る
審判の誤審と、選手の「ふるまい」をどう切り分けるか
今回の一件では、退場だけでなく、インテルの選手の振る舞いも議論になりました。 接触を大げさに見せたのではないか、という疑い。
シミュレーションは、ルール上はファウルです。 ただ、現実には「うまさ」と「ずるさ」の境界線に立つ行為として、どの国でも揺れ続けています。
ここで、大事になってくるのは、
- 審判のミス
- 選手のふるまい
- その後のクラブ・監督の言葉
この3つを、同じ土俵でごちゃ混ぜにしないことかもしれません。
例えば、自分が選手なら、こう自問するかもしれません。
- 接触があったとき、自分はどう倒れるだろうか
- 倒れずにプレーを続ける選択肢と、倒れてファウルをもらう選択肢、どちらを選ぶだろうか
- その選択を、自分はチームメイトや子どもに説明できるだろうか
あるいは、指導者ならこう考えるかもしれません。
- 「審判に判断材料を与えるな」と教えるのか
- 「大げさに倒れるな」と教えるのか
- それとも、「自分の感覚に正直でいろ」と伝えるのか
どれか一つが「絶対の正解」というよりは、チームの価値観をどう設定するかという話です。
日本で同じことが起きたら、どうなっていただろう
もし同じような出来事が、日本のJリーグで起きていたらどうでしょうか。
SNSでは、イタリアと同じように、激しい言葉が飛び交うかもしれません。 ただ、少し違うのは、政治家や文化人までが次々と参戦してくる、という風景はあまり想像しにくいところです。
一方で、日本にも特有の難しさがあります。
- 「波風を立てない」ことが優先される
- 判定への疑問を口にすると「言い訳」と見られやすい
- 逆に、誤審で得をしても、あまり触れないことが「大人の対応」とされることが多い
そう考えると、日本の監督や選手たちにも、別の種類のプレッシャーがかかっています。
例えば、 「明らかに自分たちが得をした誤審」を試合後にどう扱うか。
- 触れずに通り過ぎる
- 「自分たちもラッキーだった」とだけ言う
- 「相手には申し訳ない」とまで踏み込む
どこまで言うのか、どの言葉を選ぶのか。 これは、単に「正義感」の問題ではなく、クラブ文化やリーグ文化ともつながる選択です。
「騒ぎ」を大きくするコミュニケーション、「静かに考える」コミュニケーション

クラブは、何を守るために発言しているのか
今回のイタリアのケースでは、インテルのフロントも前面に出ました。 ジュゼッペ・マロッタが、リーグのロゴを背にしながら会見し、自分たちに対する「過去の不利な判定」まで持ち出して反論します。
その姿は、
- クラブを守ろうとする必死さ
- サポーターの怒りに応えようとする姿勢
という面もありつつ、
- 「結局は同じ土俵で戦うのか」という残念さ
- 「冷静さよりも、声の大きさが勝つ」構図の再生産
という面も持っていました。
クラブの役割は何か。
- 自分たちの利益を最大化すること
- 競技全体の信頼を守ること
この2つのバランスを、どう取るのか。 それは、日本のクラブにとっても、決して他人事ではないテーマです。
「声を上げるべきとき」と「沈黙も選択肢になるとき」
誤審があったとき、あるいは誤審の恩恵を受けたとき。 クラブや指導者には、いくつかの選択肢があります。
- 徹底的に声を上げ、問題を可視化する
- 相手や審判を責めすぎないよう、言葉を抑える
- あえて多くを語らず、選手のコメントに任せる
どれを選ぶかによって、
- サポーターの満足感
- クラブのイメージ
- リーグ全体の空気
は変わっていきます。
難しいのは、「正義」を掲げて声を上げることが、時に「炎上の燃料」にもなることです。 逆に、「静かにやり過ごす」ことが、透明性の欠如として不信感を生むこともあります。
もし自分がクラブのスタッフだったら、どこに軸足を置くでしょうか。
私たちは、どの立場からこの出来事を見ているのか
選手として
ピッチに立つ選手の目線で見れば、この一件はこういう問いを投げかけてきます。
- 誤審で得をしたとき、自分はどんな表情をするだろうか
- 倒れるか倒れないか、審判にアピールするかしないか、どこで線を引くのか
- 自分のプレーを、未来の自分や子どもに見せられるだろうか
サッカー選手は、「勝ちたい」と「誠実でいたい」の間で、常に揺れながら選んでいます。 その揺れ自体が、決して「弱さ」ではないのだとしたら、何を拠りどころに決断していくのか。
指導者として
ベンチに座る指導者の目線で見ると、別の問いが浮かびます。
- 審判のジャッジを、子どもたちにどう説明するのか
- 「理想」と「現場のリアル」のどこで折り合いをつけるのか
- メディアの前で、チームを守りながら、自分の価値観も守ることはできるのか
試合前のチブの言葉は、理想を掲げる勇気でもありました。 試合後の彼の言葉は、その理想を現場で貫く難しさを示してもいました。
自分ならどうするか。
- 厳しい状況でも、理想をそのまま言葉にするのか
- チームを優先して、言葉を濁すのか
- あるいは、「今日はうまく言えなかった」と後から修正するのか
答えは一つではありません。 ただ、その都度「何を守ろうとしているのか」を自分で意識できているかどうかは、大きな違いを生むはずです。
保護者として、観る側として
スタンドやテレビの前で見ている側にも、選択はあります。
- SNSで誰かを責める言葉を投げるのか
- 子どもと一緒に、何が起きたかを話題にするのか
- 「審判が悪い」で終わらせず、「自分ならどうするか」を一緒に考えるのか
例えば、今回のような出来事を見たあとに、こう問いかけてみることもできます。
- 「もし君がカルルだったら、どんな気持ちになる?」
- 「もし君がインテルの選手だったら、どういうふうに振る舞う?」
- 「もし君が監督だったら、試合後に何を話したい?」
「誰が悪いか」を決める会話ではなく、「自分ならどう考えるか」を探す会話にしていく。 その積み重ねが、子どもたちの中に「自分で選ぶ力」を少しずつ育てていくのかもしれません。
結論を急がないことが、サッカーを豊かにするかもしれない
今回のチブとインテルを巡る騒動は、「偽善だったかどうか」を裁く材料として消費されがちです。 けれど、そこだけで終わらせてしまうには、あまりにも多くの問いが詰まっているようにも見えます。
- 理想を掲げること自体は、間違いだったのか
- 転んだときに、どのように立ち上がり直すのか
- 誤審に直面したとき、自分は何を優先して選ぶのか
もしかしたら、彼自身も今、あの試合後の言葉を振り返りながら、何かを考え直しているのかもしれません。 私たちが試合を見たりニュースを読んだりするときにできるのは、その「揺らぎ」を一人の人間のものとして想像してみることです。
サッカーは、90分のプレーだけで完結する競技ではありません。 ピッチ外の言葉や沈黙、その一つひとつにも、「どんなサッカーを信じるのか」という選択がにじみます。
誤審をどう扱うか。 シミュレーションをどう教えるか。 試合後のマイクの前で、何を守るのか。
答えを急いで一つに決めなくても構いません。 大事なのは、出来事が過ぎ去ったあとに、「自分ならどう考えるだろう」と一度立ち止まってみること。 その時間こそが、プレーにも人生にもつながっていく、静かなトレーニングになるのかもしれません。
