空席のオリンピコが映すもの――ラツィオのボイコットと「子どもたち」が問いかけるサッカーの未来
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オリンピコが空いた夜に、誰がスタジアムへ足を運ぶのか

ローマのオリンピコスタジアム。
本来なら、ラツィオ対アタランタという「セリエAの目玉カード」を前に、スタンドは青と白に染まり、大きな歌声が響いているはずの場所です。
ところが、現実は違いました。
クラブへの抗議として、ラツィオの多くのサポーターがホームゲームをボイコットする流れが続き、今度のアタランタ戦でも、スタンドは大きく空くことが予想されています。
そこでクラウディオ・ロティート会長が選んだのは、「空いた席をサッカースクールや子どもたち、その家族で埋める」という手でした。
一見すると、子どもたちにとっては夢のような話です。
しかし、熱いサポーターたちからは、その動きが「挑発」にも見えています。
この出来事を、ただの「クラブとサポーターの対立」として眺めることもできます。
でも少し立ち止まると、この中には「誰が、何を大事にしようとしているのか」という、サッカーに関わる人なら誰にでもつながる問いが見えてきます。
なぜロティートは「子どもたち」を選んだのか
空席を埋める判断と、その裏にある計算
ラツィオのサポーターによるホームゲームのボイコットは、2025年末から2026年にかけて、特に強くなっています。
ホームのレッチェ戦、ジェノア戦では、ゴール裏のスタンドが驚くほど空っぽになりました。
アタランタ戦も同じような状況が予想され、事前のチケット販売は伸び悩んだまま。
そこでクラブは、多くの席をサッカースクールや学校、子どもたちとその家族に開放する方向に動きました。
スタジアム8万人のうち、埋まるのは数千人。
それでも「無人のスタジアム」ではなく、「試合らしい雰囲気」をつくろうとしたわけです。
もし自分がクラブのトップだったとして、同じ状況に立たされたら、どう考えるでしょうか。
- サポーターとの対話を優先して、まずは話し合いの場を設ける
- とにかくチームのために、少しでも観客を入れて、選手たちに後押しを与えようとする
- ボイコットを受け止めて、あえて何もしない、という選択をする
ロティート会長は、その中で「スタジアムを子どもたちに開く」という道を選びました。
そこには、いくつかの意図が重なっているかもしれません。
- テレビや選手、スポンサーに対して、空っぽのスタジアムという「絵」を避けたい
- 子どもや家族を通じて、新しい観客層とつながりたい
- 「サポーターがいなくても前に進める」というメッセージを、意識的か無意識的に出している
どの比重が大きいのかは、外からは測れません。
ただ、ひとつだけ確かなのは、クラブにとっても「簡単な答えではなかっただろう」ということです。
ファンの怒りの矛先になり得る選択をあえてするか、それとも何もしないか。
どちらにもリスクがあり、その中で「子どもたちを招待する」という判断がなされた。
この「選択の重さ」をどう受け止めるかは、見る側にも問われています。
サポーターはなぜ「スタジアムに行かないこと」を選んだのか
| 立場 | 優先したいこと | 行動の選択 | 葛藤の大きさ |
|---|---|---|---|
| クラブ会長 | 空っぽのスタジアムという映像を避けたい | 子どもや学校に席を開放 | ◎ 積極的対応 |
| コアサポーター | クラブ運営の変革を求める | ホームゲームをボイコット | ○ 自ら苦しむ選択 |
| 育成年代コーチ | 子どもに本物の体験をさせたい | 子どもを連れてスタジアムへ行くか検討 | △ 状況の意味づけに迷い |
| 招待された子ども | 純粋にサッカーを楽しみたい | 大人の葛藤の中でプレーを観る | △ 状況を理解できるか不確実 |
| 一般の親 | 子どもにセリエAを見せたい | 機会として捉えて参加する | ○ 対立構造に巻き込まれる不安 |
応援しない勇気、という逆説
一方で、ラツィオのサポーターたちの選択も、感情的な反発だけでは説明しきれません。
彼らは、クラブのオーナーシップや投資姿勢、長年にわたるクラブ運営への不満を積み重ねてきました。
そしてついに、「試合に行かない」という形で、それを表現することにした。
普通、サポーターは「現地で声を出すこと」でチームを支えようとします。
それは、選手にとってもエネルギーになります。
だからこそ、ボイコットというのは、ある意味で「自分たちにとっても苦しい選択」です。
もし自分がラツィオのサポーターだったら。
数年、あるいは十数年にわたる不満があったとしても、「アタランタ戦なんて絶対に現地で見たい」と思うかもしれません。
それでも行かない。
この決断には、「クラブに対して、自分たちの存在の大きさを気づかせたい」という思いも、「このままでは、未来が変わらない」という焦りも、入り混じっているはずです。
応援しないことで、チームを苦しい状況に追い込んでしまうリスクを知りながら、それでもクラブ全体を変えるために選択する。
ここにもまた、「どの優先順位を選ぶか」という、重い問いがあります。
スタジアムに連れてこられた子どもたちは、何を見るのか
- 「今日はなぜ席が空いているか」を一緒に考える時間をつくる — 断定せず子どもの疑問を出発点にして、クラブと支持者の関係を考えるきっかけにする
- 観戦の目的を事前に選手と決めておく — 「今日はGKの構え方を観よう」など具体的な観察テーマを出発前に設定し、体験に意味を持たせる
- 帰路に「一番印象に残ったプレー」を各自が話す5分間をつくる — 試合後の体験を言語化させることで、観戦をただの娯楽から学びの場に変える
憧れの舞台か、対立の現場か
この構図の中で、最も複雑な立場に立つのは、もしかするとスタジアムに招待された子どもたちかもしれません。
彼らにとって、オリンピコのピッチは「夢の場所」です。
プロの試合を生で見られる。
テレビでしか知らなかった選手たちが、目の前で走る。
それは、もちろん素晴らしい経験です。
同時に、このスタジアムは今、「クラブとサポーターの対立の舞台」にもなっています。
周りの大人たちが、
- 「あの会長がいる限り、俺は行かない」
- 「チームのために観に行くべきだ」
と話し合っているのを見聞きしながら、その子はそこで何を感じるでしょうか。
「プロの試合を楽しむ気持ち」と、「大人たちの葛藤」が、同じ80分、90分の中に同居します。
子どもの立場からすれば、
- 純粋に、サッカーそのものを楽しむ
- クラブやサポーターの問題にも、少しずつ関心を持つ
- よくわからないまま、「自分のクラブはいつも揉めている」という印象を持つ
といった、さまざまな受け止め方があり得ます。
どれが「正しい」ということではなく、そこにもひとりひとりの「感じ方」「考え方」が育っていく余地があります。
もし、自分がその子どもたちのコーチだったら。
「会長が悪い」「サポーターが悪い」と簡単に言い切る前に、どんな言葉を選ぶでしょうか。
「今日のスタジアムは、なんでこんなに空いているんだろうね」
そんな素朴な問いから、一緒に考えてみる、という関わり方もあるかもしれません。
イタリアのスタジアムと、日本のスタジアム
- 応援することと批判することは矛盾しない — クラブを愛しているからこそ変革を求めてボイコットするという選択肢があることを知っておく
- スタジアムの雰囲気は人が作る — 8万人の席に数千人しかいない日でも、子どもたちの歓声がその場の空気を変えることがある
- 自分が応援に行くかどうかを自分で選ぶ習慣を持つ — 親や友達に言われたからではなく、自分なりの理由でスタジアムへ行く意識がサポーター文化の根本にある
日本ではどう考えられるか
このラツィオの出来事を、日本のサッカーに重ねてみると、いくつかの問いが浮かび上がってきます。
例えば、Jリーグのクラブで同じように、
- 長期的なクラブ運営への不満がサポーターに積み重なり
- スタジアムボイコットという形で表現され
- クラブ側が子どもたちやスクールを大量招待して、空席を埋める
という状況が起きたとしたら。
そこで、自分はどちら側に立って物事を見ようとするでしょうか。
- クラブ経営者の目線から、「スポンサーや選手のために観客を入れたい」と考える
- 熱心なサポーターの目線から、「自分たちの声が届くまで主張を続けたい」と考える
- 子どもを連れていく親の目線から、「せっかくの機会だから見せたい」と考える
- 育成年代の指導者の目線から、「どんな場を子どもに見せるべきか」を悩む
日本では、サポーターとクラブの距離感が、イタリアとは少し違うところもあります。
けれど、「クラブをどう育てていくのか」「誰がどんな責任を持つのか」というテーマは、共通しています。
応援する声も、批判の声も、ボイコットも、子どもたちの招待も。
その全てが、「クラブというひとつのチームを、どんな方向に進めていくのか」という、大きな問いの一部です。
「考えるサッカー」はピッチの外にもある
自分なら、どんな選択をするだろう
サッカーで「判断力」が大事だと言われると、多くの人はピッチの上の話を思い浮かべます。
パスかドリブルか、シュートかキープか。
しかし、今回のラツィオのような出来事を見ていると、「サッカーの判断力」は、スタジアムの外側にも広がっていることに気づきます。
会長は、空いたスタンドをどうするかという「クラブの判断」を迫られました。
サポーターは、応援と抗議のバランスをどうとるかという「ファンとしての判断」を迫られました。
招待された子どもたちと家族も、「この状況をどう受け止めるか」という、自分なりの判断を迫られます。
選択肢はいつもひとつではありません。
だからこそ、「なぜ、その選択をしたのか」を考えてみることに意味が生まれます。
たとえば、こんな問いを自分に投げかけてみることができます。
- 自分がロティート会長なら、子どもたちを招待する前に何をしようと考えるか
- 自分がラツィオのコアなサポーターなら、どこまでボイコットを続けるか
- 自分がその街のサッカースクールのコーチなら、子どもたちを連れて行くかどうか、どうやって決めるか
どの立場に立つかによって、見える景色は変わります。
「どの選択が正しいのか」を急いで決めるのではなく、「それぞれの立場にどんな理由や葛藤があるのか」を想像してみること。
その時間そのものが、「考えるサッカー」の一部になっていくのかもしれません。
問いを残してスタジアムを後にする

静かな余韻としてのサッカー
おそらく、アタランタ戦の日のオリンピコには、いつもとは違う空気が流れるでしょう。
8万人の器に、数千人の声。
そこには、プロのプレーに目を輝かせる子どもたちもいれば、複雑な思いでテレビを見つめるサポーターもいるはずです。
誰が正しいのかを決めることは、もしかすると、それほど重要ではないのかもしれません。
大事なのは、「この出来事を、自分はどう受け止めるのか」を、それぞれが自分の頭で考えてみること。
試合が終わって、スタジアムを後にするとき。
ある子どもは、「やっぱりサッカーって最高だ」とだけ感じて帰るかもしれません。
別の子どもは、「なんでこんなに席が空いていたんだろう」と、不思議に思いながら帰るかもしれません。
そのどちらにも、サッカーを通じた学びの入り口があります。
ピッチの上の90分だけでなく、その裏側にある人の考えや選択のプロセスに目を向けてみる。
そこから見えてくる景色を、急いで言葉にしなくても構いません。
答えが出ないまま、胸の中に小さな問いを残して家路につく。
そんな夜もまた、サッカーがくれる大切な時間のひとつなのだと思います。
