VAR時代に問われる「自分で決める力」──笛を持つ人とサッカーが抱える迷いの正体
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笛を吹く人が迷うとき、ピッチの中では何が起きているのか

一枚のイエローカードを出すか、出さないか。
あるいは、ペナルティエリアの中で起きた接触を「ファウル」と見るのか、「プレー続行」と見るのか。
その一瞬の判断が、選手のキャリアやクラブのシーズン、サポーターの週末の気分まで左右してしまうことがある。
イタリアでは、この「一瞬」をめぐる議論が続いている。
元主審のピエロ・チェッカリーニは、セリエAでの最近の判定騒動について、いまの審判たちが「ピッチの上で決める力を失っている」と語っている。
ビデオ・アシスタント・レフェリー(VAR)の導入で、誤審は減るはずだった。
ところが、ナポリ対アタランタのゴール取り消しや、ミラン戦での判定をめぐり、新たな「混乱」が生まれていると言う。
チェッカリーニは「本来、ピッチで見えているはずの場面まで、VARに委ねられてしまっている」と疑問を投げかける。
では、この「決める力」を失うとはどういうことなのか。
そして、それは日本のサッカーにとっても、他人事の話なのだろうか。
VARが「助け」から「迷いの種」になるとき
チェッカリーニが強調するのは、「VARは、主審が見られなかった場面や、明らかな重大ミスに限って介入すべきだ」という点だ。
オフサイドの判定やゴールラインテクノロジーのように、「測れば分かる」ものに関しては、テクノロジーの価値ははっきりしている。
しかし、接触プレーのファウル判断のように、「見る人によって解釈が分かれる」場面に、どこまでVARが踏み込むのか。
ここで、審判も、選手も、指導者も、サポーターも、何を基準にすればいいのかが分かりにくくなっている。
ナポリのゴール取り消しシーンでは、FWホイルンドとDFヒエンの接触が問題になった。
接触があったことは事実だとして、それを「ファウル」とみなすのか、「許容範囲のチャレンジ」とみなすのか。
ピッチの主審は一度「ゴール」と認めた。
だが、VARの介入によって、その判断が修正される。
この流れが続くと、主審の頭の中に、こんな声が生まれていくのではないか。
「自分で決めなくても、あとでVARが何とかしてくれる」
一見、安心材料のようにも思える。
しかしプレーのたびに、「今のはVARで見直されるかもしれない」という予感を持ちながら笛を吹くとしたら、そこに「迷い」が入り込む余地は大きい。
選手も同じだ。
接触があるたびに、「倒れてアピールした方が得なのか」「続けてプレーした方がいいのか」を計算するようになる。
ひとつのプレーの中で、「ボールをどう扱うか」と同時に、「審判にどう見せるか」を意識せざるを得ない空気が生まれている。
| 観点 | VAR導入前 | VAR導入後 | 継承/変化 |
|---|---|---|---|
| 判定権限 | 主審が全判断を完結させる | VARが介入し最終修正が発生 | △ 変化 |
| 決断の速さ | 即時判断が前提 | VARチェック待機で間延び | △ 変化 |
| 責任の帰属 | 「自分の目で見た」主審責任 | VARとの共同判断で責任分散 | △ 変化 |
| 選手の対応 | プレーを優先して続行 | アピール行動が計算に入る | △ 変化 |
| 副審との言葉の連携 | 言葉・目配せで補完 | VARがあっても変わらず重要 | ◎ 継承 |
ピッチの中で「決めきる」ということ
チェッカリーニが口にしたのは、「昔は、ピッチの中で決めていた。自分の目で見て、自分の責任で」という感覚だった。
それは、ただ強引であれ、という話ではない。
むしろ、「自分が決める役割なのだ」と腹を括ったうえで、その責任を引き受ける姿勢のことだろう。
イエローカードを出さなかったとき、「なぜ出さなかったのか」を説明できるか。
PKを取ったとき、「なぜ取ったのか」を、映像を見直したあとでも、自分の言葉で語れるか。
それは指導者にも、選手にも、そのまま当てはめられる問いだ。
たとえば、終盤の交代をどうするか。
疲れているセンターバックをそのまま続投させるのか、リスクを承知で攻撃的な選手を投入するのか。
ベンチから見ていると、どちらにも理由がある。
だからこそ、誰かに答えを用意してもらうことはできない。
「どちらかを選んだ自分」を、そのあとで受けとめられるかどうか。
審判もまた、90分間、ずっとこの「選ぶ責任」を背負い続けている。
違うのは、いまはVARという「別の目」が用意されていることだ。
その存在が、「自分で決めきる」姿勢を弱めてしまうのか、それとも、より質の高い判断を支える道具になるのか。
実は、それを左右するのは、テクノロジー自体ではなく、「どう使うか」を決める人間の側の姿勢かもしれない。
- 判定への対応力をトレーニングに組み込む — 判定が出た直後に感情でプレーを止める選手に対し「次のプレーで示せ」と声かけし、切り替えの習慣を積み上げる
- グレーゾーンを意図的に作る — 練習中のミニゲームで審判なしを導入し、選手自身が「ファウルか否か」を交渉・判断する場面を設計する
- 判断の根拠を言語化させる — 試合後レビューで「なぜあの選択をしたか」を選手に語らせ、正解を教えるのではなく判断の質を対話で引き上げる
「助け合う」ことと「頼り切る」ことの境界線
チェッカリーニは、主審だけでなく、副審や第4の審判員との「言葉の連携」の大切さにも触れている。
VARがあってもなくても、ピッチには複数の目と耳がある。
その中で、誰がどの情報を伝え、最終的に誰が決めるのか。
これは、チームの中での役割分担にもよく似ている。
センターバックがラインコントロールをしながら、ボランチに「寄せていい」「下がって」の声をかける。
サイドバックがウイングに「内側を切るのか、外側を切るのか」を事前に確認する。
こうした「助け合い」は、決断の精度を上げるためのものだ。
しかし、誰か一人に「決めてもらおう」とし始めた瞬間に、バランスが崩れる。
例えば、ビルドアップの場面で、センターバックが常に「監督の指示」を待つだけになってしまうと、プレーは止まる。
なぜなら、ピッチの中で起きていることと、ベンチから見える景色には、時間差と情報の差があるからだ。
審判とVARの関係も、これに近い。
VARは、高い位置から、リプレイ映像を何度も見直せる「別の角度」を持っている。
だが、その「別の角度」に頼り切ってしまうと、ピッチの中で感じられる速度や、選手の体のぶつかり方の「生の情報」が軽く扱われてしまう。
本来は、
- ピッチの中の感覚
- 映像からの客観的な情報
この二つが補い合うことで、より納得のいく判断に近づくはずだ。
その境界線を、どこに引くのか。
この線引きは、規則だけでなく、一人ひとりの「どこまで自分で決めるか」という覚悟にも関わってくる。
- 倒れた理由を自分で説明できるようにする — 倒れた瞬間、ファウルかどうかを感情ではなく事実として振り返る習慣をつけると、次のプレー判断が落ち着く
- 納得いかない判定はノートに書き留める — その場で怒るより「なぜその判定か」を後で考えると、審判目線を理解でき自分のプレー改善につながる
- 「自分で選んだ」プレーを毎試合1つ振り返る — 指示待ちではなく自分で状況を読んで動いた場面を積み重ねることで、判断力が着実に育つ
「変わりたくないシステム」と、そこで生きる個人の選択
チェッカリーニは、イタリアの審判協会(AIA)について、「本来必要な変化を、システムが望んでいない」とも語っている。
上に立つ人を変えるべきだという意見に対しても、「大事なのは人を入れ替えることそのものではなく、独立性や国際的な経験を持ち、実力でポジションを得た人材がいるかどうかだ」と指摘する。
要するに、「人事を変えればすべて解決する」という単純な話ではない、ということだ。
日本のサッカー界にも、似たような構図はあるかもしれない。
育成年代で、「もっとチャレンジする選手を育てたい」と言いながら、ミスに対しては厳しく処罰してしまうチーム。
「自分で考える選手を」と言いつつ、試合中はベンチから細かく指示を出し続けてしまう指導者。
システムとしては「変わりたい」と言っている。
しかし、日常の選択を見ていくと、「変わらない方が楽」という空気が、どこかに残っている。
審判の世界でも、似たジレンマを抱えているのかもしれない。
・本当は、自分の目と感覚で判断したい。
・だが、ミスをしたときに浴びせられる批判の大きさを考えると、VARに頼りたくなる。
・上からの評価や配点も気になる。
そんな揺れの中で、「自分はどう笛を吹くのか」を選ばなければならない。
システムがすぐには変わらないとしても、その中で個人がどんな姿勢を取るか。
これは、選手にも指導者にも保護者にも、そのまま返ってくる問いだろう。
「誤審がゼロの世界」は、本当に望んでいる世界なのか
テクノロジーが進むと、どうしても「ミスをなくしたい」という欲求が強くなる。
だが、サッカーから「誤審」や「グレーゾーン」の判定をすべて消し去ることが、本当に望ましいのかどうかは、立ち止まって考える価値がある。
もちろん、選手にとって不公平な判定は少ない方がいい。
キャリアを左右する試合での明らかな誤審は、可能な限り減らしたい。
ただし、「すべてを白黒はっきりさせたい」という願いが強すぎると、「グレーな状況で、自分で判断する力」が育ちにくくなる危険もある。
ピッチの中で、選手は常にグレーな情報の中で決めている。
・ボールが来るかどうか、まだ分からないタイミングで、裏へ走り出すか。
・味方の状態が見え切っていない中で、縦パスを通すのか、確実な横パスを選ぶのか。
・ファウルを受けたと感じた瞬間に、倒れるのか、もう一歩踏ん張るのか。
そこには「正解の映像」はない。
あとからスローで見返せば、「こうすればよかった」はいくらでも言える。
それでも、その瞬間に「自分はこうする」と選んだことに向き合う時間が、選手を成長させていく。
審判の判定も同じで、「必ず誰かが正解を教えてくれる世界」になってしまうと、その時間が奪われてしまうかもしれない。
日本では、どうこの問題を受け止められるだろうか

Jリーグでも、VARをめぐる議論は増えている。
PKの有無、ハンドの判定、退場の基準。
イタリアと同じように、「どこまでVARが介入すべきか」についてのモヤモヤは、多くの人が感じているはずだ。
ここで、単に「賛成か反対か」という二択で考えるのではなく、少し視点を変えてみることもできる。
・もし、自分が主審だったら、どこまで自分で決めたいと思うか。
・もし、自分が選手だったら、どこまで審判の「生の感覚」を尊重したいと思うか。
・もし、自分が指導者だったら、どんな判定の世界で選手を育てたいと思うか。
たとえば、育成年代の試合ではVARはない。
その中で、選手が納得いかない判定に出会ったとき、
- すぐに感情的に反応する
- 一度飲み込んで、自分のプレーに戻る
- 後でビデオを見ながら、「なぜあの判定になったのか」を仲間と話し合ってみる
どの行動も取りうるが、そこにはそれぞれ別の学びがある。
日本サッカーの中で、「誤審をゼロにすること」だけを目標にするのではなく、「判定とどう向き合うか」を含めて、選手の成長を考えることもできるかもしれない。
もし自分が「笛を持つ立場」だったら
読んでいる人の多くは、審判ではないかもしれない。
しかし、チームのキャプテンであったり、保護者として子どもに声をかける立場であったり、あるいは指導者として、日々小さな決断を繰り返しているはずだ。
「笛を吹く」という行為を、自分の立場に置き換えてみると、いろいろなものが見えてくる。
・子どもがミスをしたとき、すぐに答えを教えるのか、自分で気づく時間を待つのか。
・プレー中に細かく指示を出し続けるのか、選手の判断に委ねるのか。
・チーム戦術を「こうあるべき」と固定するのか、選手の特徴を見ながら柔軟に変えていくのか。
どれが「正しい」と言い切れるものではない。
ただ、その選択をするときに、「自分で決める責任」と「他に委ねて楽になる感覚」の間で、揺れが生まれることは多い。
その揺れ自体が、実はサッカーにとって、とても大事なものなのかもしれない。
答えの出ない判定と、答えを急がない姿勢
チェッカリーニの言葉から浮かび上がるのは、「システムが変わらないこと」への苛立ちだけではない。
その裏には、「それでもピッチの中で決め続ける人が必要だ」という、静かな願いも感じられる。
テクノロジーが進んでも、サッカーから完全に不確実性が消えることはない。
判定に納得いかない試合もあれば、自分の判断を後悔するプレーもある。
それでも、その一つひとつをすぐに「正解・不正解」で切り捨ててしまわず、
「なぜ、あのとき自分はそう選んだのか」
「他にどんな選択肢がありえたのか」
と、少し立ち止まって考えてみる。
その時間こそが、選手を、指導者を、そして審判をも、少しずつ強くしていくのかもしれない。
笛の音が鳴り止んだあと、その瞬間に戻って問い直してみる。
「もしもう一度あの場面が来たら、自分は何を選ぶだろうか」と。
サッカーは、その問いを何度でも許してくれるスポーツでもある。
