0対4の翌週、バプティスタ監督がファンへの謝罪より先に見ていたもの
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謝罪から始まった日曜日に、監督が見ていたもの
試合が終わったとき、エドゥアルド・バプティスタ監督の言葉は、結果への言い訳からではなく、ファンへの謝罪から始まった。
スコアは0対4。
ブラジル全国選手権セリエBの第28節、クリシウマはアトレチコ・ゴイアニエンセに4点を奪われ、完敗を喫した。
グスタボ・クチーニョが前半に2点を決め、後半にはグスタボ・マイアが3点目を加え、クチーニョがとどめの4点目を決めた。
数字だけを追えば、それは大量失点の敗北だ。
だが、試合後に監督が口にした言葉には、スコア以上に気になるものが含まれていた。
「いつもの自分たちではなかった」という正直さ
バプティスタ監督は、ファンへの謝罪に続けて、こんな意味のことを語った。
チームの姿勢が、いつも自分たちが示してきたものとはほど遠かった、と。
アトレチコ・ゴイアニエンセが強度の高いプレッシングで圧力をかけてきたこと、その強さに対してクリシウマが必要以上のスペースを与えてしまったこと。
そしてハーフタイムに行ったのは、戦術的な修正ではなく、選手たちの気持ちを立て直すための交代だった、とも言った。
戦術でも技術でもなく、心理面のリセット。
指揮官がそこに手をつけようとしたという事実は、この試合で何が崩れていたかを正直に示している。
勝負の世界でこうした正直さを言葉にするのは、簡単なことではない。
言い訳を探す方が、人間として自然な反応かもしれない。
それでも「いつもとは違った」と認めることは、自分たちのパフォーマンスに一定の基準を持っているからこそできる言葉だ。
基準を持つということ
自分のプレーに「いつもの自分」という軸を持つのは、じつはとても難しい。
子どもの頃から試合を重ねてきた選手でさえ、調子の波に飲み込まれて「そもそも自分らしいプレーとは何か」がわからなくなる瞬間がある。
監督が「我々らしくなかった」と言えるとき、そこにはチームとしての判断基準が存在している。
何をすべきか、どう動くべきか、という約束事よりも一歩深い、「このチームはどういう集団であるか」という共有されたイメージ。
それが崩れたことをピッチで感じ取っていた選手たちは、では試合中にどう立て直そうとしていたのだろうか。
あるいは、立て直す余裕があったのか。
スコアが開いていく中で、自分の役割を変えるべきか、それとも信じて続けるべきか。
そういう判断が、90分の中のどこかで誰かに迫られていたはずだ。
首位から16位相当へ、その間にあった時間
バプティスタ監督はもうひとつ、印象的なことを口にした。
「数節前まで、このグループは首位にいた」と。
これは自己弁護でも慰めでもなく、同じメンバーが異なる結果を生んでいるという事実の確認だ。
順位表だけを見れば、クリシウマは今ターン後半16位相当の成績に落ち込んでいる。
しかし、選手は入れ替わっていない。
チームとして積み上げてきたものが、ある時点から機能しなくなっている。
では何が変わったのか。
相手チームの研究が進んだのか。疲労が蓄積したのか。自信の糸が少しずつほどけてきたのか。
こういう局面はサッカーの世界では珍しくない。
むしろ、首位を経験したチームがその後に経験する揺り戻しは、上昇と同じくらい多くのことをチームに問いかける時間でもある。
プロセスを信じるとはどういうことか
チームが結果を出せない時期に、指導者は何をよりどころにするか。
それは多くの場合、「過程を信じる」という言葉で表現される。
しかしその言葉は、時に都合の良い言い訳にも、時に真摯な意志の表明にもなりうる。
バプティスタ監督が語ったのは、1週間のトレーニング期間と、ホームで残る2試合。
数字として計算すれば6ポイントの可能性。
それを「取り返す」と言わず、「自信を取り戻す」という言い方をしていたのが気になった。
結果と自信のどちらを先に取り戻そうとしているのか、という順序の話でもある。
勝てば自信がつく、という見方もあれば、自信があるから勝てる、という見方もある。
チームが低調なとき、指導者はどちらに先に手をつけるべきか。
これはプロの話であると同時に、グラウンドで仲間と試合をするすべての場面に通じる問いでもある。
スタジアムに戻るということ
次の2試合、クリシウマはホームのヘリベルト・フルセ・スタジアムで戦う。
オペラリオ・パラナエンセ戦が月曜日の夜、その後にアバイとの一戦が控えている。
本拠地に戻ることが、チームにとってどんな意味を持つのかは、外からは測れない。
観客の声援が重荷になるチームもあれば、それを力に変えるチームもある。
0対4の敗戦の翌週、ファンへの謝罪を口にした監督が、同じスタジアムのベンチに座る。
選手たちは、あの敗戦をどう消化して月曜日のピッチに出てくるのだろう。
引きずって出てくるのか、それとも切り替えて出てくるのか。
あるいは、引きずりながらも体を動かすことを選ぶのか。
その選択は、言葉にはならない。
ただ、キックオフの笛が鳴った瞬間に、グラウンドの上に静かに現れる。
「いつもの自分たち」は、どうやって作られるか
同じ選手が同じ戦い方をしていても、日によって別のチームのように見える瞬間があります。プレッシングの強度も、ボールへの寄り方も、守備のカバー範囲も、どれも事前に決まっているはずなのに、試合によってその徹底度が大きく変わります。
チームの「アイデンティティ」とは、戦術的な約束事よりも一段深いところにあるものです。このチームとしてどう在るべきか、というイメージの共有がそれにあたります。それが崩れると、指示通りの動きをしていても、何かが抜け落ちたように見えます。
逆にそれが保たれているとき、選手たちは約束事に加えて「これが自分たちのやり方だ」という感覚で動いています。バプティスタ監督が「いつもの自分たちではなかった」と言えたのは、そのイメージを持っているからです。
正直さが生まれるのは、基準がある場所だけ
負けた後に「我々らしくなかった」と言うことは、言葉としては謙虚に聞こえます。しかし本当のところ、それは謙虚さから来る言葉ではなく、チームとしての基準を持っているから初めて言える言葉です。基準がなければ「らしい」も「らしくない」も区別できません。
育成の現場にいる人なら、似た経験があるかもしれません。選手が「今日は自分らしくなかった」と言えるとき、その子はすでに「自分らしさ」というものを持ち始めています。それを言語化できるようになるまでの積み重ねは、数節で得られるものではありません。
首位から16位相当への転落も、同じ選手たちがそれを経験しています。何かが薄れたのか、外からの圧に屈したのか、答えはすぐには出ません。ただ、それを問い続けられる監督のもとで、チームはいつか自分たちの姿をもう一度見つけるでしょう。
