延長119分のPK戦が問いかけるもの──イタリア代表が示した「答えの出ない時間」と選択の重さ
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延長119分、そしてPK戦へ──イタリアが教えてくれた「答えの出ない時間」の意味

延長119分。 ボスニアの右足から放たれたシュートが、わずかにゴールの右へそれていく。 ゼニツァのスタジアムには、安堵と落胆が同時に重なったような、奇妙なざわめきが漂った。
まだ終わらない。 でも、そろそろ「終わり」の気配が、誰の心にも忍び寄っている。 イタリア代表は10人のまま、ただ耐え続けていた。
ワールドカップ2026のプレーオフ、ボスニア対イタリア。 凍てつくスタジアム、雪の残るピッチ、ほぼアウェーの空気。 イタリアはモイーズ・キーンのゴールで先制しながら、アレッサンドロ・バストーニの退場で数的不利となり、最後はPK戦で涙をのんだ。
結果だけを見れば、「またイタリアがW杯を逃した」という一行で片付けられるかもしれない。 だが、その90分+延長+PKのあいだには、「どう選ぶか」「何を手放し、何を守るか」という、無数の問いが渦巻いていた。
それはプロの代表チームだけの物語ではない。 育成年代の試合、地域リーグの週末の一戦、学校の部活動でも、同じような時間は確かに存在している。 自分だったら、ピッチの中で、ベンチで、スタンドで、何を考えるだろうか。
「先制してからが難しい」ゲームを、どう生きるか
14分、ボスニアGKヴァシリが自陣で不用意なボール処理をし、ニコロ・バレッラに渡った瞬間、試合は動いた。 バレッラはほとんど迷わずキーンへ。 キーンも一拍も置かず右足を振り抜き、0-1。
これは、ミスを逃さない「したたかさ」のゴールに見える。 しかし少しだけ想像してみると、そこには別の選択肢も確かに存在していた。
- バレッラが、自分で持ち運んでファウルをもらい、時間とリズムを作る
- いったん後ろに下げて、全体を整え直してから崩しに行く
だが彼は、一番リスクがあり、一番リターンも大きい「即座に前へ出す」という選択をとった。 こうした一瞬の決断には、その選手が普段どのようなサッカー観を持っているかが滲む。
先に点を取ることは、多くの場合「有利」とされる。 しかし実際には、先制した側が一番苦しくなる時間が存在する。 守るのか、さらに取りに行くのか。 イタリアも、この先制点のあと、答えのない分かれ道に立たされていた。
前からプレスを続ければ、ボスニアの勢いとホームの空気を受け止めきれないかもしれない。 かといって、ラインを下げすぎれば、波状攻撃を受けるリスクが増す。 リヌ・ガットゥーゾは、ボール保持でテンポを落としつつ、カウンターの鋭さを残そうとしたように見える。
もし自分がピッチの中にいて、1点リードで、相手がどんどん前に出てくるとしたら。 「落ち着け」と言うだろうか。 「もっと行こう」と声を出すだろうか。 それとも、両方を口にしながら、自分自身の中ではまだ迷っているだろうか。
| 局面 | 取った選択 | 代替選択肢 | 評価 |
|---|---|---|---|
| 14分の先制ゴール | バレッラが即座にキーンへ縦パス | 後ろに下げてリズムを整えてから崩す | ◎ リスク最大・リターン最大の即断 |
| バストーニ退場後の交代 | DFガッティ投入・前線レテギを下げた | SBを削り前線の厚みを維持する | ○ 3-5-1気味で現実的な対応策 |
| 数的不利での守り方 | 10人でも一発カウンターを残した | 全員守備でラインを深く下げる | ◎ ただ耐えるだけでなく意図を保った |
| 79分失点の場面 | ドンナルンマがセーブもこぼれ球を押し込まれた | セカンドボールへの対応位置を変える | △ 連続した疲労が判断を鈍らせた可能性 |
| PK戦での蹴る判断 | スポットに立つと決めた選手が蹴りに行った | 外れるリスクを考え辞退を選ぶ | ◎ 結果は失敗でも責任を引き受けた |
バストーニの退場と、監督が迫られた「痛みを伴う決断」
40分過ぎ、イタリアは最初の大きな「選択の瞬間」を迎える。 ボスニアのカウンター、走り込んだメミッチに対して、バストーニが後方からファウル。 主審トゥルパンの判定は一発退場だった。
VARが介入する時代にあっても、この数秒間で下された決断は変わらない。 バストーニは、抜ければ決定機になりそうな相手を、あえて止めに行った。 そこで手放したものは「自分の出場時間」だが、守ろうとしたものは「チームのリード」だった可能性がある。
もちろん、結果としては10人になるリスクを受け入れたことになる。 だが、その場で彼にとっての「正解」が何だったのかは、誰にも断言できない。 足を出さずに失点していたかもしれないし、うまく身体を寄せて追い出せたかもしれない。
ここで次に試されるのは、監督の判断だ。 ガットゥーゾは、すぐにディフェンダーのフェデリコ・ガッティを投入し、前線のマテオ・レテギを下げた。 中央のターゲットをひとり削り、布陣を3-5-1気味に変える選択肢を選んだ。
ほかにも、こんな案が考えられたかもしれない。
- サイドの選手を一人削って、前線の厚みは維持する
- ボランチを削って3-4-2のような形でカウンターに賭ける
どのプランを選んでも、何かを手放さなければいけない。 数的不利とは、「失う覚悟を、どこに置くか」を突きつけられる状況でもある。
ここで、もし自分が監督だったら、と想像してみる。 相手の勢い、スタジアムの空気、残り時間、選手たちの表情。 そのすべてが一気に頭に押し寄せるなかで、最初の交代カードを切る。 一度ピッチから下がった選手は、二度と戻せない。
「誰を信じるか」と同時に、「誰を外すか」を決めなければならない。 その重さを、私たちはベンチの外からどこまで想像できているだろうか。
- 10人になったときの交代プランを事前に共有する — 「DFが退場したら誰を下げてどう組み直すか」をトレーニングで議論し、監督が一人で抱え込まず選手も同じ判断基準を持てるようにする
- 「耐えるだけ」でない守り方を練習する — 数的不利でも前線に一枚残してカウンターを脅威として保つ戦術を体に入れ、消極的な守備でなく意図のある守備ができる選手を育てる
- 延長戦を想定したコミュニケーションを準備する — 延長前のハーフタイムに「PKを意識するか、まだ取りに行くか」を選手と共有し、指示ではなく対話で戦い方を確認する習慣をつくる
数的不利での「守り方」──耐えるだけか、何を残すか
後半に入ると、統計ははっきりとボスニア優勢を示した。 58分の時点で、シュート数はボスニア17本、イタリア2本。 ボール支配でも、存在感でも、ホームチームが試合を握っていた。
それでもイタリアは、完全には引きこもらなかった。 キーンが自陣でボールを奪い、ロングカウンターに出る場面もあった。 彼のシュートはわずかに枠を外れたが、「守る中にも一発を残す」というチームの意思が、そこには表れていた。
極端な「全員守備」に徹することもできたはずだ。 ラインをペナルティエリア前まで下げ、2列3列とブロックを築く。 だが、その戦い方は、相手にとっては「攻め続ければいつか崩せる」というメッセージにもなる。
数的不利のとき、選手は次のような問いにさらされる。
- どこまで前に出てプレッシャーをかけるのか
- ボールを持ったとき、無理に前に運ぶのか、それとも時間を使うのか
- 自分のポジションを守るか、味方をカバーするか
どれも、「こうすれば絶対に正しい」という答えはない。 その都度の選択が、少しずつ、チーム全体の姿を形作っていく。
ガットゥーゾは、ポリターノを下げてマルコ・パレストラを投入し、フランチェスコ・ピオ・エスポジトも送り込んだ。 10人でもただ耐えるだけでなく、「ボールを少しでも前に運ぶ力」をピッチに置いておこうとしたように見える。
この決断は、結果だけ見れば「追いつかれたチームの采配」だろうか。 それとも、「あの戦況で、なお一歩前に出ようとした挑戦」だろうか。
- 不利な局面ほど「何を選ぶか」を意識する — 数的不利や疲れている状況で真っ先に諦める姿勢を持たず、「今できることは何か」を一つ選んでプレーし続ける習慣を身につける
- PK戦の重圧を日常の練習で疑似体験する — 練習の最後にチームで蹴り合うPK戦の時間をつくり、「蹴りたくない」場面でも名乗り出る経験を積むことで本番での意思決定力を鍛える
- 試合の「1場面」でなく前後の文脈を観る — 失点やミスを単体で評価せず、その前に選手が何をしていたかを観察することで、サッカーの連続性と判断の積み重ねを理解する力を育てる
同点ゴールの裏にある「ほんのわずかなズレ」
79分、ついにスコアは動く。 エディン・ジェコが空中戦でマンチーニに競り勝ち、ドンナルンマが一度はセーブしたものの、そのこぼれ球をハリス・タバコヴィッチが押し込んで1-1。
ここでも、数え切れないほどの「もし」が浮かぶ。
- もし、クロスの前にもう一歩ラインを上げていたら
- もし、セカンドボールを拾うためのポジションを、誰かが半歩ずらしていたら
- もし、ドンナルンマがボールをこぼさずキャッチしていたら
しかし、試合の中で選手たちは、その「もし」にとどまってはいられない。 ボールはすでにセンターサークルへ向かっており、次のプレーが始まろうとしているからだ。
観客席から見れば、ミスに見えるプレーも、ピッチ上の選手たちには、それまでの数分間の流れの中で出てきた「ひとつの結果」に過ぎない。 マークを一瞬外した背景には、その少し前のプレーで身体を張ったことがあるかもしれない。 ボールに寄せきれなかったのは、直前にスペースを埋めるためのスプリントを繰り返していたからかもしれない。
私たちは、ひとつの場面だけを切り取って評価しがちだ。 だが実際のサッカーは、その前後にある100の選択が折り重なって、ようやく「1つのシーン」をつくっている。
監督もまた、揺れながらピッチサイドに立っている
延長に入ると、肉体だけでなく感情も限界に近づいていく。 99分には、ガットゥーゾがボスニアのエスマイル・バイラクタレビッチとタッチライン際で口論になり、イエローカードを受けた。
監督は冷静であるべき、とよく言われる。 だが実際には、彼らもまた90分以上、ピッチの中と同じだけ神経をすり減らしている存在だ。
- 選手交代のタイミングを間違えたかもしれないという不安
- 審判の判定への不満と、そこから選手をどう守るかという葛藤
- 自らのキャリアや評価が、この一戦で大きく揺れる可能性
それでも表情には全てを出せない。 だからこそ、ときに感情があふれ出る。
ガットゥーゾは、退場者を出した直後、ハーフタイム、延長の前後、タイムを使って選手たちを集め、戦い方を再確認していた。 言葉で伝えられることには限界がある一方で、こうした「短い対話の時間」が、選手たちの頭と心をつなぎ止めることもある。
もし自分がベンチで指揮を執る立場だったら、あの延長戦の途中で、どんな言葉を選ぶだろうか。 「PKを意識しろ」と言うのか、「まだ決めに行くぞ」と背中を押すのか。 あるいは、一言も発さず、ただ目を見てうなずくだけなのか。
PK戦という「個人の選択」が、チームの運命を決める時間

120分を戦い抜いたあとに訪れるPK戦は、「戦術」や「システム」といった言葉からもっとも遠い場所にある。 スポーツの世界ではよく「残酷な抽選」と表現される。
ボスニアはタヒロヴィッチが最初のキッカーとして成功させ、イタリアはフランチェスコ・ピオ・エスポジトが1本目を外してしまう。 続くタバコヴィッチ、トナーリ、アラヤベゴヴィッチと決まり、イタリアの3人目ブライアン・クリスタンテは失敗。 そして最後はバイラクタレビッチが決め、ボスニアのW杯出場が決まった。
PKの1本には、驚くほど多くの「選ぶ力」が詰まっている。
- どのコースに蹴るのか
- 助走の長さをどうするのか
- キーパーの動きを見て変えるのか、決めたコースを貫くのか
しかも、それらの判断は、120分走ったあとの疲労と、勝敗がかかる重圧の中で行われる。 外した選手の顔には、たいてい悔しさと同時に、自分を責める色が浮かぶ。
しかし、考えてみると、シュートを打つ前に「蹴りたくない」と言うこともできたはずだ。 それでも多くの選手は、一歩前に進み出る。 その選択そのものが、ピッチの上では尊重される。
失敗したかどうかではなく、そこに立つと決めたこと。 それは、育成年代の子どもたちにも通じる、大きな一歩ではないだろうか。
「3大会連続不出場」が突きつける問い──日本ではどう受け止めるか
この敗戦で、イタリアは3大会連続でワールドカップを逃すことになった。 最後に本大会に出場したのは2014年。 かつて4度の世界制覇を誇った国が、12年ものあいだW杯の舞台から遠ざかるという現実は、世界中に衝撃を与えた。
だが、この出来事を、「イタリアは落ちぶれた」という言葉だけで処理してしまうと、大事なものを見落とすかもしれない。
例えば日本では、この結果をどう見るのだろうか。
- 戦術面や選手の選考の失敗として、具体的に分析する視点
- 育成環境やリーグの質など、長期的な構造の問題としてとらえる視点
- それでも代表を応援し続ける文化や、失敗から立ち上がるプロセスに目を向ける視点
どれも間違いではない。 ただ、日本サッカーにとって大切なのは、「他国の失敗」から何を学ぶかではないだろうか。
たとえば、次のような問いが浮かんでくる。
- 日本の代表やクラブが、大きな失敗をしたとき、どれだけ時間をかけて立て直そうとするのか
- 結果だけで指導者や選手を評価せず、「どう戦ったか」を議論する土壌があるか
- 育成年代から、「考えて選ぶ選手」を育てることを、どれほど大切にしているか
イタリアの敗退は、そのまま日本に当てはめることはできない。 国の歴史も、文化も、リーグの形も違うからだ。 だからこそ、答えを早く決めつけず、「自分たちならどうするか」を考え続ける時間が必要なのかもしれない。
「終わり」が来るまでに、何度もやってくる小さな決断
試合後、ピッチに崩れ落ちる選手もいれば、静かに天を仰ぐ選手もいる。 誰の胸にも、「あのとき、別の選択をしていれば」という後悔が、一つや二つは浮かんでいるはずだ。
だが、サッカーの90分+αとは、「一度きりの選択」の積み重ねでもある。 ボスニアが勇気を持って前に出続けたことも、イタリアが10人で耐え続けたことも、PK戦でスポットに立った選手たちも。 正解かどうかは、誰にも決められない。
私たちにできるのは、その決断の裏側にある揺れや迷い、勇気や怖さを想像することだろう。 そして、もし自分が同じ場面に立たされたら、何を守り、何を手放すのかを、心の中でそっと問い直してみること。
答えは、すぐには見つからないかもしれない。 それでも、ボールは回り、試合は進んでいく。
ホイッスルが鳴るその瞬間まで、どんな選択を重ねていくか。 サッカーの時間は、そのひとつひとつを静かに映し出しているのかもしれない。
