ブルーノの19本目のアシストから学ぶ、「誰にパスを出すか」が日本の選手の選択・役割・感情コントロールを変える理由
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なぜ「誰にパスを出すか」で、サッカーはこんなにも変わるのか

ブレントフォード戦、マンチェスター・ユナイテッドの10番、ブルーノ・フェルナンデスは、またひとつアシストを積み上げた。
19本目のアシスト。
数字だけ聞けば「またか」と通り過ぎてしまいそうだが、その場面には少しだけ不思議な空気があった。
彼は、誰にパスを出すかをあらかじめ「選んで」いたと言われている。
そして、その直後に、相手なのか、味方なのか、自分の中の何かに対してなのか、謝るような仕草を見せた。
結果としては「ナイスアシスト」。
けれど、その裏側には、「どう選ぶか」という、もっと静かなドラマがあったように思う。
19本目のアシストの前にあった、小さな迷い
選択肢は、いくつあったのか
試合の映像を思い浮かべてみる。
ブルーノは、ペナルティエリアの少し外、中央よりやや右側。
視野には少なくとも、次のような選択肢があったはずだ。
- 自分でシュートを打つ
- エリア内で動き出すストライカーにつける
- 後ろのカゼミーロら、中盤の選手に戻してやり直す
- サイドの味方に展開して、もう一度クロスを待つ
どれも、それなりに合理的な選択に見える。
でも彼は、その中から「特定の一人」を選んだ。
それは、単に「一番フリーだったから」なのか。
それとも、最近ゴールから遠ざかっている仲間に、決めさせたかったのか。
あるいは、相手ディフェンスのクセを見抜いて、「この選手へのパスなら、絶対に一瞬遅れる」と読んだ結果なのか。
アシストという結果だけを見てしまうと、そのプロセスは一瞬で流れ去ってしまう。
だが、もし自分がその場にいたとしたらどうだろう。
本当に、迷いなくそのパスを出せただろうか。
| 選択肢 | プレーの内容 | 想定されるリスク | ブルーノの判断評価 |
|---|---|---|---|
| 自分でシュート | ペナルティエリア外から自ら打つ | ブロックされカウンター被弾 | △ 選ばれず(フリーの味方が見えていた) |
| エリア内のFWへ縦パス | 動き出す味方に決定機を提供 | DFにカットされ即奪回 | ◎ 採用:アシスト成立 |
| カゼミーロらに戻す | 中盤でやり直し再構築 | テンポを失い相手のブロックが整う | ○ 安全だが決定機を逃す |
| サイドへ展開 | クロス再供給を待つ | 再び跳ね返される確率 | △ 時間を消費するだけ |
| アシスト後の仕草 | 申し訳なさそうに手を上げる | — | ○ 別の未来を意識した謙虚さ |
「ごめん」というジェスチャーが教えてくれるもの
アシストの直後、ブルーノは相手選手か、あるいは味方に向かって、どこか申し訳なさそうに手を上げているようにも見える場面がある。
それは、相手のマークをうまく外して得点につながったことへの「ごめん」なのか。
それとも、パスをもらえなかった味方への「今日はこっちを選んだ、すまない」なのか。
ただひとつ言えるのは、そこに「勝ったからいいでしょ」という単純さは感じられないということだ。
プロのトップ選手であっても、選んだ瞬間に少しだけ揺れる。
あの場面、別の選手に出すこともできた。
もし、外していたら。
もし、カットされていたら。
そう考えると、あの「ごめん」という小さな仕草の中に、「別の未来」を意識していた気配が透けて見える。
カゼミーロのゴールと、見えにくい役割の価値
- コーナーでの「決めない役」を全員に説明する — ニアでつぶれる・相手を引きつけるなど目に見えない役割の意義を言語化する
- ミスのあとに「なぜそう選んだか」を聞く時間を設ける — 利き足選択・コース選択を責めずほどく対話を習慣化する
- 「選ばなかった理由」を選手にも共有する — セレクションやキッカー選びで、今回その役を担わない選手にも背景を伝える
コーナーキックの一発で終わらせてしまわないために
同じ試合で、カゼミーロもコーナーキックから得点している。
セットプレーからのゴールは、どうしても「蹴った選手」「決めた選手」が注目される。
だが、そこに至るまでにも、さまざまな「選択」が積み重なっている。
どんなボールを蹴るか。
ファーサイドか、ニアか、ニアからそらすのか、直接合わせるのか。
キッカーは「誰が一番高く跳べるか」だけでなく、「どの選手がどのコースに強いか」「相手はどこでミスマッチを起こしやすいか」を短い時間で整理しなければならない。
ゴール前の選手たちは、「相手をブロックする」「ニアでつぶれる」「あえてボールに触らず、相手だけを引きつける」といった、目に見えにくい役割を引き受ける。
その中で、カゼミーロは「決める役」を選ばれた。
だが、その選択を支えたのは、他の選手が「決めない役」を引き受けたことでもある。
- パスの出し手の「視野」を観察する — シュート・縦・戻し・展開のどれを切ったかを想像しながら見ると見え方が変わる
- 外したシュートを「決定力不足」で終わらせない — 走り出しの位置・要求のタイミング・利き足変更まで掘ると次の練習につながる
- 感情があふれた瞬間に「自分なら誰の声でブレーキがかかるか」を考える — 怒りを否定せず、扱い方を家族や仲間と話す材料にする
日本の育成で、どれくらい「役割」を話し合えているか
日本のサッカーを見ていると、セットプレーの練習はしているが、「なぜその配置なのか」「なぜ自分はその役割なのか」が選手同士で語られている場面は、まだ少ないように感じることがある。
例えば、こんな問いが、どれくらいピッチで交わされているだろうか。
- なぜ今日は、自分がニアでつぶれる役なのか
- なぜ、この相手にはショートコーナーを増やすのか
- なぜ、普段センターバックの選手が、あえてエリア外に残るのか
コーチから「今日はこれでいくぞ」と言われた通りに動くことも、もちろん必要だ。
ただ、その一歩先として、「どうして自分はこの役割なのか」を自分の言葉で説明できる選手が増えたとき。
コーナーキックという一つの場面が、ただの「決めるか、決めないか」から、「11人それぞれの選択」が見える時間に変わっていくのかもしれない。
「チャンスを外した選手」としてしか見えなくなる瞬間
「どうしてあそこは決められないんだ」という言葉の裏側
同じ週末、別の試合では、ある選手が大きなチャンスを逃した場面が話題になった。
記者のコメントには、「なぜあの選手を獲得しなかったのか」とクラブの決断を疑問視するニュアンスも含まれている。
見事なドリブル。
華麗な崩し。
そこまでは完璧だったのに、最後の一撃だけが枠を外れた。
その瞬間、画面のこちら側で、多くの人がつぶやく。
「なんで外すんだ」
けれど、ゴールを外したその選手もまた、ピッチの中では「ひとりの考える人間」だ。
どこから走り出すか。
いつスピードを上げるか。
どのタイミングでボールを要求するか。
利き足に持ち替えるか、そのまま打つか。
その一瞬の積み重ねの先に、最後のシュートがある。
外したのは事実だ。
だが、「外した」という事実だけが、その選手を説明し尽くしてしまうとき、そこにあった思考のプロセスは、まるごと消えてしまう。
日本のピッチで、ミスのあとに何が共有されているか
日本の試合やトレーニングマッチでも、決定機を外したあとの時間には、不思議な沈黙が流れることがある。
ベンチからは「どんまい!」という声。
ピッチの中からは、視線を合わせないままプレーを続ける選手。
もちろん、試合中に長々と話し合う余裕はない。
ただ、ハーフタイムやトレーニングのあとに、こんな会話がどれくらい交わされているだろうか。
- 「あの場面、なぜ右足じゃなくて左足で打ったの?」
- 「なぜファーを狙った?ニアを打つ選択肢はあった?」
- 「ボールをもらう前のポジション取り、どんなイメージだった?」
答え合わせをするためではなく、「どう見えていたのか」を知るための対話。
ミスを責めるのではなく、「どうしてそう選んだか」を一緒にほどいていく時間。
そうした積み重ねの中で、「次はどう選ぶか」が少しずつ変わっていくのかもしれない。
感情があふれたとき、どこまでが「戦う姿勢」なのか
エデルソンの退場と、線を越えてしまう瞬間

プレミアリーグでは、マンチェスター・シティのGKエデルソンが退場になったあと、主審に激しく詰め寄り、頭をぶつけるようなシーンもあった。
スローモーションで切り取られれば、一方的な「問題行為」として拡散される。
だが、ほんの数秒前まで彼は、自分のゴールを守るために集中し続け、チームのためにリスクを背負って飛び出し、判定に納得がいかないままピッチを去らなければならなくなった。
感情があふれ出してしまうのも、ある意味で自然だ。
それでも、ルールはルールであり、頭をつけにいった行為自体は、擁護しきれない。
では、この瞬間を「ただの悪い行動」として切り捨ててしまうのか。
それとも、「なぜそこまで感情があふれたのか」「どこまでならコントロールできたのか」を立ち止まって考える材料にできるのか。
日本の選手にとっての「怒り」と「我慢」
日本のサッカーでは、しばしば「冷静さ」「フェアプレー」が評価される。
それは、とても大切な価値だ。
一方で、「怒ってはいけない」「不満を表に出してはいけない」と押し込めるだけになってはいないだろうか。
理不尽に感じる判定。
思うようにいかない試合展開。
自分の中に湧き上がる感情そのものは、抑え込む必要はない。
大事なのは、その感情をどう扱うか。
そこで退場やカードをもらってしまうのか。
それとも、次のプレーにエネルギーとして変換できるのか。
もし、自分やチームメイトがエデルソンのような場面に立ったとしたら。
どのタイミングで、自分を止められるだろうか。
誰の一言なら、ブレーキになってくれるだろうか。
「クラブの決断」と「選手の物語」のあいだ
ルベン・アモリムの「選ばなかった決断」をどう見るか
ポルトガルでは、スポルティングのルベン・アモリム監督が、ある才能ある選手を獲得しなかったことが話題になった。
その選手は別のクラブで素晴らしいプレーを見せ、しかし決定的な場面でゴールを逃してしまう。
その瞬間、「ほら、取らなくて正解だった」「いや、あのドリブルを見る限り、やはり取るべきだった」とさまざまな声が飛ぶ。
監督の決断は、いつも結果で評価されがちだ。
でも本来、監督は「今このチームに何が必要か」「どんなタイプの選手がバランスを保てるか」を総合的に考えている。
その中には、数字に表れない要素もある。
- ロッカールームの空気
- すでにいる選手との相性
- クラブが大事にしたいプレーモデル
「獲らなかった」こともまた、一つの大きな決断だ。
そして、その決断が正しかったかどうかは、一つのシュートの成否だけでは測れない。
日本では「選ばなかったこと」をどう語れるか
日本のクラブや育成年代でも、セレクションやベンチ入りのたびに、誰かを「選ぶ」ことと同時に、誰かを「選ばない」決断がある。
ただ、その「選ばなかった理由」は、あまり言葉にならないまま、時間の中に消えていくことが多い。
選ばれた側は、「良かった」で終わる。
選ばれなかった側は、「ダメだった」で自分を閉じてしまう。
けれど、本当はその間に、たくさんのグラデーションがあるはずだ。
- 今のチームバランスだと、このタイプよりあのタイプを優先した
- 将来的には必要になるが、今季のプランでは出場時間を与えにくい
- フィジカルよりも、まず戦術理解を固めたいタイミングだ
そうした「選ばなかった理由」が、もう少しだけ丁寧に共有されていれば。
選手たちは、自分の現在地をもう少し立体的に理解できるのかもしれない。
「なぜ」と問い続けるサッカー
結果の向こう側にあるもの
ブルーノ・フェルナンデスの19本目のアシストも。
カゼミーロのセットプレーからのゴールも。
大きなチャンスを外したあの選手も。
感情があふれて線を越えてしまったエデルソンも。
そして、ある選手を「獲らなかった」ルベン・アモリムも。
どの出来事も、ハイライトの数秒だけを切り取れば、「成功」「失敗」「問題行動」「名将の決断」といったラベルを貼ることができてしまう。
ただ、そのラベルの手前には、必ず「なぜ」がある。
- なぜそのパスコースを選んだのか
- なぜその走り方を選んだのか
- なぜその感情の出し方になったのか
- なぜその選手をチームに迎えなかったのか
ピッチの中で、選手も、監督も、スタッフも、常に何かを選び続けている。
それは、テレビ画面に映らないほど小さな選択かもしれない。
けれど、その積み重ねが、最終的なスコアや順位表という「結果」になって現れてくる。
自分なら、どんな選択をするだろうか
もし自分が、ブルーノの位置に立っていたら。
本当に、あの瞬間、同じ選手にパスを出せるだろうか。
もし自分が、ゴールを外してしまったあの選手だったら。
次のプレーで、何を大事にしたいだろうか。
もし自分が、エデルソンのように判定に納得できなかったら。
どこまで感情を出すか、自分で線を引けるだろうか。
もし自分が、アモリムの立場で補強を任されていたら。
数字と映像だけでなく、どんな要素まで考えに入れようとするだろうか。
サッカーを見ていると、つい「良かった」「悪かった」と言い切りたくなる。
でも、その一歩手前で、「なぜ、そうなったのか」と自分に問い返してみると、同じ試合が少し違って見えてくる。
正解を急がなくてもいい。
考え続けることそのものが、プレーの選択肢を増やし、自分のサッカーを少しずつ豊かにしてくれるのかもしれない。
ボールはいつも転がり続けている。
そのたびごとに、どんな選択をするかを、自分で決められる選手でいたいかどうか。
その問いは、ピッチの中でも外でも、静かに私たちの足元に転がっている。
