監督が「投票」ではなく「家族」を選んだ日――敗戦と選択から見えるサッカーとの向き合い方
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日曜日を「投票」ではなく「家族」に選んだ監督の話

日曜日、バルセロナの街ではクラブの未来を左右する大きな「選挙」が行われる。 会長選挙の投票日。 トップチームの選手たちも、試合を終えたあと投票所に向かう予定だという。
そんななかで、バルサ・アトレティック(Bチーム)の監督、ジュリアーノ・ベレッティは、ひとつの決断を口にした。 「自分は投票には行かない。日曜日は家族の日にする。9歳の息子と、ずっと出かけられていなかったから」
クラブの将来を決める重要な日。 監督という立場。 バルサという巨大な存在。 それらをすべて分かったうえで、「家族」を選んだ。
この選択を、あなたはどう受け取るだろうか。 正しい、間違っている、と判断する前に、「なぜその選択をしたのか」「自分ならどうするか」を、少しだけ立ち止まって考えてみたくなる場面だ。
敗戦のあとで見えた「別の基準」
ホーム初黒星、それでも口から出たのは
話は、その前に行われた試合にさかのぼる。 バルサ・アトレティックは、ホームで今季初めての敗戦を喫した。 相手はジローナB。 結果だけ見れば「ショックな敗戦」と言われてもおかしくない。
順位表を見れば、状況は決して楽ではない。 この敗戦により、バルサ・アトレティックは4位で一夜を明かすことになった。 昇格プレーオフ圏内ぎりぎりで、すぐ下にはレウスやアルコヤーノが迫っている。 彼らが日曜日に勝てば、勝ち点で並ばれてしまう可能性もある。
だからこそ、多くの人は「内容より結果」「どんな形でも勝つことが大事」と言いたくなる場面だったかもしれない。 ところがベレッティは、試合後にこうしたニュアンスの言葉を残している。
「チームには不満はない。 中盤の選手がそろわず、システムを変えざるを得なかった。 それでも、守備でも攻撃でもよく戦っていた。 ホームでいつか負けることはある。 きょう負けたのは、内容が悪かったからでも、やりたいサッカーを捨てたからでもない」
結果が欲しい状況で、負けた直後に、あえて「内容」と「姿勢」を評価する。 そこには、別の「基準」があるように見える。
| アプローチ | 短期的効果 | 長期的影響 | 評価 |
|---|---|---|---|
| 個々のミスを名指しで指摘する | 責任の所在が明確になる | 選手がリスクを避ける萎縮プレーを誘発 | △ |
| チーム全体の努力をまず評価する | 心理的安全が保たれる | 次の試合へのモチベーションが持続する | ◎ |
| システム変更の理由を丁寧に説明する | 選手の状況理解が深まる | 判断力と戦術適応力が育まれる | ◎ |
| 結果だけで評価する(勝ったからOK) | シンプルでわかりやすい | プロセスが見えなくなり成長機会を失う | △ |
| 「なぜそうしたか」を問い返す | 答えを急かすことなく考えさせる | 自律的な判断力と言語化能力が向上する | ○ |
システム変更という「苦しい選択」
この試合、チームは本来の形からシステムを変えて臨んでいた。 理由はシンプルだ。 中盤の選手が足りなかったから。
監督としては、こんな問いに向き合わざるを得なかったはずだ。
- 普段の形を維持して、慣れないポジションで誰かに無理をさせるか
- システムを変えて、選手に新しい役割を覚えてもらうか
どちらも「リスク」がある。 どちらも「正解」とは言い切れない。
今回は後者を選び、システムを変更した。 それによって、ある選手は「よい前半だった」と評価された。 一方で、チームとしては0−1で敗れた。
もし、自分が監督だったらどうしただろうか。 選手の疲労やコンディション。 相手の特徴。 自分たちが積み上げてきたスタイル。
それらを天秤にかけながら、「いまこの瞬間、何を優先するか」を選ばなければいけない。 結果だけを見れば「負けたシステム変更」と言うこともできる。 だが、ベレッティは試合後、その決断そのものを、後悔ではなく「よく戦った」という評価とともに振り返っている。
異なるリズムで生きる選手たちを、どうまとめるか
- 試合後の第一声はチーム全体への評価から始める — 個人のミスより先に「今日の条件でこれだけ戦えた」と状況を認めることで、選手が次の試合へ顔を上げやすくなる
- システム変更の意図を事前・事後に共有する — 突然の変更は選手の混乱を招くが「この条件だからこうした」という説明があれば適応力が育つ。事後の振り返りも必ず行う
- 監督自身の「ピッチ外の選択」を見せる — 家族との時間・自分のコンディション管理を大切にする姿を見せることで、選手も生活とサッカーのバランスを自然に学ぶ
「同じチーム」だけど、リズムはバラバラ
この日のメンバー構成も、簡単ではなかった。
ある選手は、ケガ明けで60分以上プレーした。 本来なら、もっと慎重に時間を管理したいところかもしれない。
別の選手は、トップチームから降りてきて試合に出た。 トップチームのトレーニングや試合での負荷と、Bチームで求められる役割。 そのギャップを埋めるには、また違う適応がいる。
さらに、ユース年代の選手たちも帯同していた。 ひとりはジュニールB(日本で言えば高校1年生前後のカテゴリーに近い)から。 もっと上のカテゴリーからの招集もあった。
つまり、ピッチ上には
- ケガから戻ったばかりの選手
- トップチームと行き来する選手
- ユースから上がってきたばかりの若い選手
が混ざっていた。 全員が、違うリズム、違う背景、違うプレッシャーを抱えながら、ひとつのチームとして戦おうとしていた。
- 「負けた試合で自分は何を見せたか」を試合後に一つ言語化する — ミスだけでなく、難しい状況で諦めずに続けたプレー・チームのために動いた場面も含めて振り返る習慣が判断力を育てる
- 監督の言葉の「なぜ」を自分で考えてみる — 指示された内容だけでなく、なぜその判断がされたかを自分で推測することで戦術理解と観察力が同時に伸びる
- 保護者は試合後すぐの評価を控え、子どもに先に話させる — 「どうだった?」と一言だけ問い、答えが出るまで待つ。子どもが自分の言葉で整理する時間が成長の素地になる
「個人」より「チーム」を語るという選択
試合後、ベレッティは「今日は個々の選手を評価する話はしない」といったスタンスを示している。 その代わりに、
- コンディションの難しさを抱えながらプレーした選手
- 100分近い試合時間を走りきったこと
- 異なるカテゴリーから来た選手が、一緒に戦ったこと
といった「チーム全体の努力」に目を向けた。
この選択には、どんな意図があったのだろう。
もしここで、ミスをした選手の名前を挙げて「もっとやれたはずだ」と言うこともできた。 逆に、良かった選手だけを褒めて、暗に他の選手との違いを強調することもできた。
でも彼は、そうしなかった。
「今日は、状況の難しさの中で、いろいろなリズムを持つ選手たちが一緒に戦った。 そのことをまず評価したい」
もし自分がベンチに座っていたとしたら。 その言葉を聞いて、どんな気持ちになるだろうか。
自分は60分で交代した選手かもしれない。 終盤にミスをしてしまった選手かもしれない。 ユースから昇格したばかりで、緊張と不安でいっぱいだった選手かもしれない。
それぞれの立場で、その言葉の響き方はきっと違う。 ただひとつ言えるのは、「今日の努力は、ひとりひとりではなく、チーム全体のものとして受け止める」というメッセージになっているということだ。
「投票に行かない」という決断から見えるもの

クラブの未来より、今この瞬間の「9歳の息子」
クラブの会長を決める選挙。 長期的に見れば、チームの方針や育成環境、クラブ全体の方向性に大きな影響を与えるイベントだ。
監督として、その投票権を持っている。 チームに関わるひとりとして、その責任をどう考えるか。
ベレッティは、その意味を理解したうえで、「自分は行かない」と選んだ。 理由は、「家族と過ごすため」。 9歳の息子と、久しぶりに出かける時間を確保するためだった。
この場面には、「何を優先するか」を選ぶ難しさがそのまま表れている。
投票に行けば、「クラブの未来に関わる責任を果たした」という感覚を持てるかもしれない。 行かなければ、「父親としての時間」を取り戻すことができる。
どちらが正しい、という話ではない。 どちらも大事で、どちらかを選べば、もう一方を選ばなかったことになる。
日曜日を、「クラブの一員」として過ごすのか。 それとも、「ひとりの父親」として過ごすのか。
プロの世界で生きる人も、こうした「人生の選択」を、日常のなかで迫られている。
日本に置き換えたときに、何が見えてくるか
この話を、日本のサッカーに当てはめて考えてみると、いくつかの問いが浮かんでくる。
- 指導者は、どこまでクラブやチームのために時間を捧げるべきなのか
- 家族との時間や、自分自身の生活とのバランスをどう整えるのか
- 選手も保護者も、指導者の「人としての生活」をどれくらい想像できているか
日本でも、週末のほとんどが試合や練習で埋まり、家族との時間がほとんど取れない指導者や選手は少なくない。
「チームのために」「子どものために」「クラブのために」 それはとても大事な価値観だが、その一方で、「自分はどこにいるのか」「家族との関係をどう守るのか」という問いは、後回しにされがちだ。
ベレッティのように、公の場で「その日は家族を優先する」と言葉にすることは、日本ではまだ少し勇気のいる選択かもしれない。
もし、自分のチームの監督が同じことを言ったら、どう感じるだろうか。 「プロ意識が足りない」と受け止める人もいるかもしれない。 「人として当たり前」と感じる人もいるだろう。
その受け止め方の違いこそが、サッカーの文化や価値観の「揺れ」を映し出しているのかもしれない。
「うまくいかなかった日」に、何を見つめるか
負けたあとに語る言葉は、チームをどこへ連れていくか
この日のバルサ・アトレティックは、ホームで初めて敗れた。 順位も、昇格プレーオフの位置が安全とは言えない。
そんな状況で、監督が口にした言葉は、
- システムを変えざるを得なかった事情の説明
- それでも戦い抜いた選手たちへの評価
- ホームで負ける日はいつか来るという受け止め
だった。
「自分たちのスタイルを捨てたから負けたわけではない」 「内容が悪かったから負けたのではない」
結果と向き合いながらも、「じゃあこれから何を続けるのか」「何を変えていくのか」を、急いで結論づけようとはしていないように見える。
うまくいかなかった日ほど、人は答えを急ぎたくなる。
- フォーメーションを変えるべきだ
- あの選手を外すべきだ
- やり方をゼロから見直すべきだ
そうした「わかりやすい答え」を探したくなる。
でも、「今日は何が起きていたのか」を丁寧に振り返ること。 「選手たちは、どんな条件のなかで戦っていたのか」を理解すること。 それを飛ばしてしまうと、次の一歩は、どこか他人事のような改善策になってしまう。
ベレッティの言葉からは、「負けた事実」だけではなく、「負けた中で選手が何を見せていたか」を見ようとする姿勢がにじんでいる。
もし自分がそこにいたら、何を選ぶか
このストーリーを、自分の立場に置き換えて考えてみたい。
- もし自分が選手なら うまくいかなかった試合のあと、監督にどんな言葉をかけてもらいたいか。
- もし自分が監督なら 相手や状況が難しい試合で、どこまでスタイルを貫き、どこから現実的な選択を優先するか。
- もし自分が保護者なら 子どもがミスをした試合のあと、何を問いかけ、何を黙って見守るか。
そして、ピッチの外側の問いとして、
- 自分の「日曜日」を、何のために使うのか
- サッカーと、それ以外の大切なもののバランスを、どうやって決めるのか
という問いも、静かに浮かんでくる。
答えを急がないサッカーの見方
なぜ、どうしてを手放さない
ベレッティの一連の選択と発言は、「これが正解だ」と押しつけてくるものではない。 負けた試合を前にしても、
- なぜこのシステム変更を選んだのか
- なぜ選手個人ではなく、チーム全体を語ったのか
- なぜ日曜日を投票ではなく、家族と過ごすと決めたのか
という「なぜ」の積み重ねのなかで、自分なりのバランスを探しているように見える。
サッカーの現場には、いつもたくさんの「選択」がある。
- パスを出すか、ドリブルか、シュートか
- プレスに行くか、ブロックを作るか
- リスクを取るか、安全を優先するか
ピッチの外にも、
- 練習を1時間増やすか、休息を優先するか
- 試合に出られない日々に、どう向き合うか
- 家族との時間と、サッカーとの時間をどう配分するか
といった選択がある。
そのどれもが、「これが唯一の正解」というものではなく、「そのとき、その人が選んだ答え」にすぎない。
自分なら、どう考えるだろう
ホームでの初黒星。 難しいメンバー構成。 会長選挙というクラブ全体のイベント。
そのなかで、ベレッティは「チームの努力」を語り、「家族との時間」を選んだ。
この物語を前にして、読んでいるあなた自身は、どんな選択をするだろうか。
- 結果が出ないとき、何を基準にチームを評価するか
- 大きなイベントと、身近な大切な時間が重なったとき、どちらを優先するか
- 目の前の敗戦から、どんな学びを拾い上げるか
サッカーは、ときに答えを急がせる。 次の試合がすぐに来るからだ。
それでも、ときどきこうして立ち止まり、「なぜ」「どうして」と問い直してみる。 自分なら、どう決めるだろう、と静かに考えてみる。
その時間こそが、プレーの質だけでなく、サッカーとの付き合い方そのものを、少しずつ変えていくのかもしれない。
日曜日の使い方を選ぶように。 1本のパスの行き先を選ぶように。 人生もサッカーも、いつも小さな選択の連続の先に続いていく。
