緊張と選択のサッカー論──ドンナルンマとイタリア代表が示す「言い訳をしない」戦い方
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「緊張は普通のこと」ドンナルンマが立つ場所から、サッカーの“選択”を考える

ワールドカップをかけた一戦、その前日に
ボスニア・ヘルツェゴビナ代表とのプレーオフ決勝を翌日に控えた会見で、イタリア代表の守護神ジャンルイジ・ドンナルンマは、静かにこうした意味の言葉を残している。
「神経質になるのは自然なことだ」 「イタリアを本来いるべき場所に連れ戻したい」
この試合は、イタリアにとって過去4年間で最も重い意味を持つと言われている。
ワールドカップ出場を逃し続けてきた歴史を背負い、ゼニツァというアウェーの地で、ボスニアが全力でぶつかってくる90分。
ドンナルンマはすでに代表80試合以上に出場している。
それでも、「緊張は普通」と口にする。
ここには、ひとりのトッププレーヤーが、結果ではなく「状態」と向き合おうとしている姿が透けて見える。
緊張を消そうとするのではなく、「あるもの」として受け入れる選択。
プレッシャーを否定するのではなく、「その中でどう振る舞うか」を考える入口に立つ選択。
もし自分がゴールキーパーとして、あるいは一人の選手として、この試合のピッチに立つとしたらどうだろうか。
緊張を「悪いもの」と決めつけて、無理やり打ち消そうとするだろうか。
それとも、「あるよね」と認めたうえで、その状態で何を見て、何を選ぶかを考えられるだろうか。
| 場面 | 言い訳する姿勢 | 言い訳しない姿勢 | 評価 |
|---|---|---|---|
| 試合前の緊張 | 「緊張しているから本来の力が出ない」と事前に逃げ道を作る | 「緊張は普通のこと」として受け入れ、その状態で何を選ぶかを考える | △ vs ◎ |
| 悪条件のピッチ | 「ピッチが悪いから自分たちのサッカーはできない」と言い訳にする | 「この条件の中で何ができるか」を問い続ける | △ vs ◎ |
| 経験不足 | 「ワールドカップを知らないからしょうがない」と可能性を狭める | 「知らないからこそ過去の失敗に縛られない」と可能性に変える | △ vs ◎ |
| PK戦の局面 | 「自分には向かない」と蹴ることを避ける | 「蹴らせてくれ」と責任を引き受ける準備をする | △ vs ◎ |
| 判断のスピード | フィジカルのスピードだけを高めようとする | 考えるスピード・選ぶスピードも同時に磨く | ○ vs ◎ |
「相手は時速100キロで来る」スピードに追いつくのは肉体だけか
ドンナルンマは、ボスニア戦に向けて「相手はものすごい勢いで来る」と警戒を示したと伝えられている。
全力でぶつかってくる相手。
スタジアム全体がホームチームを後押しする空気。
ワールドカップ出場をかけた残り1試合しかない状況。
その中で求められるのは、「走れるかどうか」だけなのだろうか。
もちろん、スプリントや強度は重要だ。
だが、こうした極限に近い試合では、もう一つ別のスピードが問われる。
それが、「考えるスピード」と「選ぶスピード」だ。
例えば、相手が勢いよくプレスに来るとき、選手の頭の中にはいくつもの選択肢が一瞬で浮かぶ。
- あえてロングボールでエリア外へ逃がす
- リスクを負ってでも一度つなぎ、プレスの裏を取る
- テンポを変えるために、あえてボールを長く保持する
ゴールキーパーであるドンナルンマも同じだ。
激しいプレッシャーを受けながら、足元でつなぐのか、大きく蹴り出すのか。
味方の状態、相手の配置、スタジアムの空気、自分自身の感覚。
そのすべてを一瞬で「感じ取り」、その中からひとつを「選ぶ」。
その決断の速さこそ、「100キロで来る」相手と戦うために必要な、もう一つのスピードなのだと思う。
日本の育成年代の試合でも、強度の高い相手に対して、判断が追いつかずにボールロストを繰り返してしまう場面は少なくない。
そのとき、私たちは「走ろう」「球際に行こう」とだけ声をかけていないだろうか。
もちろん、それも大切だ。
でも同時に、「いま、他にどんな選択があった?」と問いかける時間を持てているだろうか。
肉体的なスピードだけでなく、考えるスピードと選ぶスピードを、どう育てていけるのか。
ゼニツァでの試合を前にしたドンナルンマの言葉から、そんな問いが浮かび上がってくる。
- 試合前に「この条件の中で何ができるか」を選手に問う — 悪グラウンドや体格差ある相手など、不利な条件を先に共有し、その中の選択肢を選手自身に考えさせる
- 「判断のスピード」を意識した練習を取り入れる — 走る強度だけでなく、プレッシャー下で素早く選択肢を絞るロンドや制限付きゲームを日常的に組み込む
- PK・FK・スローインの責任者を平時から決めておく — 本番で蹴り手が迷わないよう、練習時に「誰がどの状況で責任を取るか」を明確にしておく
経験の重さと、「知らないこと」の怖さと可能性
今回のボスニア対イタリアの決戦には、ある興味深いデータがある。
出場が見込まれる選手たちの中で、過去にワールドカップ本大会を経験したことがあるのは、ごくわずかだという。
世界的なクラブでプレーしながらも、ワールドカップへの出場歴がない選手たち。
多くの選手にとって、この試合は、初めて「ワールドカップをかけて戦う」体験になる。
経験豊富な代表GKであるドンナルンマも、その意味では「まだ知らない場所」に向かっている一人だ。
経験は、もちろん武器になる。
過去に似たような場面をくぐり抜けてきた選手は、プレッシャーの波がどのように押し寄せ、どのタイミングで落ち着きを取り戻せるか、感覚として理解している。
だが同時に、「知らないこと」には、怖さと同じくらい、可能性もある。
ワールドカップを知らないからこそ、過去の失敗に縛られず、自分たちなりの戦い方を選べるかもしれない。
「こうあるべきだ」という固定観念が少ないからこそ、思い切ったチャレンジができるかもしれない。
日本の選手や指導者の立場から見ると、この状況にはどこか近さを感じる部分もあるのではないだろうか。
世界大会の経験が豊富とは言えない選手たちが、新しい景色を見ようとするとき。
怖さもあれば、楽しみもある。
その中で大事になってくるのは、「経験の量」ではなく、「これからの一歩をどう踏み出すか」という姿勢かもしれない。
自分は「知らない場所」に向かうとき、どんな構え方をしているだろう。
怖さから守りに入りすぎていないか。
逆に、根拠のない自信だけで突っ走っていないか。
ドンナルンマのようなトッププレーヤーでさえ、「緊張は普通」と言葉にしながら、その両方のバランスを探っているのかもしれない。
- 緊張を「消す」のではなく「認める」 — 「緊張している自分は普通だ」と言葉にするだけで、過度な自己批判から抜け出し判断力が戻りやすくなる
- 「自分が知らない場所」を怖さではなく可能性として捉える — 経験不足は固定観念が少ない強みでもある。思い切ったチャレンジができる自分の強みとして活かす
- ミスのあとに「次はどうする?」を問い続ける — 失点や判断ミスのあと、責めるのではなく次の選択に意識を向けることでプレーのリカバリーが早くなる
ガットゥーゾの言葉ににじむ「言い訳を選ばない」覚悟

イタリア代表を率いるジェンナーロ・ガットゥーゾ監督も、この試合に向けて会見に臨んだ。
彼は「ここで多くが決まる」と語りつつ、「ピッチ状態などを理由にするつもりはない」といった趣旨の姿勢を示している。
悪条件のピッチ。
アウェーの空気。
不安定な審判の判定。
サッカーには、選手や監督の力ではどうにもならない要素が、いつもいくつも紛れ込む。
そこに不満を抱くのは人間として自然なことだが、それを「試合前からの言い訳」にしてしまうかどうかは、また別の話だ。
ガットゥーゾが「ピッチを口実にはしない」と前もって線を引いたのは、戦術の話以上に、「どこからどこまでを自分たちの責任とみなすか」という、チーム全体の思考の枠組みを示した行為にも見える。
日本の現場でも、似たような場面は少なくない。
- グラウンドが狭いから、つなぐサッカーはできない
- 相手がフィジカルで来るから、自分たちのスタイルは難しい
- 審判が流すから、今日は荒い試合になる
こうした言葉は、ある意味で「現実を説明」している。
だが、説明と同時に、「だから仕方ない」という免罪符にもなりうる。
ガットゥーゾのように、「条件はこうだ」と現実を認めたうえで、「それでも何を選ぶのか」を問い続けることは、簡単なようで難しい。
もし自分が監督だったらどうだろう。
悪条件のグラウンドを前にしたとき、「今日は仕方ない」とチームに伝えてしまわないだろうか。
それとも、「この条件の中で、何ができる?」と選手たちに問いかける側に立てるだろうか。
PK戦の準備と、「選ぶ」ことの重さ
イタリアは、アイルランド北部とのプレーオフ準決勝を、途中まではリードしながら戦い、最終的にトナーリとキーンのゴールで次へ進んだ。
もし決着がつかなければ、PK戦になる可能性もあった試合だ。
報道では、PKを蹴る候補選手たちについても事前にシミュレーションが行われていたと伝えられている。
PKは、技術的にはシンプルなキックだ。
だが、ワールドカップ出場がかかった場面では、その1本が持つ意味が一気に膨れ上がる。
「蹴るか、蹴らないか」
「どこに蹴るか」
選手は自分の中で、その二重の選択を迫られる。
一人ひとりの選手にとって、「蹴ります」と名乗り出ることは、小さくない決断だ。
もし外したらどうしよう。
自分の一蹴で、チームをワールドカップから遠ざけてしまうかもしれない。
そんな想像をしない選手はいない。
それでも、「自分が行く」と決めるのか。
あるいは、「今日は別の誰かに託す」と決めるのか。
どちらを選んでも、その選択は軽くない。
日本の育成年代では、「PKは順番だから」「監督が決めるから」と、自分で選ぶ経験をあまり積めないこともある。
だが、本来はそこでこそ、「自分はどうしたいのか」を静かに見つめる時間が必要なのかもしれない。
もしあなたが選手なら、ワールドカップをかけたPK戦の5人に、自分から入っていきたいと思うだろうか。
あるいは、その勇気が出ない自分も含めて、正直に向き合うだろうか。
答えはどちらでもいい。
大事なのは、「どうする?」と自分に問いかけ、「こうする」と決めるプロセスそのものだ。
トナーリとキーンのゴールに見る、「うまくいった選択」の裏側
アイルランド北部との試合では、サンドロ・トナーリとモイーズ・キーンが得点を挙げ、イタリアはボスニアとの決戦に駒を進めた。
結果だけを見れば、「決めるべき選手が決めた」とシンプルに語れてしまう。
けれど、その1点に至るまでには、いくつもの「小さな選択」が積み重なっている。
- パスを出すか、自分で運ぶか
- ワンタッチか、持ち替えるか
- シュートコースを変えるか、そのまま打つか
トナーリは、中盤でゲームを作る役割が大きい選手だが、その中で「どこでリスクを取るか」を常に測っているはずだ。
キーンのようなアタッカーも、「ゴール前でボールを待つ」のか、「一度下がって受ける」のか、一つ一つの動きが選択の連続だ。
うまくいった場面だけを切り取ると、すべてが「正解だった」ように見える。
だが実際は、シュートを打つ直前まで、別の選択肢も同じくらい存在している。
日本で試合を見ている私たちは、どうしても「入ったか、入らなかったか」で判断してしまいがちだ。
けれど、選手たちの中では、「どういうプロセスで、そのプレーを選んだのか」という時間が、確かに流れている。
もし自分がトナーリの立場で、あの試合の中盤にいたとしたら。
自分は、どのタイミングでリスクを取り、どのタイミングでボールを落ち着かせるだろう。
キーンのように、ゴール前で決定機を迎えたとしたら。
自分は、「確率の高い選択」を選ぶのか、それとも、「今だからこそ狙える難しい選択」に踏み出すのか。
テレビの前で想像してみるだけでも、見え方は少し変わってくる。
「イタリアを本来いるべき場所へ」という言葉を、自分ごととして聞いてみる
ドンナルンマは、「イタリアを本来いるべき場所に戻したい」と表現した。
それは、ワールドカップ常連国としての誇りかもしれないし、直近の不出場が続いた歴史に対する悔しさかもしれない。
ただ、この言葉は、代表チームだけに向けられたものではなく、一人ひとりの選手の胸にも跳ね返っていく。
「自分は本来、どんな場所にいたいのか」 「そこに戻る、あるいはそこに到達するために、今日はどんな選択をするのか」
日本の選手たちにとっても、それは遠い話ではない。
今いるカテゴリー、今の立ち位置、今の評価。
それらを「自分のすべて」として受け入れてしまうのか。
それとも、「本当はここにいたい」「本当はこうなりたい」というイメージを、少し離れた場所に置き続けるのか。
どちらを選ぶかによって、日々の練習での一つ一つの判断も、少しずつ変わってくる。
本来いるべき場所、という言葉は、聞きようによっては危うさも含んでいる。
「自分たちは強豪だから」と慢心に変わるかもしれないし、「そうあるべきだ」という重圧にもなりうる。
けれど、この言葉を、自分の中で静かに反芻してみることはできる。
自分にとっての「本来いるべき場所」とはどこなのか。
それは、カテゴリ名やタイトルで表されるものなのか。
それとも、プレーしているときの感覚や、ボールと向き合う姿勢のことなのか。
答えを急がないまま、「自分ならどう選ぶか」を持ち帰る
ボスニアとの決戦を前にしたイタリア代表の周囲には、さまざまな物語が渦巻いている。
- 代表80試合を超えたドンナルンマが、それでも「緊張は普通」と言葉にすること
- ガットゥーゾが「ピッチを言い訳にしない」と覚悟をにじませること
- ワールドカップ未経験の選手たちが、「知らない場所」に向かって歩み出していること
- PKや決定機の場面で、一人ひとりが「自分が行くかどうか」を選んでいること
これらは、どれも「正しい・間違っている」で片づける話ではない。
ただ、「自分だったらどう感じるか」「自分ならどう選ぶか」と立ち止まるきっかけにはなる。
日本サッカーの現場でも、似たような場面は数えきれないほどある。
難しい試合の前日に、選手にどんな言葉をかけるのか。
PKを蹴る選手を、どうやって決めるのか。
悪条件のグラウンドを、どう受け止めるのか。
その一つ一つで、「何を選ぶか」が問われている。
今日のイタリア代表のニュースを、そのまま「遠い国の話」として読み流すこともできる。
けれど、もしよければ、一つだけ、自分に引き寄せて考えてみてほしい。
自分が今向き合っている試合、チーム、状況の中で、「あえて言い訳にしないと決めるもの」は何か。
そして、「怖さを感じながらも、自分から選びにいきたい場面」はどこか。
答えは、今すぐ出なくてもいい。
むしろ、簡単に結論を出さないことで見えてくるものも、きっとある。
ボールが転がるたびに、選手たちが選び続けているように、私たちもまた、サッカーを通して、自分の選び方を少しずつ探っていけるのかもしれない。
ワールドカップ予選の一試合を越えて、その先に続いていく「考える時間」こそが、サッカーが与えてくれる、もう一つの大事なピッチなのだと思う。
