言い訳の種だらけの世界で「言い訳をしないフットボール」を選ぶということ
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なぜ「言い訳をしないフットボール」は難しいのか

ポルトガルのサッカー界では、この春もいくつもの強い言葉が飛び交っている。
ビッグクラブが審判判定への不満をにじませたり、「クラブは何も得をしていない」と訴える声があったり。
代表チームから戻ってきた選手がコンディションの問題を抱えたことを明かす監督もいる。
別のクラブでは、ベテランDFオタメンディの去就について「残留は選手自身の決断に委ねられている」と語られ、
若手選手については「ここで終わってほしくない」と、その伸びしろを信じるコメントが出る。
さらに、スポルティング対サンタ・クララ戦ではゴール取り消し判定が大きな議論を呼び、
元審判による細かな解析まで登場している。
監督モウリーニョは、別の監督の言葉をなぞるように「自分も会長を100%支持する」と発言し、
クラブと監督の関係性にも視線が集まる。
どの出来事も、その国のサッカー界では日常の一部だろう。
しかし、そこに通底しているのは、ひとつの難しいテーマかもしれない。
「言い訳をしないでフットボールをすること」だ。
勝敗の外側にある「言い訳」と「理由」の境界線
判定に揺れるとき、何を選ぶか
スポルティング対サンタ・クララ戦で取り消されたゴールは、映像を見ながら元審判が丁寧に分析したという。
ポジション、接触の有無、ルールの解釈。
サポーターだけでなく専門家まで巻き込んで議論されるのは、それだけ大事な場面だったのだろう。
こうしたとき、チームや監督にはいくつかの選択肢がある。
- 判定への不満を前面に出し、声を上げる
- 判定を受け入れつつ、自分たちのプレーの中に改善点を探す
- 両方をバランスよく扱いながら、チームを前に進ませる
「どれが正しいか」をここで決める必要はない。
ただ、選手として、指導者として、あるいは保護者として試合を見守る立場として、「自分ならどれを選ぶだろう」と一度立ち止まってみる価値はありそうだ。
例えば、判定を強く批判すれば、選手たちには「自分たちの責任ではなかった」というメッセージも届きやすい。
一方で、あまりに何も言わなければ、クラブとして選手を守っていないように見えることもある。
大人の側にいる人ほど、その間で揺れながら判断しているのかもしれない。
| 出来事 | 言い訳になりうる要因 | 自分の中で変えられること | 記事の示唆 |
|---|---|---|---|
| ゴール取り消し判定への反応 | 審判の判定ミス | 判定後に自分たちのプレー改善点を探す | ◎ 判断の二層化 |
| 代表帰りの選手のコンディション問題 | 代表監督の起用過多 | 代表・クラブへの自己報告の判断 | ○ 主体的コミュニケーション |
| ベテランDFの去就が本人次第 | クラブの条件提示のみ | 何を優先するかを自分で整理する | ◎ 選択の引き受け |
| 「主力になれないと覚悟して移籍」した選手 | 新環境への不安・実績なし | 時間軸とプロセスを受け入れた上での挑戦 | ◎ 現実的な期待値 |
| 「会長を100%支持」という監督発言 | クラブ政治の外圧 | 公の言葉と心の軸のバランスを保つ | △ 折り合いの技術 |
「恩恵を受けていない」と感じるときに起きること
ベンフィカを巡っては、「このクラブが何か恩恵を受けているところを見たことがない」といった趣旨の発言があったという。
自分たちが不利な扱いを受けている、と感じるとき。
そこには、悔しさや怒りだけではなく、「公平であってほしい」という願いも入り混じっているのだろう。
この感情は、プロの世界に限らない。
少年団の試合であっても、「相手のほうが有利な判定が多くないか」「うちのほうがファウルを取られやすい」と感じる瞬間はある。
もしその場で、選手が「審判が悪い」と口にしたとき、大人はどう応えるか。
- 「そうだな」と一緒に不満を共有する
- 「気持ちはわかる。でも自分たちができたことは何かも考えてみよう」と促す
- あえて何も言わず、選手が自分で気持ちを整理するのを待つ
どの選択にも、メリットとリスクがある。
その中で、なぜ自分はその対応を選んだのか。
言い訳を完全に排除することも、感情を無視することも、どちらも簡単ではない。
選手の身体とクラブの事情、どこで線を引くか
- 試合後に「判定」と「自分たちのプレー」を分けて振り返る時間を設ける — 不利な判定があった試合後、最初の5分で感情を吐き出させ、次の10分は「判定に関係なく変えられた場面」に絞って話し合い、言い訳で終わらない文化をつくる。
- 「代表帰りの選手の疲労」を指導者の問いとして扱う — 代表帰りのコンディション管理を「代表が悪い」で終わらせず、「クラブとしてどう伝え、どこで線を引くか」を指導者同士で事前に決めておく。
- 「すぐ試合に出られないかもしれない環境」への挑戦を評価する — 困難な移籍先や格上チームへの挑戦を選んだ選手を「失敗するかもしれない選択をした勇気」として公に認め、安全な選択だけを称賛しない文化をつくる。
代表から戻った選手の「問題」と向き合う
ポルトガルでは、レアンドロ・バレイロが代表チームから戻ってきた際、「何らかの問題を抱えている」とクラブ側が明かしたという。
怪我なのか、疲労なのか、詳細はともかくとして、代表とクラブの間で起きやすいテーマだ。
代表で全力を出した結果、クラブでのゲームに支障が出ることがある。
逆に、クラブで使い続けられた選手が、代表戦で力を発揮できないこともある。
ここでもまた、「誰の責任か」を巡る議論は生まれやすい。
- 代表はなぜもっと慎重に起用しなかったのか
- クラブはコンディション管理をどうしていたのか
- 選手自身は、自分の身体とどう向き合っていたのか
しかし、プレーしている本人の感覚は、もっと複雑だろう。
代表というチャンスを逃したくない思い。
クラブの信頼に応えたい気持ち。
そのどちらも本気で大切にしているとき、どこかで線を引くのは簡単ではない。
もし自分がその選手だったら、どうするだろうか。
代表監督に「少し痛みがあります」と正直に伝えるか。
クラブに「ここは代表を優先したい」と打ち明けられるか。
あるいは、何も言わずにプレーを続けてしまうか。
答えはひとつではないが、少なくとも「どんな選択肢があったのか」を想像しておくことは、若い選手にとっても重要な準備になる。
- 判定不満の後に「自分で変えられた場面」を1つ見つける習慣 — 試合後に審判批判が出たとき、「気持ちはわかる。じゃあ自分のプレーで1つ変えられた場面は?」と問いかけ、外部批判と自己改善を両立させる思考習慣をつける。
- ベテランのクラブ残留判断を「優先順位の整理」として学ぶ — 家族の環境・クラブへの愛着・身体の状態など複数の要素がある中で何を一番大事にするかを自分で決める練習として、プロの去就ニュースを読み解く。
- 「すぐ試合に出られないと分かって飛び込む」姿勢を持つ — 格上の環境への挑戦に対して「最初からうまくいくとは思っていない」という現実的な期待値を持つことで、早期の挫折を防ぎ長期的な成長に備える。
ベテランの去就が「本人次第」だと言われる意味
ベンフィカのDFニコラス・オタメンディについては、「残留するかどうかは選手本人の判断に委ねられている」と報じられた。
クラブが条件を提示し、あとは本人の決断を待つ形だという。
一見すると、シンプルな話に聞こえる。
だが、長くプレーしてきたベテランにとっては、そこにたくさんの要素が絡み合う。
- 家族の生活と環境
- クラブへの愛着と責任感
- 自分の身体の状態と、あと何年プレーできるかという感覚
- どのリーグでどんな役割を担いたいか
クラブから「決めるのはあなた」と言われることは、尊重であると同時に、重たいプレッシャーでもある。
若い選手であっても、進路を決めるときには似た感覚を味わうのではないか。
高校に進むか、ユースを選ぶか。
海外に挑戦するか、国内で土台を固めるか。
「どちらを選んでも間違いではない」と言われたとき、かえって迷いが深くなることもある。
そんなとき、何を基準に選ぶのか。
年齢やカテゴリーは違っても、オタメンディのようなベテランと、これから進路を決める10代の選手は、意外と似た問いの前に立っているのかもしれない。
「すぐに主力にはなれない」と知っている選手の強さ
ユベントスで「最初からうまくいくとは思っていなかった」という覚悟
ポルトガルのメディアには、「ユベントスに移籍したとき、最初からすぐに主力になれるとは思っていなかった」と語る選手の言葉もあった。
自分がすぐに中心選手になれないことを、移籍前から想像している。
そのうえで、その環境に飛び込むことを選んだということになる。
こうした姿勢は、「夢を見る」こととは少し違う。
夢を抱きながらも、現実的な時間軸とプロセスを受け入れている状態だ。
小さい頃からエリートとして育ってきた選手ほど、「行けばなんとかなる」という感覚を持ちやすいこともある。
しかし、この選手はそうではなかった。
「最初から試合に出られないかもしれない」という可能性を自分に突きつけながら、それでも挑戦することを選んでいる。
もし自分だったら、どうだろうか。
移籍先の監督に「最初の一年は我慢が必要かもしれない」と言われたら、そのオファーを受けるだろうか。
「すぐ試合に出られます」と言ってくれる別のクラブのほうに、気持ちが揺れないと言い切れるだろうか。
「もっと動ける」ボランチと「役割の違い」をどう見るか
スポルティングでは、ダニエル・ブラガンサという選手について、「もう一人のボランチ、ユルマンドよりも動きにダイナミズムがある」「ここ数年で大きく成長している」と語られている。
一方で、ユルマンドにはユルマンドなりの役割がある。
守備バランスの取り方、ポジショニング、ロングパスの質。
「どちらが上か」という話ではなく、「どんな特徴を持ち、チームは何を求めているか」の話だ。
評価する側が「動きのある選手」を好めば、そちらがより高く評価されることもある。
別の監督なら、「ポジションを崩さない選手」を重要視するかもしれない。
それは、日本の育成年代でも似ている。
- よく走り、ボールにたくさん関わる選手
- あまり目立たないが、ポジションを保ち、味方を助ける選手
どちらのタイプの選手も、チームには必要だ。
しかし、指導者によって、どちらをより高く評価するかは変わってくる。
もし自分が「目立たないほう」だと感じる選手なら、こうした話をどう受け止めるだろうか。
「もっとわかりやすく目立たなければ」と考えるか。
「今の良さを保ちながら、プラスアルファを身につけよう」と考えるか。
どちらも一つの選び方だ。
「会長を100%支持する」と言う監督の心の中

クラブと監督、そのあいだの忠誠と距離
モウリーニョは、ある監督の言葉を真似るように「自分も会長を100%支持している」と語ったという。
その言葉の背景には、クラブ内部の緊張や外部からの批判が潜んでいるのかもしれない。
監督として、クラブのトップを公に支持することには、いくつかの意味がある。
- クラブの方針に従う姿勢を見せ、外からの批判を一度自分のところで受け止める
- 選手たちに「クラブはひとつだ」というメッセージを出す
- 同時に、自分の立場を守る戦略的な意味も持ちうる
しかし、心の中が本当に100%であるとは限らない。
「迷いながらも、今はここで支えると決めた」のかもしれないし、「今はチームを落ち着かせることを優先している」のかもしれない。
指導者という立場にいる人ほど、公の場での言葉と、心の中の揺れとのあいだで折り合いをつけているのだろう。
日本でも、クラブ代表や保護者会、学校との関係など、指導者を取り巻く人間関係は複雑だ。
何か問題があったとき、
- 「外にはこう言うけれど、内側ではこう伝える」という言葉の使い分け
- 子どもたちの前で、どこまで本音を見せるか
そうした小さな選択が、日々積み重なっていく。
モウリーニョのような世界的監督の言葉も、規模や環境は違っても、現場の指導者が抱える悩みと地続きのところがあるのかもしれない。
「もっと先へ」と願うときに忘れたくないこと
「ここで終わってほしくない」という祈り
あるクラブは、若い選手について「ここで終わってほしくない」「この先も伸びていってほしい」といった言葉を残している。
今シーズンの活躍が評価されたからこそ出てくる言葉だが、その裏には不安もある。
一度評価されると、どうしても周囲の目は厳しくなる。
次のシーズンに少し調子を落としただけで、「伸び悩んでいるのではないか」と騒がれることもある。
日本でも、高校年代で一気に注目を浴びた選手が、大学やプロになってから苦しむケースは少なくない。
指導者や親が「ここからだぞ」と声をかけるとき、それは励ましであると同時に、プレッシャーにもなり得る。
では、どんな言葉が、その選手の「自分で選ぶ力」を支えるのだろうか。
- 「次はもっとこうしろ」と具体的な課題を示すこと
- 「今のままでも十分に価値がある」と自己肯定感を支えること
- あえて多くを言わず、選手が自分で目標を設定するのを待つこと
どれが正解とは言い切れない。
ただ、どのアプローチを選ぶにしても、「今どんなプレッシャーの中にいるのか」を想像しながら言葉を選ぶことは、共通して大切なのかもしれない。
日本でこのニュースを読むということ
「イタリアのいいところを真似したら?」という問いから始める
ポルトガルのコラムには、「イタリアの良い部分だけを真似したらどうだろう」という提案もあった。
戦術的なことかもしれないし、守備意識やゲームの進め方の話かもしれない。
それを日本に置き換えてみると、「どこの国のどの部分を、どう取り入れるか」という話になる。
ヨーロッパの強豪国のスタイルを「そっくりそのまま」真似をすることは難しい。
気候も、文化も、育成年代の仕組みも違う。
しかし、「なぜその国はそのスタイルを選んでいるのか」「どんな歴史や価値観が背景にあるのか」を考えることは、日本サッカーにとってもヒントになる。
判定への向き合い方。
代表とクラブの関係。
ベテランと若手のバランス。
それぞれの国が抱える悩みや選択のプロセスは、驚くほど似ていたり、まったく違っていたりする。
「言い訳をしない」ために、まず何を見るか
問いを急がないための小さな習慣
ポルトガルのニュースを眺めていると、サッカーの周りには本当にたくさんの「言い訳の種」が落ちていることに気づく。
- 審判の判定
- 代表での疲労や怪我
- クラブ内部の政治
- メディアやファンからの期待と批判
このどれもが、現実として「理由」になりうるものだ。
だからこそ、完全に無視することはできない。
では、「言い訳をしないフットボール」とは、どういう状態なのだろうか。
おそらく、それは「理由を一つひとつ丁寧に認めたうえで、それでも自分が何を選ぶかを考え続けること」なのかもしれない。
判定がどうであったかを冷静に振り返りつつ、自分のプレーの中に変えられる要素を探すこと。
代表での疲労があったと認めながら、コンディション管理やコミュニケーションの方法を見直すこと。
クラブの事情に流されながらも、選手として・指導者としての軸をどこに置くかを問い続けること。
それは一度答えを出して終わるような話ではなく、シーズンを通して、キャリアを通して、続いていく問いだ。
今日の練習がうまくいかなかったとき、
週末の試合で納得のいくプレーができなかったとき、
「なぜうまくいかなかったのか」を考えることは大事だ。
そのとき、外側の要因だけでなく、「自分の中で変えられそうなものは何か」と一度だけでも問い直してみる。
そんな小さな習慣が、もしかしたら「言い訳をしないフットボール」の最初の一歩なのかもしれない。
ポルトガルで交わされる数多くの言葉やニュースを、遠く離れた日本で眺めながら、ひとりひとりが自分なりの問いを持ち続ける。
その積み重ねが、いつかピッチの上で、「誰かの選んだ一歩」として表れるのだろう。
