誤審と呼ばれる瞬間の先にあるもの――審判の「配置」が問いかける、ミスと信頼のサッカー観
Compartir esta columna
誤審か、決断か。ダービーの嵐のあとに見える「選ぶ」という仕事

笛が鳴り終わってから始まる、もうひとつの試合
ミラノ・ダービーの終盤、インテルの選手たちに囲まれた主審ダニエレ・ドヴェリの表情には、単なる「仕事中の人」以上のものがにじんでいたように見える。
インテルにとっては勝ち点を左右しかねない終盤のゴール取り消し。
さらに、リッチの腕にボールが当たった場面で、ラウタロたちが強く求めたPKの笛は鳴らなかった。
VARを担当していたロザリオ・アビッソからも、オンフィールドレビューのコールはない。
試合後、感情が高ぶったインテル側が主審を取り囲み、言葉が入り乱れる。
スタジアムの空気が一気にざらつく瞬間だ。
終わったはずの試合が、別の形の「試合」として続いているようにも見える。
| 審判 | ダービー後の割り当て | 試合の重要度 | 評価 |
|---|---|---|---|
| ドヴェリ(主審) | セリエB モンツァ対パレルモ | 昇格争い・高重要度 | ◎ |
| アビッソ(VAR→主審昇格) | セリエA ナポリ対レッチェ | CL争い+残留争い | ◎ |
| ラ・ペンナ(休養後復帰) | ピサ対カリアリ(残留争い) | 残留争い・緊迫度高 | ○ |
| 単純降格処分の回避 | 罰則でなく配置でメッセージ | 重要試合を継続付与 | △ |
| 日本との比較 | 即降格・休養が優先されやすい傾向 | 批判抑制が意思決定の軸になりやすい | △ |
「降格」ではなく「配置換え」だった指名
その数日後、イタリアの審判協会であるAIAが出した答えは、多くの人が想像したものとは少し違う形だった。
ダービーを裁いたドヴェリは、次節のセリエAではなく、セリエBのモンツァ対パレルモを任されることになった。
モンツァとパレルモは、来季のセリエA昇格を争う重要な一戦。
「二部だから罰則」「ミスしたから降格」と短絡的に見るには、あまりにも重みのあるカードだ。
実際、AIA側はダービーでの判定を「誤審」とは位置づけておらず、ドヴェリのゲームコントロールを評価していると伝えられている。
本来であれば、激しいダービーのあとに一度休養を入れる選択肢もあったが、ジャンルカ・ロッキら指名を担う側は、彼を「セリエBのビッグマッチ」に置いた。
一方、VAR担当だったアビッソは、今度は主審としてセリエAのナポリ対レッチェを任される。
チャンピオンズ出場権を狙うナポリと、残留を目指すレッチェ。
こちらもまた、極めてデリケートなゲームだ。
さらに、インテル対ユベントスでのバストーニとカリュルの接触を誤って評価したとされ、一か月ほど割り当てから外れていたフェデリコ・ラ・ペンナも復帰し、ピサ対カリアリという残留争いの一戦に指名された。
ここに、ひとつの「考え方」がにじんでいる。
誤った可能性のある判定も含めて、それを次の「配置」とどう結びつけるのか。
そこには単純なご褒美や罰では説明できない、もう少し複雑な判断のプロセスがある。
- ミス後すぐに外す習慣を見直す — 誤審的なプレーや失敗の後でも選手をすぐにベンチに下げるのではなく、「どう修正するか」を試合の中で経験させる機会を意図的に残す
- 結果でなくプロセスを評価する言葉を選ぶ — 試合後の分析では「何が間違いだったか」より「どんな情報を見てその判断をしたか」を問い、思考の経路を育てる
- 罰と育成の境界線をチームで共有する — 何が許容されるミスで何が繰り返してはいけないかを明示し、選手が「怒られないため」ではなく「理解して変える」ために行動できる環境を作る
「ミスしたら終わり」ではない世界の中で
選手であれ審判であれ、ピッチに立つ人間にとって「判断ミス」は避けられない。
ボールを持った選手が、パスかドリブルかシュートかを一瞬で選ぶように。
審判もまた、ファウルかノーファウルか、ハンドかそうでないかを一瞬で選ばなくてはならない。
しかも、その一瞬の判断が何百万人に見られ、何日も何週間も議論される。
そう考えると、「間違えたら降格」「失敗したら消える」という単純な世界では、人はおそらく守りに入りすぎてしまう。
選手なら、リスクを避けて安全なパスばかり選ぶかもしれない。
審判なら、常にモニターを確認し、大きな決断はすべてVAR任せにしたくなるかもしれない。
実際のところ、VARの導入以降、世界中で「審判は自分で決めなくなった」と嘆く声が出ている。
それは単にテクノロジーの問題ではなく、「間違えたらどうなるか」という環境が、判定者の心の中にどんな影響を与えているかという問題でもある。
今回のイタリアでの割り当てをどう捉えるかは人それぞれだろう。
ただ、「ミスをゼロにしろ」と要求するのではなく、「ミスも含めて、その人をどう育て、どう信じるか」という視点で見ようとする姿勢はにじんでいる。
- 誤審と思える場面でも審判の見ていた角度を想像する — 自分のいるポジションから見えるものと、審判の立ち位置から見えるものは違う。判定に怒る前に「あの角度からはどう見えたか」を一度考えると観戦の視点が広がる
- ミスの後に自分がどう切り替えるかを意識する — 納得できない判定の直後にドンナルンマがPKを止めたように、感情を引きずったまま次のプレーに入るのか・切り替えて集中するのかは自分で選べる
- 子どものミスに「なぜ」より「どうしたかった」を聞く — 失敗した場面を「なぜミスしたんだ」と問うより「あのとき何を選ぼうとしていたか」と聞くことで、選手の思考プロセスを守る
日本で同じことが起きたら、何を求めるだろうか
ここから少し、日本のサッカーに話を移してみたい。
もしJリーグで同じような大きなダービーがあり、決定的な場面で判定が割れ、敗れた側のチームが激しく抗議したとする。
その主審が次の節、J2の上位対決に任命されたら、周囲はどう受け止めるだろうか。
多くの人は、
- 「なんで罰を与えないんだ」
- 「一度は外すべきじゃないか」
と考えるかもしれない。
逆に、
- 「だからこそ、重要な試合を任せて経験を積ませるべきだ」
- 「判定の是非と、割り当ての評価を簡単に結びつけないほうがいい」
という考えもあるだろう。
どちらが「正しい」という話ではない。
むしろ大切なのは、「自分が選手なら」「自分が監督なら」「自分が審判なら」「自分が審判を指名する立場なら」どう考えるか、立場を変えて想像してみることかもしれない。
例えば、あなたが選手だとして。
あのダービーのような判定があった翌週、同じ審判が自分たちの試合を担当すると知ったら、どう受け取るだろうか。
- 「また何か起こるかもしれない」と身構えるだろうか。
- 「人間だからミスもある。自分たちはプレーで勝ち切る」と割り切るだろうか。
- そもそも、そのことをどこまで意識するだろうか。
答えは人の数だけある。
そして、その答えが変化していくこと自体が、サッカーを続ける中での「成長」なのかもしれない。
「審判を見る目」は、自分自身を見る目にもつながる
審判に対して私たちがどんな視線を向けるかは、実は、自分自身への視線にもつながっている。
例えば、子どもの試合で誤審があったとき、観客席からどんな言葉が飛ぶか。
- 「なんであれを見逃すんだ」
- 「ちゃんと勉強しているのか」
- 「あれくらい仕方ない、子どもたちがどう対応するか見てみよう」
発する言葉によって、子どもたちが「ミス」とどう向き合うかは変わってくる。
ミスをした人をすぐに責める空気の中では、子どもたちは「間違えないこと」を優先しがちだ。
逆に、ミスが起きたときにこそ、
- 「自分ならどうプレーを変えられたか」
- 「あの判定のあとに、どんなメンタルで続けるか」
といった視点に目を向けられる環境では、「自分で選ぶ力」が育ちやすい。
今回のイタリアの例は、トップレベルの話だ。
ただ、その構図自体は、地域リーグでも、ジュニアユースでも、同じように存在している。
誤審と言われるプレーがあったときに、
- 「あの審判、次は外されるのかな」と考えるか
- 「あの経験を持って、次はどんな試合を任されるのかな」と考えるか
その差は小さいようでいて、選手や指導者の心のあり方には大きく関わってくる。
ロッカールームで起きていたかもしれない会話を想像してみる
ダービーの笛がすべて鳴り終わり、スタジアムが少しずつ静けさを取り戻したあと。
ロッカールームで、ドヴェリとアビッソ、そしてクルーのメンバーはどんな会話をしていたのだろうか。
「PKではなかった」と確信を持って話していたのかもしれない。
「もう一度映像を見直そう」と静かに振り返っていたのかもしれない。
「次の試合でどう振る舞うか」を、それぞれ頭の中で整理していたかもしれない。
少なくとも、そこには「終わったから関係ない」という空気ではなく、「次にどうつなげるか」という視点があったはずだ。
審判もまた、一人の競技者として、自分の判断と向き合い続けている。
この「終わってからの時間」をどう過ごすかは、選手も指導者も同じだ。
うまくいかなかった試合のあとに、
- ただ感情を爆発させて終わるのか
- 悔しさを抱えながらも、少し距離を置いて自分の選択を眺めてみるのか
その違いが、次の試合での「一瞬の判断」を変えていく。
「正しい判定」だけを求めることの限界

VARの時代になり、「正しい判定」という言葉は、以前にも増して重くなった。
しかし、本当に大切なのは、
- 一人ひとりが、与えられた情報の中でどんなプロセスを経て決断したのか
- その決断を、あとからどう振り返り、どう次に生かすのか
という部分ではないだろうか。
それは選手のプレー選択でも同じだ。
試合後の映像分析で、
- 「ここでシュートじゃなくてパスだろ」
- 「なんで縦に行かないんだ」
と結果だけで評価してしまうと、プレーしている本人の頭の中で起きていた「迷い」や「狙い」が見えなくなる。
審判の判定もまた、「結果」としての正誤だけではなく、「なぜそう選んだのか」というプロセスに目を向ける余地があってもいい。
AIAがドヴェリやアビッソを次節の重要な試合に配置した判断は、「誤審がなかった」と強く主張するというよりも、「プロセス全体を含めて評価した」というメッセージにも見える。
もちろん、それに納得できない人もいるだろう。
それでも、「なぜそういう配置になったのか」を考えてみることは、私たち自身がサッカーを「答えのないもの」として受け止める練習になる。
自分なら、どんな「割り当て」をするだろうか
少し想像してみてほしい。
あなたがJリーグや地域リーグの「審判指名担当」だとする。
あるビッグマッチで大きな議論になった判定を下した主審がいる。
次の週、その審判をどう扱うかを決めるのが自分の役目だ。
選べる選択肢はいくつかある。
- 完全に休養を与え、しばらく復帰させない
- カテゴリーを下げた試合に割り当てる
- レベルは維持しつつ、注目度の比較的低い試合に置く
- あえて重要な試合を任せ、信頼を示す
どれを選んでも、賛否は必ず出る。
その中で、あなたは何を一番大事にして選ぶだろうか。
- 世間の批判を抑えることか
- 審判本人のメンタルか
- リーグ全体のメッセージか
この問いには、簡単な正解はない。
それでも、「自分ならこうする」と一度立ち止まって考えてみること自体が、サッカーを見る目を少しだけ変えてくれる。
笛の音が消えたあとに残るもの
モンツァ対パレルモの会場に立つドヴェリは、おそらくミラノ・ダービーとは違う色の緊張を感じているはずだ。
昇格を争うクラブ同士のぶつかり合い。
ミスは許されない、という空気。
それでも、彼はまたどこかの瞬間で、「迷いながら決める」という仕事をする。
その判断が再び議論を呼ぶかもしれない。
静かに受け入れられるかもしれない。
あるいは、誰の記憶にも残らない90分になるかもしれない。
選手も、指導者も、審判も。
サッカーに関わる人たちは、そうした「一瞬の決断」と「終わったあとの時間」を何度も繰り返しながら、少しずつ自分の選び方を育てていく。
もし次に試合を観るとき、誤審と呼ばれる場面や、微妙な判定に出会ったら。
そのときこそ、「自分ならどう考えるか」と心の中で問いかけてみる時間を、ほんの少しだけ取ってみてほしい。
答えは急がなくていい。
笛の音が消えたあとに残る静けさの中に、サッカーのもうひとつの顔が、ゆっくりと浮かび上がってくるかもしれない。
