信じてもらえない時間に、何を選び続けるか――エリック・ペクーが教えてくれるストライカーの生き方
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「信じてもらえないストライカー」が見ていた景色 ― エリック・ペクーの物語から考える

ベンチに座る20歳のセンターフォワード
1976年の夏、フランス西部ナント。 スタジアムのベンチには、まだ20歳のセンターフォワードが座っていた。 名前はエリック・ペクー。 のちにフランス代表として5キャップ、1ゴールを記録する選手だが、その時点ではまだ「可能性」でしかない若者だった。
新しく監督に就任したジャン・ヴァンサンは、就任早々ある決断を下す。 ポーランド代表として名を馳せたロベール・ガドシャと、サンテティエンヌで実績を残してきたイヴ・トリアンタフィロス。 この2人のビッグネームを前線から外し、クラブの下部組織出身の若手たちを軸にチームを作ると選んだのだ。
左にロイク・アミス、右にブリュノ・バロンシェリ。 そして中央には、エリック・ペクー。 モントリオール五輪でプラティニらと共にプレーした若い3人が、新しいナントの前線を任された。
観客の中には、期待と不安が入り混じった眼差しもあっただろう。 なぜ実績あるストライカーを外してまで、若い彼らに託すのか。 その裏側で、指揮官もまた、自分の中で何度も問い直しながら決断を重ねていたはずだ。
| 局面 | 状況 | ペクーの選択 | 評価 |
|---|---|---|---|
| ナント加入初年度 | ビッグネーム2人を差し置いて起用される | リーグ戦で12ゴールを記録し結果で応える | ◎ |
| 代表召集で後回し | パンテナやラコンブが優先され声がかからない | クラブで結果を出し続けて代表の視野に入る | ○ |
| トロセロ加入後 | 新外国人FWの好調でベンチ時間が増加 | 怪我で空いたチャンスに22ゴールを記録 | ◎ |
| 代表出場232分 | 5試合・1ゴールに終わる | クラブとの役割差・代表の文脈の違いを受け入れる | △ |
| 膝の怪我・長期離脱 | 代表ワールドカップ予選の計画から外れる | 復帰後も得点を続けるが代表の声はかからない | △ |
| モナコへの移籍 | ハリルホジッチ加入でナントの構想外と判断 | 環境ごと変えてリーグ優勝・カップ制覇を達成 | ◎ |
「比較」される存在としてピッチに立つということ
ペクーには、もう一つの重さがあった。 ナントの伝説的ストライカー、フィリップ・ゴンデのいとこ。 18歳でトップチームに顔を出し始めた頃から、スタンドには「第二のゴンデ」を夢見る空気があった。
もし自分だったらどうだろうか。 ピッチに立つ前から、プレーではなく「名前」で見られる感覚。 シュート1本、トラップ1回に、「親戚はもっとすごかった」と、勝手に比較されるかもしれない状況。
1976-77シーズン、ペクーはリーグ戦で12ゴールを決め、ナントの4度目のリーグ制覇に貢献する。 数字だけ見れば、20歳のセンターフォワードとして申し分のない結果だ。
けれど代表監督ミシェル・イダルゴの選択は、すぐには彼に向かなかった。 同じポジションでは、ソショーのロベール・パンテナや、リヨンのベルナール・ラコンブが優先される。
監督が別の選手を選ぶ時、その理由は一言では説明できない。
- タイプの違い
- チームメイトとの相性
- 経験値
- 監督自身の「好み」
こうした要素が絡み合いながら、「今、誰を使うか」という判断に結びついていく。
結果として呼ばれなかった側には、はっきりとした説明がないことも多い。 それでも、トレーニングに戻り、週末にはクラブのためにゴールを狙うしかない。
- 補強・他選手の加入を「競争環境」として設計して伝える — 新加入選手をライバルとして提示するだけでなく、「自分の武器を磨く機会」として捉え直す言葉を選手に渡す
- ベンチの選手の「準備の質」を評価する — スタメンと同じ基準で試合前の観察・準備を評価し、出場時間に関わらず貢献できる選手を育てる文化をつくる
- 環境変化を「失敗」ではなく「選択」として語る — 移籍・降格・役割変化を経験した選手に、新天地でタイトルを取った事例を示し、自分の軸を持つことを促す
競争が突然「外から」やってくる瞬間
翌シーズン。 ペクーは新たな現実に直面する。 クラブがアルゼンチン人FW、オスカル・ビクトル・トロセロを獲得したのだ。
開幕からトロセロは好調で、ゴールを重ねる。 ベンチに座る時間が増えていくペクー。 「信じて使ってくれた監督が、自分ではなく後から来た新加入選手を選ぶ」 その感覚は、数字には表れない。
監督からすれば、よりチームが勝てる形を模索した結果かもしれない。 クラブからすれば、ヨーロッパでタイトルを狙うための戦力補強という説明もできる。
ただ、当事者である選手にとっては、もっとシンプルに響くだろう。 「自分では足りないと判断された」 その痛みを、どう受け止めるか。
面白いのは、ここからのペクーの反応だ。 トロセロの怪我によって再びチャンスが巡ってくると、彼はリーグ戦で22ゴールを叩き出す。 「数字で示す」という、フォワードとして最もわかりやすい形で、答えを返している。
この時、彼の頭の中にはどんな選択肢があったのだろうか。
- トロセロの加入を不満に思い、モチベーションを失う
- 自分の役割を変えて、ゴール以外の部分で評価されようとする
- ただ黙々と、自分の得意な形でゴールを狙い続ける
同じ出来事に直面しても、プレーの中で選ぶ道は人それぞれだ。 ペクーは結果として「ストライカーとしての本能」に忠実でいることを選んだように見える。
- スタメン落ちの理由を「タイプの違い」として受け止める — 監督の選択には経験値・相性・戦術的意図が絡む。「自分が劣っている」ではなく「今この状況ではない」と分けて考える視点を持つ
- 自分の「武器」を手放さない — ペクーが状況が変わっても常にゴールを狙い続けたように、得意なプレーを磨き続けることが次のチャンスにつながる
- 補強ニュースを聞いたわが子に「何を続けるか」を問いかける — 「あの選手が来るから出られなくなる」ではなく、「今自分がやるべきことは何か」を一緒に考えることが長期的な成長を支える
代表での「232分」と、フォワードの最低条件
22ゴールというインパクトある数字は、ついに代表監督イダルゴの目を引く。 1979年、ルクセンブルクとの欧州選手権予選で、ペクーはフランス代表デビューを果たす。 フランス代表史上634人目の選手として。
その後もナントで結果を出し続け、フランスカップ決勝ではオセール相手に延長戦を含めてハットトリック。 国内では「点を取る男」として、十分な評価を得ていた。
しかし、代表のユニフォームをまとった時の彼は、別の顔を持つ。 1979年から1980年にかけて、公式戦5試合・232分間の出場で、記録された得点は1点だけ。 スタッツだけを見れば、「物足りない」と言われてもおかしくない数字だ。
ただ、その「物足りなさ」をどう解釈するかは、一つではない。
- そもそも代表で与えられた時間が短かったのではないか
- クラブとは役割が違っていたのではないか
- プレースタイルが、当時の代表チームのやり方と噛み合っていなかったのではないか
フォワードにとって「ゴールを決めること」が最低条件と言われる一方で、 その条件をどんな状況で課されていたのかを考えると、景色が変わってくる。
チェコスロバキア戦での代表初ゴールも、ナントの仲間たちとの連携から生まれた。 左サイドのアミスが得意のドリブルで突破し、ゴール前に送ったクロスをペクーが押し込む。 その後、ギル・ランピヨンがミドルシュートを決め、試合は2-1でフランスの勝利に終わる。
ナントで積み上げてきた関係性の中では、「自然に」ゴール前へ走り込める。 一方で、代表という異なる文脈の中では、その「自然さ」を一から作り直さなければならない。 232分という時間は、そのプロセスとして十分だったのか。 それとも、足りなかったのか。
膝の痛みと「計画にない選手」になる怖さ
1980-81シーズンの始まり。 ペクーは膝の痛みによってピッチを離れることになる。 検査の結果は「骨の突起」だが、その原因ははっきりしない。 いくつもの専門医を回りながら、復帰のタイミングはずるずると遅れていった。
その間に、フランス代表は1982年ワールドカップ予選に向けて動き始める。 チームは新しい組み合わせを試し、戦い方を固めていく。 そこに「怪我でいない選手」が入り込む余地は、時間とともに小さくなっていく。
やっとナントに復帰して再び得点を挙げるようになっても、代表から声はかからない。 「計画に入っていない選手」になってしまった自分を、どう受け止めたのだろうか。
シーズン終盤、クラブから伝えられたのは、新たな補強のニュース。 ユーゴスラビア人ストライカー、ヴァヒド・ハリルホジッチの獲得。 ペクーはそこで、ひとつの線を引く。 「自分はこのクラブから、前線の絶対的な信頼を得ることはできないのだろう」と。
そしてモナコへの移籍を選ぶ。 クラブに残って再びポジションを争う道もあった。 しかし、違う環境で自分の価値を証明することを選んだ。
この決断を、自分ならどうするだろうか。
- 育ててもらったクラブで、最後までポジション争いに挑むか
- 新しいクラブで、自分を必要としてくれる監督のもとで戦うか
どちらが「正しい」という話ではない。 ただ一つ言えるのは、どちらを選んでも、その先で自分の選択に責任を持たなければならないということだ。
25歳で終わる代表キャリアと、「その後」の時間

モナコに移籍したペクーは、1981年のシーズン前に再びUNFP選抜として試合に出場する。 相手はシュトゥットガルト。 しかし、この試合は3-1の敗戦に終わり、途中交代したペクーはブーイングの中でピッチを去ることになる。 これが、25歳にして最後の「青いユニフォーム」での出場だった。
その後も、彼のクラブキャリアは続いていく。 モナコではリーグ優勝、メスではフランスカップ制覇。 ストラスブール、カーンとクラブを移りながら、第一線でプレーを続けた。
代表での記録は、5試合・1ゴール・232分。 もし、「代表でどれだけ活躍したか」だけでキャリアの価値を測るなら、彼の名前が大きく語られることは少ないかもしれない。
ただ、その数字の背後には、
- ビッグネームを差し置いて起用した監督の決断
- 期待と比較の中でプレーする若いフォワードの葛藤
- 新たなライバルの加入と、ベンチから見つめる時間
- 怪我によって「計画からこぼれていく」恐怖
- クラブを離れる決断と、新天地で掴んだタイトル
といった、いくつもの選択の積み重ねがある。
日本で同じ状況になったら、どう考えるだろうか
日本のサッカーに置き換えてみると、似た状況を想像しやすいかもしれない。 例えば、
- 高校3年のエースがいるところに、全国レベルのストライカーが転校してくる
- Jクラブのアカデミーでレギュラーだった選手が、トップチーム昇格のタイミングで有名な外国人FWの加入を知らされる
- 代表候補に呼ばれ始めた頃に、大きな怪我をして長期離脱を余儀なくされる
このとき、指導者は何を基準に選ぶのか。 選手は、自分の立場の変化をどう受け止めるのか。 保護者は、どんな言葉をかけるのか。
ペクーの歩みをたどると、ひとつはっきり見えてくることがある。 「誰かに信じてもらえなかった経験」が、その後の選択に影響を与えているということだ。
ナントでの補強、代表での序列、怪我による離脱。 それらを通じて、「自分はここでは計画の中心ではない」という感覚を強くしていったのかもしれない。 だからこそ、モナコへの移籍という決断に踏み切れたとも考えられる。
一方で、そんな中でも彼は、自分の「武器」を手放さなかった。 状況がどう変わっても、ストライカーとしてゴールを狙い続けること。 この軸をぶらさなかったことが、別のクラブでのタイトルにつながっていった。
「選ばれない時間」に、何を見つけられるか
サッカーに関わる人なら、いつか必ず「選ばれない側」に回る瞬間がある。 スタメンから外れる。 代表に呼ばれない。 クラブの構想から外れると言われる。
その時に問われるのは、「なぜ選ばれなかったのか」だけではない。
- 自分は何を続けるのか
- どこを変えるのか
- どのタイミングで環境ごと変えるのか
といった、自分自身への問いかけだ。
エリック・ペクーのキャリアは、代表の華やかな記録という意味では、「物語の主役」ではなかったかもしれない。 それでも、20歳でビッグネームを押しのけてピッチに立ち、25歳で代表から離れ、その後もクラブでタイトルを重ねていった時間は、決して薄くはない。
今、ベンチからピッチを見つめている選手がいるかもしれない。 補強のニュースを聞いて、不安を抱えている選手もいるかもしれない。 自分の子どもが試合に出られず、スタンドから見守っている保護者もいるかもしれない。
そんな時に、ペクーの232分と、5つの代表キャップと、数々のクラブでのシーズンを思い出してみると、少しだけ見える景色が変わるかもしれない。
選ばれるかどうかだけではなく、 選ばれない時間に、何を選び続けるのか。 その問いは、サッカーのピッチの外でも、静かに続いていく。
