外した者と退場した者、そして言い訳を選ばなかった監督──ボスニア戦から問い直す「責任」とサッカーの未来
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涙のボスニア戦から見えるもの──外し、退場し、それでもピッチに立つということ

延長戦を終えてもスコアは1−1のまま。 イタリア代表とボスニア・ヘルツェゴビナ代表のワールドカップ出場をかけた一戦は、ついにPK戦にもつれ込んだ。 三大会連続で本大会を逃すかもしれないという重さが、スタジアム全体を押しつぶすように覆っていた。
キッカーのひとりとしてスポットライトの中心に立ったのは、まだ若いフォワード、ピオ・エスポージト。 そして、試合中に退場となり、イタリアを10人にしてしまったセンターバック、アレッサンドロ・バストーニ。
PK戦でピオ・エスポージトが外し、続いてブライアン・クリスタンテも失敗。 最後はイタリアが敗れ、三度目のW杯予選敗退が決まった。 試合後、SNSには「失敗した選手」や「退場した選手」を責める言葉が溢れ、バストーニは特に激しい批判の矢面に立たされた。
一方で、ジェンナーロ・ガットゥーゾ監督は、涙をこらえきれない表情でインタビューに応じながら、「言い訳を探すタイミングではない」と語り、審判への不満や運の悪さに話題をすり替えることを拒んだ。
この試合をどう評価するか。 誰が悪いのか。 そうした結論を急ぐ前に、ここでは少しだけ立ち止まって、彼らがどんな選択をし、そのとき何が頭の中をよぎっていたかを想像してみたい。 自分なら、同じ場面でどう考えただろうか──という問いを手にしながら。
退場になったバストーニは、本当に「ミス」をしたのか
バストーニが退場した場面は、多くのメディアで大きく取り上げられた。 イタリアが押し込まれた状況で、最後の局面を守ろうとしたプレーがファウルと判定され、レッドカードが出た。 インテルで主力として活躍する彼にとっても、代表の一発退場は重い現実だ。
ただ、そのプレーは本当に単純な「判断ミス」とだけ言い切れるのだろうか。
ディフェンダーが一瞬で迫られる選択肢は、シンプルなようでいて実はかなり多い。
- ボールにチャレンジして止めにいく
- コースを切ってシュートやラストパスを遅らせる
- 味方のカバーを信じて、自分は距離を保つ
- 場合によっては、あえてファウル覚悟で止める
その中で、どれを選ぶか。 しかも、0.何秒の世界で。
バストーニは、自分の中で「ここは止めなければいけない」という決断を選んだのだと思う。 もちろん結果は退場という形で跳ね返ってきた。 しかし、彼がその瞬間に考えたのは、 「リスクを取ってでも、ゴール前に進ませない」 という覚悟に近いものだったかもしれない。
もし自分がセンターバックとして、同じようにワールドカップ出場をかけた試合の終盤で1対1を迎えていたらどうだろう。
- 抜かれるリスクを減らすために、少し下がって対応するか
- ゴール前のスペースを嫌って、距離を詰めるか
- 笛を吹かれないギリギリを狙って身体を当てにいくか
どれも、後からならゆっくり議論できる。 だが実際には、その瞬間に「これしかない」と思った答えを選ぶしかない。
重要なのは、結果だけを切り取って「愚かなファウル」とラベルを貼ることではなく、 「彼は、何を守ろうとしていたのか」 「他にどんな選択肢を、どんな理由で捨てたのか」 と考えてみることではないだろうか。
判断は常に、何かを選び、何かを捨てる行為でもある。 捨てた側の選択肢に、後から光を当ててみると、自分のサッカーにもヒントが見えてくる。
| 場面 | 取った選択 | 別の選択肢 | 評価 |
|---|---|---|---|
| バストーニの退場 | ゴール前への突破を体を張って止めた | 距離を保ちコース限定を優先する | △ 結果は退場、意図はチームを守ること |
| ピオ・エスポージトのPK | キッカーを引き受け蹴りに行った | 「自信がない」と辞退する | ◎ 結果は失敗、責任から逃げなかった |
| ガットゥーゾの囲み取材 | 言い訳を探さず自分たちに原因を向けた | 審判や運の悪さを前面に出す | ◎ 短期的には苦しいが選手を守る姿勢 |
| 監督の選手交代 | DF追加投入で守備を整えた | 前線の厚みを維持しカウンターに賭ける | ○ 状況判断として合理的な判断 |
| SNSの批判 | 「誰かのせい」で感情を発散した | 「自分ならどう守るか」と問い直す | △ 外への矢印だけでは成長につながらない |
PKを蹴る若いフォワードに託されたもの
PK戦でスポットに立ったピオ・エスポージト。 まだキャリアの初期にいる彼が、なぜキッカーとして名乗りを上げたのか。 そこには、表に見えてこないやり取りや、チームの空気があったはずだ。
PK戦の順番は、監督が一方的に決める場合もあれば、選手の意思を尊重して決めていく場合もある。 いずれにせよ、 「自分が蹴る」 と言葉にするには、かなりの勇気がいる。 外したときの批判や、自分への失望を想像しない選手はいない。
それでも、彼はボールを持ち、ペナルティスポットに歩いていった。
助走をとり、踏み込み、シュートモーションに入る瞬間。 ピッチの中にいる選手にとって、世界は一気に狭くなる。 観客の声も、相手GKの動きも、全てがノイズに感じられることもある。
このとき、彼の中にはどんな会話があったのだろうか。
- 普段どおりのコースを選ぶか、それとも相手GKを読んで変えるか
- 強さを優先するか、コントロールを優先するか
- 試合前に決めていたプランを貫くか、その場で変えてしまうか
PKは、テクニック以上に「自分との対話」が問われる場面だと言われる。 成功しても失敗しても、最後に責任を負うのは自分。 その重さを引き受けたうえで、コースも、蹴り方も、自分で選ぶ。
結果として彼は外し、イタリアは敗退した。 しかし、「蹴らない」という選択肢を選んでいれば、彼は今、どんな気持ちでいるだろうか。
日本の育成年代でも、PK戦になると「自信がある子だけで蹴ろう」という雰囲気になることがある。 それは悪いことではないが、 「自信がないから蹴らない」 という理由だけで下がってしまう経験が続くと、「責任から遠ざかる技術」ばかりが上手くなってしまう危険もある。
外してもいいから、責任を引き受けてスポットに立ってみる。 その経験をどこかでしておかないと、いざ大きな舞台で「自分が行く」と言えないかもしれない。
もしあなたが選手で、チームメイトから 「誰か蹴る?」 と聞かれたとき、自分はどんな言葉を返したいだろうか。
- 「言い訳しない」姿勢を言葉で示す — 審判の判定や運の悪さに触れる前に、「自分たちに何ができたか」を最初に問う言葉を選ぶことで、選手が外に原因を探す習慣を防ぐ
- PKを蹴れる選手を育てる環境をつくる — 「自信がある子だけ蹴る」雰囲気を変え、「外してもいいから立候補する経験」をトレーニングや練習試合に意図的に組み込む
- 責任の所在を整理して伝える — ミスした選手の行動を守りながら、「次に同じ場面でどう選ぶか」を個別に話し合い、チームとしての学びに変える
ガットゥーゾの涙と「言い訳を選ばない」という決断

試合後、ジェンナーロ・ガットゥーゾ監督の表情には、言葉にできない感情が滲んでいた。 三大会連続でワールドカップ本大会を逃した国の代表監督として、その重さは計り知れない。
彼は、審判の判定について問われたとき、「いまは言い訳を探すときではない」といった趣旨の言葉を口にしている。 PK戦での敗退、退場、判定への不満。 逃げ込める理由はいくらでもあったはずだ。
にもかかわらず、それを前面に出さなかった。 それは、「外に理由を探さない」という選択でもある。
指導者として、選手の前で何を語るかは、戦術と同じくらい難しい。
- 理不尽に見える判定に、どこまで触れるか
- 運の悪さをどの程度、口に出していいのか
- 選手のミスを守りながらも、課題から目をそらさない話し方をどう選ぶか
例えば、日本の育成年代でチームを率いている指導者が同じ立場に立ったとしたら、どんな言葉を選ぶだろうか。
「審判がひどかった」で済ませるのは簡単だ。 ただ、それを繰り返すと、選手たちは知らないうちに「自分で引き受けない思考」に慣れてしまう。 逆に、全てを「お前たちの責任だ」と言葉にしてしまえば、選手は恐怖だけを覚え、チャレンジする勇気を失うかもしれない。
どこまでを抱え、どこからを手放すか。 指導者もまた、結果が出なかった夜に、答えのないバランスを探すことになる。
ガットゥーゾは、涙を見せながらも、言い訳のほうへ逃げない姿勢を選んだ。 それが正解かどうかは、すぐにはわからない。 ただ、少なくともあの場で彼は、「責任の所在」を外側ではなく、自分たちの側に引き寄せようとしていたように見える。
もし自分が監督で、子どもたちや選手たちが涙を流している前に立たされたら、どんな言葉をかけるだろうか。
- PKを「蹴る」と名乗り出る経験を積む — 外すかもしれなくてもボランティアとして立ち上がる習慣が、大きな舞台で「自分が行く」と言える選手をつくる
- 試合後に「自分ならどうしたか」を問う — 誰かを批判する言葉より、「あの場面で自分はどう守るか・どこに蹴るか」と自分に矢印を向けることでサッカー観が豊かになる
- 保護者は子どもの失敗に寄り添う言葉を選ぶ — ミスした後に責めるのでも慰めるだけでもなく「次はどうしたい?」と問いかけることで、子どもが自分で責任を引き受ける力を育てる
三大会連続でW杯を逃した国から学べること
イタリアほどのサッカー大国が、三度続けてワールドカップ本大会に出られない。 この事実は、ヨーロッパや南米だけでなく、日本にとっても他人事ではない。
日本では、代表チームがほぼ当然のようにワールドカップ出場を決めてきた。 その安心感の裏で、 「出るのは当たり前。出た上でどこまで行けるか」 という会話が主流になっている。
しかし、イタリアのようにW杯常連国であっても、ほんの少しのズレや、いくつかのタイミングの悪さが重なるだけで、本大会から遠ざかってしまう。 しかも一度ではなく、三度続けてだ。
この状況を前にしたとき、「イタリアは何かを間違えた」と考えるのは簡単だ。 けれども、もしかしたらそこにあるのは「誰かの明らかな失敗」ではなく、
- 育成とトップの橋渡しが少しずつ噛み合わなくなったこと
- 代表チームの戦い方が、時代の変化に対してわずかに遅れたこと
- 若い選手に責任を託すタイミングを、慎重になりすぎて逃してきたこと
など、数えきれない細かな選択の積み重ねかもしれない。
日本のサッカーも、同じように多くの選択の積み重ねで今がある。
- 育成年代で、どれだけ「考えてプレーする時間」が与えられているか
- ミスをした選手に、どんな言葉がかけられているか
- 結果が出なかった大会のあと、どれだけ冷静に振り返りの時間が取られているか
イタリアの敗退を、「あの国はおかしくなった」と眺めるのではなく、 「自分たちも、同じ道をたどる可能性がある」として考えてみると、見えてくる問いが変わってくる。
今のうちに、どんなサッカーを選び、どんな育成の環境を選ぶのか。 選手として、保護者として、指導者として、それぞれにできる選択があるはずだ。
SNSの批判と「誰かのミスで安心したくなる心」
試合後、SNSではバストーニに対する厳しい批判の言葉が目立った。 退場した場面を切り取って、「あれが全てを壊した」と断定する声も少なくなかった。
こうした反応は、日本でも他人事ではない。 Jリーグでも代表戦でも、ミスをした選手や監督に対して感情的なコメントが溢れる光景は、決して珍しくない。
ただ、その裏には「誰かを悪者にすると、少しだけ心が楽になる」という、人間として自然な反応があるのかもしれない。
「彼がミスしたから負けた」 「監督の采配が悪かったから負けた」
そうやって原因を一点に集約することで、自分の好きなチームが「本当は弱くない」と信じ続けたい。 そんな心理が、無意識のうちに働いている可能性もある。
もし自分が、同じようにSNSで試合を振り返るとき、 「誰かのせいにする言葉」ではなく、 「なぜあの選択になったのかを考える言葉」を選べたら、見えてくるものは変わっていくだろうか。
批判そのものをやめる必要はない。 ただ、
- あの場面で、自分ならどう守るか
- PKを蹴るとしたら、どこにどう狙うか
- 監督なら、どんな交代や戦術変更を選ぶか
と、自分にも矢印を向けながら試合を振り返る習慣を持てたら、サッカー観戦はもっと豊かになる。
「外したあと」に何を選ぶか──問いを自分に向けてみる
PKを外したピオ・エスポージトも、退場になったアレッサンドロ・バストーニも、そして涙を浮かべたジェンナーロ・ガットゥーゾも、誰ひとりとして「間違えようとして」あの選択をしたわけではない。
それぞれが、その瞬間のベストだと信じた答えを選んだ。 結果は最悪に近いものになったが、それでも彼らはピッチに立ち、ボールに関わり、決断を下し続けた。
サッカーに限らず、私たちは日々、小さな「PKスポット」に立たされている。
- ミスを恐れて無難にプレーするか、リスクを取ってチャレンジするか
- 誰かのせいにして楽になるか、自分の中にも原因を探してみるか
- すぐに正解を求めるか、時間をかけて考え続けるか
どの選択も、すぐに正解・不正解とは決められない。 ただ、「自分で選んだかどうか」は、後になって大きな意味を持つことがある。
ボスニア戦で起きたひとつひとつの出来事を、ただの「敗退の原因」として片付けるのか。 それとも、自分ならどう考え、何を選ぶかを試されている問いとして受け取るのか。
それを決めるのもまた、ひとりひとりの選択だ。
答えが出ないまま考え続ける時間こそが、サッカーを深くし、自分自身を少しだけ前に進めてくれるのかもしれない。
あの夜、PKスポットに立った選手たちの背中を思い浮かべながら、自分にとっての「次の一歩」は何かを、静かにたずねてみたい。
