ミラン対インテルの「見えなかったハンド」が問いかけるもの──誤審論争の先にある、サッカーと権威と自分の基準
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「見えなかった」瞬間に、何を信じるか ミラン対インテルの“リッチのハンド”から考えること

終盤、ペナルティエリアで起きた「ズレ」
サンシーロのダービー。
ミランがエストゥピニャンのゴールでリードし、ロスタイムに入った頃、試合は静かに終わりへ向かう…はずだった。
インテルが右サイドからボールをゴール前に入れる。
密集の中でボールが弾み、その軌道の先にいたのがミランのサムエレ・リッチ。
ボールは彼の腕に当たったように見えた。
インテルの選手たちは一斉に手を上げて抗議する。
しかし主審ドヴェリはプレーを流す。
そして、VARからの「モニターを見ろ」という合図もないまま試合は続行された。
このワンプレーは、結果として試合の行方を左右したかもしれない。
けれど、多くの人がモヤモヤしているポイントは、「PKかどうか」そのものよりも、別のところにある。
なぜ、あの場面で、主審にモニターでの確認が促されなかったのか。
そこにこそ、この試合の奥に潜む「考えるべきテーマ」が隠れている。
| 立場 | 見えていた情報 | 持っていた権限 | 判断の難しさ |
|---|---|---|---|
| インテル選手 | 至近距離でボールの軌道 | 抗議することのみ | ◎ |
| 主審ドヴェリ | 斜め角度からの俯瞰 | 最終判定権 | ◎ |
| VAR担当アビッソ | 複数カメラ映像 | 主審に確認を促す権限 | ◎ |
| ミラン選手 | プレーが流れた事実のみ | 試合続行のみ | ○ |
| 観客・視聴者 | 放映映像の複数アングル | 意見・議論のみ | △ |
「見えた」人と「見えなかった」人が同じピッチにいる
当たり前のことだが、サッカーの試合中、選手も審判も、それぞれ「違う景色」を見ている。
ペナルティエリア内のような密集地帯では、その違いはさらに大きくなる。
このシーンで言えば、
- ボールの真正面にいたかもしれないインテルの選手
- 斜めの位置から全体を見ようとしていた主審ドヴェリ
- 複数のカメラ映像を切り替えながら見るVAR担当のアビッソとディ・ベッロ
それぞれの「見え方」が違う。
選手からすれば、「絶対に腕に当たっている」と感じるかもしれない。
主審からすれば、「体に近い位置での接触かもしれないし、はっきりとは見えない」と感じるかもしれない。
VARからすれば、「角度によってそう見えるが、競技規則上“明らかな誤り”とまでは言えない」と判断したのかもしれない。
同じプレーを共有しながら、認識はズレ続ける。
そのズレの中で、誰かが「最終決断」をしなければいけない。
ここに、サッカーの難しさとおもしろさがある。
- 判定への反応を観察して「感情」と「判断」を分ける習慣を作る — 不利な判定後の選手の立ち位置・表情・次のプレーの選択を観察し、感情に押し流されず切り替えられているかをフィードバックする
- 「見えなかった」場面を映像で振り返る習慣をつける — 自分の角度からは分からなかったプレーを映像で確認し、「自分ならどう守る・どう攻める」を考える時間を練習に組み込む
- 年長者・権威者への意見の伝え方を練習する — 感情的な反発ではなく「自分にはこう見えた」と冷静に伝える言葉の選び方を日頃から選手と一緒に考える
IFABのプロトコルと「呼ぶ/呼ばない」という選択

VARの運用にはIFABのプロトコルがある。
ざっくり言えば、「はっきりとした間違い」や「見落とした重大な事象」を修正するための仕組みだ。
今回のケースは、まさに境目だった。
- PKと判定してもおかしくない
- ノーファウルと判定しても、競技規則上の解釈としてはあり得る
そういうグレーゾーンのプレーだったからこそ、「主審をモニターに呼ぶかどうか」が焦点になった。
元国際主審のグラツィアーノ・チェザリは、この「呼ばなかった判断」の背景に、心理的な要素があったのではないかと指摘している。
ドヴェリはイタリアでもトップクラスの「ビッグレフェリー」。
一方で、今回VARを担当していたアビッソとディ・ベッロは、そこまで強い立場にはない審判たちだ。
上下関係のようなものが無意識に働き、「ビッグレフェリーの判定を揺らすのは避けよう」と感じた可能性があると示唆したわけだ。
真相は当事者にしか分からない。
ただ、ここで見えてくるのは、「情報」をどう扱うかという問題だ。
映像をいくらでも確認できる時代になっても、最終的には、人間がその情報を「使うかどうか」を決めている。
- スタジアムの座席・テレビ中継・スマホ映像で同じシーンを見ると、それぞれ見え方が違うことを体感することで、「主審には別の角度からしか見えない」という理解が生まれる
- 不利な判定のあとに選手が次のプレーを切り替えるまでの数秒間に注目すると、メンタルの強さと判断の速さが見えてくる
- 「絶対PKだ」と感じた場面でも「なぜVARが介入しなかったのか」というルール上の基準(明らかな誤りかどうか)を調べてみると、観戦が一段階深くなる
日本のグラウンドで起きている、もっと小さな「VAR問題」
この話を、日本のサッカー環境に引き寄せてみると、前提は違っても、似た構図が見えてくる。
多くのカテゴリーでは、VARなど存在しない。
主審、そして場合によっては一人だけの副審が、90分間、膨大な判断をひとりで背負っている。
そこにいるのは、人間の審判だ。
- すべてを完璧に見られるわけではない
- 選手の影で一瞬ボールが隠れることもある
- 体力的にきつくなれば、ポジショニングも遅れる
そんな状況でも、選手は抗議し、ベンチは叫び、観客は不満をぶつける。
もちろん、判定に意見を持つこと自体は自然なことだ。
ただ、そのとき、ピッチに立つ選手や指導者が「何を基準に自分の感情をコントロールするか」は、少し考えてみる価値がある。
たとえば、自分が選手だったらどうするだろう。
- 「絶対PKだろ」と感情のままに審判を責めるか
- 「今のはPKだと思ったけど、判定が変わらないなら、次のプレーに気持ちを切り替えよう」と考えるか
- 「なぜ取られなかったのか」を後で映像や仲間と確認し、自分の中に経験として残そうとするか
その選び方だけでも、試合の流れは少し変わる。
そして、選手としての成長の方向も、少しずつ変わっていくはずだ。
「権威」に対して、どう向き合うか
チェザリの指摘にあったのは、「重要な審判に対する心理的な遠慮」だった。
これは、審判の世界だけの問題だろうか。
日本の育成年代の現場を思い浮かべると、似たような構図はいくつもある。
- 有名な監督や指導者の言葉に、誰も意見を言えない雰囲気
- チームの中心選手のプレーには、周囲が注意しにくい空気
- 年長のコーチの方針に、若手コーチが本音を言えない関係性
「相手をリスペクトすること」と、「自分の考えを手放すこと」は、本来別の話だ。
けれど、現場ではその2つが混ざってしまう場面がある。
VAR担当の審判が、もし「ドヴェリの判定を崩したくない」という思いからモニター確認を促さなかったのだとしたら、それはある種の「自己否定」でもある。
自分が見たもの、自分が感じた違和感よりも、「相手の格」を優先してしまう決断だからだ。
これは、選手にもそのまま当てはまる。
- 「有名な選手がこう言っていたから」と、自分の感覚よりも、その言葉を優先する
- 「監督が怒りそうだから」と、本当は見えているプレーを選ばない
- 「ミスが怖いから」と、自分の判断を他人に委ねてしまう
そうした選択の積み重ねは、知らないうちに「自分で試合を読む力」を削っていく。
「見えていない」からこそ、できる質問がある
今回のハンドのシーンで考えたいのは、誰が正しいか、ではない。
むしろ、「それぞれの立場なら、どう考えるか」という問いだ。
たとえば、自分が
- インテルの選手だったら、あの瞬間、主審にどう振る舞うだろうか
- ミランの選手だったら、試合後に何を振り返るだろうか
- 主審ドヴェリだったら、「見えなかったかもしれない」と感じた時点でVARにどう頼るだろうか
- VARのアビッソやディ・ベッロだったら、どのタイミングで主審に声をかけるだろうか
それぞれの立場に立ってみると、「たしかに簡単な話ではない」と気づくはずだ。
選手としては、「絶対にPKだ」と言い切りたい気持ちと、「でも、主審には別の角度からしか見えていないかもしれない」という理解の間で揺れる。
主審としては、「自分の権威を守る」のではなく、「試合にとって最善の判断」を優先できるかが問われる。
VARとしては、「映像上まだ議論の余地がある場面」を、「明らかな誤り」と見るかどうか、ギリギリのところで選択を迫られる。
どの立場も、正解が一つだけあるわけではない。
だからこそ、「なぜ、その選択をしたのか」を言葉にしようとする姿勢が、次の一歩につながるのだと思う。
日本の選手や指導者が、このシーンから持ち帰れるもの
このダービーの一場面は、日本でサッカーに関わる人たちにとっても、いくつかのヒントをくれているように思う。
- 「感情」と「判断」をどこで分けるか
判定に不満を持つのは自然な感情だ。
ただ、その感情に押し流されるか、それとも「今できるベストな次のプレーは何か」と切り替えるかで、選手としての姿勢は変わる。
- 「権威」に飲まれず、どう意見を伝えるか
指導者や審判に対し、感情的に反発するか、それとも冷静に「自分はこう見えた」と伝えようとするか。
どちらを選ぶかで、「聞いてもらえる可能性」は大きく違ってくる。
- 「見えなかった」ことをどう扱うか
自分が見ていなかった場面、自分の角度からは分からなかったプレーについて、「知らない」まま終わらせるのか。
それとも、映像を見たり、仲間と話したりして、「自分ならどう守る/どう攻める」を考え直すのか。
サッカーは、予測不能なスポーツだ。
完璧なルール運用も、完全に公正なジャッジも、おそらく永遠に存在しない。
だからこそ、そこにいる一人ひとりが、「分からないこと」とどう付き合うかが問われる。
答えの出ない場面と、どう生きるか
ミラン対インテルの「リッチのハンド問題」は、時間が経っても、きっと完全には決着しない。
PKだった、と言う人もいれば、ノーファウルで妥当だった、と言う人もいるだろう。
大切なのは、その意見の違いを前にして、「どちらが正しいか」だけを競うか、「なぜそう思うのか」を聞いてみるか、だ。
もし、自分がチームメイトとこのシーンを振り返るなら、こんな問いかけもできるかもしれない。
- もし自分がリッチの立場だったら、あの瞬間、腕はどこに置いていただろう
- 自分がVARだったら、どの映像を重視するだろう
- 試合終盤、自分のチームに不利な判定が出たとき、次の1プレー目で何を基準に立ち位置を決めるだろう
そうやって問いを重ねることで、「答えの出ない場面」と少しずつ仲良くなれる。
サッカーは、いつも「完全な正しさ」から少しズレたところで行われている。
そのズレを嘆くだけで終わるか、その中で何を選び、どう振る舞うかを考え続けるか。
その違いは、意外と大きいのかもしれない。
判定が揺れたサンシーロの夜のように、はっきりしない出来事に出会ったときこそ、自分の中の「基準」を静かに見直すチャンスなのだと思う。
