46歳ロナウジーニョがセリエCを選んだ理由
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46歳のロナウジーニョが、もう一度スパイクを履く理由
サッカー選手にとって、「引退」とはどんな瞬間なのだろう。
ある日を境に、フィールドへ出る理由がなくなる。 ボールを蹴る必要が、なくなる。 それは解放なのか、喪失なのか。 おそらく、両方が同時にそこにある。
先日、ひとつのニュースがヨーロッパのサッカーメディアを静かに騒がせた。 あのロナウジーニョが、46歳にしてイタリア3部リーグのクラブと契約したという。
イタリアのセリエCは、日本で言えばJFLや地域リーグに近い層のリーグだ。 スタジアムの規模も、注目度も、報酬も、頂点のステージとは比べようがない。 では、なぜ彼はそこにスパイクを持ち込もうとしているのか。
「なぜ」を問う前に、少し立ち止まる
この話を聞いたとき、多くの人がまず疑問を抱いたはずだ。
「今さら?」 「本気なのか?」 「引退後もサッカーがやりたいのか、それとも別の意図があるのか?」
確かに、現実的な視点からすれば疑問は尽きない。 46歳という年齢は、プロスポーツの文脈ではほぼ「現役の外側」に位置する。 全盛期に世界中のファンを熱狂させたテクニックが、いまなお通用するとは考えにくい。
だが、ここで少し立場を変えてみたい。
もし「なぜ彼がそこにいるのか」ではなく、 「彼の中で何が起きているのか」という方向から眺めてみたら、どうだろう。
サッカーを「続ける理由」は、一つではない
ロナウジーニョが現役を退いたのは、2018年のことだ。 バルセロナ、ACミラン、フラメンゴといったビッグクラブで輝き、 2004年のFIFA最優秀選手賞、2006年のバロンドールを受賞した。 その後はフットサルの舞台やチャリティマッチに顔を出すことはあったが、 プロとしての契約という形では表舞台から距離を置いていた。
それが今、セリエCという場所を選んだ。
その判断の裏側に何があるのかは、本人以外には分からない。 ノスタルジーかもしれない。 サッカーというゲームそのものへの愛着かもしれない。 あるいは、引退後の数年間で、「もう一度やりたい」という感覚が静かに膨らんでいたのかもしれない。
どんな理由であれ、彼が「また選んだ」という事実は、 サッカーというスポーツの持つある種の引力を、静かに物語っている。
「舞台の大きさ」と「意味の大きさ」は、必ずしも一致しない
育成年代の選手たちと話をすると、よくこんな言葉が出てくる。
- 「Jリーガーになりたい」
- 「トップレベルでやりたい」
- 「海外でプレーしたい」
夢として、それは美しい。 目標として持つことには、何の問題もない。
ただ一方で、「舞台が大きくないと意味がない」という思い込みが、 知らないうちに自分の中に巣食っていることはないだろうか。
ロナウジーニョという存在が今、イタリアの3部リーグを選んだことは、 その問いを逆側から照らしてくれているように思える。
世界の頂点を経験した選手が、最後に選んだのは「勝つための場所」ではなく、 「ボールを蹴るための場所」だったのかもしれない。
そう考えると、サッカーをする動機の話として、これはとても深い。
| 観点 | システム依存型 | 内発動機型 | 評価 |
|---|---|---|---|
| 引退の契機 | 卒業・進学・部活終了など仕組みの区切り | 自分の意志による決断 | △ 主体性の差 |
| 続ける動機 | チームの都合・環境の継続 | 内側から生まれる「やりたい」感覚 | ◎ 動機の質 |
| 舞台の意味付け | 上位リーグ・大きな舞台=価値 | どの舞台でも蹴れることに価値を置く | ◎ 問いの転換 |
| 復帰の選択肢 | 社会人リーグ等に限られやすい | いつでも戻れる文化的空気がある環境 | △ 環境整備の課題 |
| モチベーションの所在 | 「やれと言われるから」 | 「なぜ好きか」を自分が知っている | ○ 指導の方向性 |
モチベーションの「核」はどこにあるのか
育成の現場でも、指導者はしばしばこの問いに向き合う。
選手が「やらされている」状態か、「自分でやっている」状態かは、 練習の質にも、試合の判断にも、確実に現れてくる。
では、自分でサッカーを選ぶためには、何が必要なのか。
誰かに「うまくなれ」と言われたからではなく、 誰かに「試合に出たいならやれ」と言われたからでもなく、 自分の内側から「もう一度やりたい」という感覚が生まれる瞬間。
ロナウジーニョの今回の選択は、そういう問いを遠くから届けてくれる出来事に見える。
日本の育成環境と「続けること」の意味
日本においてサッカーは、圧倒的に「学校教育の枠組み」と結びついている。 小学校、中学校、高校、大学と、学年の区切りがそのまま「チームの区切り」になる。
引退の理由が「卒業」や「進学」である選手は少なくない。 やめたくてやめるのではなく、システムの都合でやめていく。
それ自体の是非を問いたいわけではない。 ただ、「続けること」の決断が本人の手の中にある環境と、 仕組みの中で自然に終わる環境とでは、 サッカーとの向き合い方がどこか変わってくるのではないかとは思う。
ロナウジーニョのように「また戻ってくる」という選択肢を、 若い選手たちが持てているかどうか。 そしてその選択を、周囲が温かく受け取れる空気があるかどうか。
日本のサッカー育成環境を考えるとき、そこは一つの問いになりうる。
- 「うまくなれ」より「なぜサッカーが好きか」を選手に問いかける機会を作る — 動機の所在を選手自身が知ることが、外圧ではなく内発的な継続を支える土台になる
- 進学・卒業でやめる選手に「またいつでも戻れる」と伝える — 「サッカーをやめる」が仕組みの都合ではなく選択肢として認識されると、その後の向き合い方が変わることがある
- 舞台の大小ではなくプレーの質や楽しさを評価軸として示す — トップリーグを目指さなくてもサッカーに価値があると伝えることが、長期的な競技継続につながる
- 「Jリーガーになれなければ意味がない」という前提を問い直す — サッカーを続ける理由が外部の目標だけに依存していると、目標が消えた瞬間に動機も失われる。自分の中の「なぜ」を知ることが大切だ
- やめた後でも「また蹴りたい」と思える感覚を大切にする — 離れる時期があっても戻ってこられる関係をサッカーと作っておくことが、長い目で見た豊かなサッカー人生につながる
- 親は結果より「今日のサッカーはどうだった?」という問いを持つ — 「楽しかったか」「どんな場面が面白かったか」を聞くことが、子ども自身の内発的な動機を育てる
答えを出す前に、問いを持ち歩く
この話には、正解がない。
46歳での復帰が「美しい」のかどうかも、 それが「本物の情熱」なのか別の理由なのかも、 はたして成功するのかも、誰にもわからない。
だからこそ、面白い。
サッカーに限らず、どんな選択も、 完全に理解できた瞬間に少し色が褪せていく気がする。 「なぜそうしたんだろう」という問いが残っている間は、 その選択がまだ生きている証拠なのかもしれない。
ボールを蹴り続ける、ということ
ロナウジーニョがセリエCのピッチに立つかどうか、 実際にどのようなパフォーマンスを見せるかどうか、 それはこれから明らかになっていくことだ。
ただ、今この瞬間にわかることは一つある。
彼はまだ、ボールを蹴ることを選んだ。
若い選手にとって、その事実が何かの問いを灯すとすれば、 「なぜ自分はサッカーをしているのか」という、 答えのいちばん難しい問いへの入口になるかもしれない。
その問いを持ちながらピッチに立てる選手は、少し違うものが見えてくる。 そう信じたくなるような出来事だった。
サッカーは、やめた後でも人を引き寄せる。 そのことだけで、もう十分に不思議なスポーツだと思う。
プロの世界に進めずにサッカーを離れることになった22歳の自分を、いまも頭の片隅で思い出すことがある。やめることを選んだのではなく、やめるしかなかった。それでも、ボールを蹴りたいという感覚だけは長く残った。「なぜ続けるのか」より先に「なぜ離れたのか」の方を考えた時期がある。
みなさんが知っている選手や子どもたちが、サッカーを続ける理由を自分の言葉で持てているかどうかは、この記事だけでは分からない。ただ、「やめる理由」がシステムの都合ではなく自分の決断から来ているとしたら、サッカーとの向き合い方が少し変わるかもしれない。
