40歳でもコートに立ち続けるポルトガル女子フットサル代表キャプテンの、「競うことが好き」という選択の深さ
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40歳のキャプテンが、まだ競い続ける理由
40歳になっても、ピッチを離れるつもりはない。
ポルトガル女子フットサル代表のキャプテンが、そう語った。 「競うことが大好きなんです」という言葉は短いが、その短さの中に、長い年月をかけて積み上げてきた何かが凝縮されている気がする。
フットサルというスポーツは、狭いコートの中で判断が次々と求められる競技だ。 サッカーよりもテンポが速く、一瞬の迷いが局面を変える。 そのピッチで40年間生き続けてきた選手が、「まだ続ける」と言う。 それはただの執着ではなく、積み重ねてきた思考の深さから来るものではないかと思う。
経験は、「答えを知っている」ことではない
年齢を重ねた選手に対して、私たちはしばしば「経験がある」という表現を使う。 しかしその「経験」とは、何を意味しているのだろう。
同じシーズンを何度も繰り返したから何かを知っている、という話ではないはずだ。 むしろ、失敗の数だけ「次にどうするか」を考え続けてきた、その密度のことではないか。
40歳のキャプテンがいまもコートに立つのは、過去の成功を守るためではなく、まだ見ぬ局面に自分がどう反応できるかを確かめたいからかもしれない。 「競う」という言葉には、相手を倒すという意味だけでなく、自分自身の現在地と向き合い続けるという意味も含まれているように聞こえる。
ベンフィカのキャプテンが言った「常に優勝候補として入る」
ベンフィカ女子フットサルのキャプテンは、シーズン開幕にあたって「ベンフィカは常にファボリート(優勝候補)として戦いに臨む」と語った。
これを聞いてどう感じるか、人によって違うだろう。 プレッシャーに聞こえる人もいれば、誇りに聞こえる人もいる。
ただ、この言葉の重さを引き受ける立場について少し想像してみると、単純ではないことに気づく。 「常に優勝候補」という状況は、失敗が許されないように見える。 しかし本当にそうだろうか。
むしろ常に優勝候補であり続けることで、選手たちは「勝てて当然」という外の声と、「それでも自分たちで考えて選択しなければいけない」という内側の葛藤を、毎試合抱えながら戦う。 その構造は、期待と重圧を一身に受ける選手にとって、非常に複雑な思考を要する場所だ。
大きなクラブの選手であることは、才能や環境に恵まれているという話だけではなく、誰よりも「なぜこの選択をするのか」を自分に問い続けなければならない立場でもある。
ベンフィカの女性指揮官が語った言葉
ベンフィカ女子フットサルを率いる女性指導者が、興味深いことを口にした。 「私は特定の性別のためのコーチではない」と。
フットサルの男子を指導することへの可能性を問われた文脈でのコメントだったようだが、この言葉が持つ意味はもう少し広い射程を持っていると感じる。
「自分はどんな選手を指導できるのか」を、性別という枠で答えを出さない。 それは一見シンプルな発言のようで、実は「指導者とは何者か」という問いに対して、既成の答えを拒否している。
日本の指導現場でも、「女性のコーチが男子チームを見る」「若いコーチが年配の選手を指導する」という場面に対して、無意識のうちに前提を持ってしまうことがある。 その前提を一度ほぐすことで、見える風景は大きく変わることがある。
スポルティングの選手たちが目指す「奪還」
スポルティングでは、ブルーノ・ピントとアレックス・メルリンという二人の選手が、今シーズンのタイトル奪還に向けて強い意志を示している。
「奪還」という言葉には、失った過去と向き合う必要がある。 昨季チャンピオンになれなかったという事実を、単純に「悔しかった」で終わらせるのか、「なぜ届かなかったのか」を丁寧に解体するのかで、次の選択は変わってくる。
名前が挙がった二人のうち、アレックス・メルリンはブラジル出身の選手だ。 異なる文化の中で育ったフットサルの感覚が、ポルトガルのリーグでどう生かされ、どう融合されていくのか。 それはチームの戦術の話だけではなく、「自分がここで何を選ぶのか」という個人の選択の話でもある。
遠く離れた国でプレーを続けることは、毎日がある種の決断の連続だ。 慣れた環境を離れ、言語も文化も異なる場所で、それでも自分のプレーを磨き続けることを選んだ選手の内側には、誰にも見えない対話がある。
ポーランドで5年間輝くポルトガル人選手
今回目に留まったニュースの中に、ポーランドのリーグで5年にわたってプレーし続けているポルトガル人選手のことが書かれていた。
「自分がレジェンドだとは思っていない」と本人は語ったという。
5年間、一つのリーグで輝き続けながら、それでも自分を「伝説」と呼ばない感覚。 これは謙遜ではなく、まだ終わっていないという意識の表れではないかと思う。
自分の評価を他者に決めさせず、しかし過信もせず、ただ目の前のシーズンに誠実であり続ける。 その姿勢こそが、5年という時間をそのリーグに刻んだ理由なのかもしれない。
遠い国で、誰かに頼まれたわけでもなく、自分の選択として居続けることを選んだ選手は、日々「なぜここにいるのか」という問いを自分の中で更新し続けているはずだ。 その更新作業こそが、5年間の継続を支えてきた。
ポルトガルフットサルの広がりが示すこと
ポルトガルフットサルの代表監督、ヌーノ・ジアスは「ポルトガルのフットサルが明確に自分たちの存在を示している」という趣旨の言葉を残している。
ポルトガルはフットサルにおいて世界的に高い水準を誇る国の一つだ。 しかしその強さが今に至るまで、どのような思考と選択の積み重ねで作られてきたのかは、結果だけを見ていると見えてこない。
育成の段階で何を大切にしてきたのか。 選手たちに何を考えさせ、何を選ばせてきたのか。 指導者たちがどんな問題意識を持って選手と向き合ってきたのか。
「ポルトガルのフットサルがここにある」という言葉は、過去の膨大な判断の蓄積のうえに立っている宣言だ。
フンダオン(Fundão)のクラブが「今季はよりコンプリートなチームがある」と語り、プレーオフ復帰を目指している。 ジョエル・ロシャ率いるクラブが「決定的な局面に関わりたい」と公言する。 ヌン・アルバレスのパウロ・タバレスが「あらゆるファイナルに出続けたい」と明言する。
それぞれのクラブが、それぞれの言葉で、自分たちの目標を語っている。 共通しているのは、結果を語りながらも、そこに至るプロセスへの強い意識が透けて見えることだ。
続けるという選択が、何よりも深い
40歳のキャプテン、5年間海外リーグに居続けた選手、「性別のコーチではない」と言い切った指導者。
彼女たち、彼らの共通点は、外から見えやすい「結果」ではなく、「次にどうするか」を自分の内側で決め続けてきたことにある。
スポーツの世界では、引退の時期、移籍の決断、戦術の変更、指導者の選択など、あらゆる局面で「正解がわからないまま選ぶ」ことが求められる。 その選択は、誰かが代わりにしてくれるものではない。
40歳のキャプテンが今もコートに立ち続けることを選んでいるのは、正解だからではなく、それが今の自分にとって誠実な選択だからだ。
続けることは、諦めないことではない。 続けることは、毎回新しく選び直すことだ。
彼女は今日も、昨日の自分に頼らずコートに立っている。
本命として戦い続けることの内側
「ベンフィカは常にファボリートとして戦いに臨む」という言葉を、重圧の話として読むことも、誇りの話として読むこともできます。この立場が選手に求めるものを少し掘り下げると、単純な話ではないことが見えてきます。
常に優勝候補であることは、失敗の原因を「相手が強かった」で終わらせられない立場に置かれることです。外から見える「強いクラブ」という評価と、試合の中でその強さを毎回証明しなければならない内側の作業が、いつも平行して走っています。
キャプテンがその重さを引き受け続けるのは、期待への応答ではなく、「自分たちはどう戦うのか」という問いを手放さないことへの意志から来ています。
ベンフィカを率いる指導者が「自分は特定の性別のためのコーチではない」と語ったことも、同じ問いの延長にあります。性別という枠で自分の仕事を定義しない姿勢は、どう戦うのかを問い続けるキャプテンの姿勢と、どこかで地続きです。
40歳まで続けることを、単純に称えていいのか
「競うことが大好き」という言葉は、清々しく聞こえます。ただ、長く競技を続けるベテランについて、「すごい」という賞賛で包んでしまうことで、見えにくくなるものがあります。
続けることが強さの表れである場合もあれば、やめ時を掴み損ねた結果である場合もあります。40歳のキャプテンがどちらにいるかを、外側から正確に判断することはできません。
それでも、「競うことが好き」という言葉が本人の口から出ていること、それ自体は一つの事実です。やめることへの恐怖ではなく、続けることへの選好が言語化されているとき、それは外からの賞賛とは別のところで成立している何かです。
プロの世界に進めないまま競技を離れた経験を持つ人間として、この記事を読みました。あのとき感じたのは、続けたいという気持ちと、続けられる環境がなくなっていくことの間に、じつはずっと言葉がないということでした。「競うことが好き」という動機は、勝ちたいという欲とも、認められたいという欲とも違う、もう少し静かな場所にある気がします。
もちろん、皆さんが見てきた選手が同じ形でサッカーを続けていたとは限りません。それでも一度、あなたがいちばん夢中だったとき、その夢中の理由は何だったかを、少し辿ってみることはできますか。
