ビザを拒否されたパレスチナ会長の「写真拒否」から考える——2026年W杯が問う「誰でも参加できる」サッカーの本質
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ピッチの外で、誰かが弾かれていく
2026年のワールドカップ開幕を目前に控えたある日、パレスチナサッカー協会のジブリル・ラジューブ会長は、メキシコシティで行われた開会式の会場に立っていた。
その数時間後、彼は北へは進めなかった。
米国とカナダへの入国ビザが下りなかったのだ。
4年に一度の祭典が、世界を分断したまま幕を開けようとしている。
ビザ、写真、そして問いの重さ
ラジューブ会長は、ワールドカップ開催国の一つであるカナダ・アメリカへの入国を認められなかった。
その背景には、ここ数ヶ月の積み重ねがある。
今年4月、バンクーバーで開かれたFIFAの会議において、彼はFIFA会長ジャンニ・インファンティーノの呼びかけによるイスラエルサッカー協会幹部との集合写真に参加することを断った。
それは単なる「拒否」ではなく、ひとつの意思表示だった。
パレスチナサッカー協会はそれ以前から、占領地であるヨルダン川西岸のクラブがイスラエルサッカー協会管轄のリーグに参加していることについて、FIFAに制裁を求めてスポーツ仲裁裁判所(CAS)へ提訴していた。
写真を断った行為は、その文脈の中にある。
ラジューブ会長は、ビザ拒否の決定を「ばかげている」と語り、外部からの圧力があったと示唆した。
ただ、彼が語ったことよりも、語れなかったことのほうに、もしかしたら問題の核心があるのかもしれない。
彼だけではなかった
同様にビザを拒否された人物が、ほかにもいる。
ソマリア出身の審判員オマル・アルタン。
イランの関係者。
セネガルやコートジボワールのサポーターたち。
正規のビザを取得していたにもかかわらず、入国を拒まれたケースも報告されている。
ピッチの上では世界が一つになるとされるこの大会で、ピッチの外では、誰かが選別されながら弾かれていく。
「参加する権利」が問われている。

サッカーは本当に、「誰でも参加できる」のか
日本でサッカーを愛する人間として、この問いは遠い話には聞こえない。
サッカーはよく「最もシンプルなスポーツ」と言われる。
ボールさえあれば、どこでも、誰とでも始められる。
それは事実でもあるが、「参加できる前提」がそこには静かに潜んでいる。
体が健康であること、安全な場所があること、そしてある種の「資格」を問われないこと。
ワールドカップという世界最大のサッカーの祭典が、特定の国籍や政治的背景を持つ人々を入口で弾いてしまうとき、サッカーが掲げてきた「普遍性」はどこへ向かうのだろう。
| 場面 | 行動の内容 | 背景にある文脈 | 問いの性質 |
|---|---|---|---|
| 集合写真の拒否 | FIFA主催イベントでの集合写真参加を断った | CAS提訴中・占領地問題という文脈 | ◎ 意思表示 |
| 会長へのビザ拒否 | 開催国2カ国への入国を認められず | 外部からの政治的圧力が示唆される | △ 参加の壁 |
| 審判員へのビザ拒否 | ソマリア出身審判員が入国を拒否された | 出身国による選別 | △ 普遍性への問い |
| 正規ビザでも入国拒否 | 西アフリカのサポーターが正規取得後に拒否 | 実態と建前の制度的乖離 | △ 制度の矛盾 |
| 育成現場での選択 | 「チームのため」か「自分の判断」かの葛藤 | 空気を読む力と自分の立場を持つ力 | ○ 個の確立 |
スポーツと政治の境界線はどこにある
「スポーツに政治を持ち込むな」という言葉は、しばしば使われる。
しかしその言葉自体が、すでにひとつの政治的判断を内包している。
沈黙を選ぶことも、声を上げることも、どちらも選択だ。
ラジューブ会長が集合写真を断った場面を想像してほしい。
カメラの前に立たないという、あの数秒間の決断。
それは単に「空気を読まなかった」のではなく、彼なりの文脈と歴史の中で積み上げられてきた、ある種の選択の結果だったはずだ。
正しいかどうかは、簡単には言えない。
ただ、なぜそう選んだのかは、問い続けるべきだと思う。
育成の現場に引き寄せて考えてみると
これを日本の育成サッカーの文脈で考えてみると、少し違う景色が見えてくる。
子どもたちが「チームのためにプレーするのか、自分のためにプレーするのか」という問いに直面する場面がある。
そこで「勝手な行動をするな」と言われることも多い。
一方で、「自分の判断で動く力」を伸ばそうとする指導者もいる。
この両者の間に、実は本質的な葛藤がある。
集合写真に並ばないというラジューブの選択は、「空気を読む力」を要求されながらも、「自分の立場を手放さない力」を行使したひとつの場面として見ることができる。
誰かと並ぶことが「仲間として認める」という意味を持つとき、並ばないことは沈黙ではなく、主張になる。
- 「並ばない」という判断が出たとき、まず文脈を聞く — 行動だけを見て叱る前に、なぜそう選んだのかを言葉で引き出す
- チームのためと個の判断を対立させない指導を意識する — パスを出すか仕掛けるかの判断に「なぜ」を持たせることが、自律したプレーヤーを育てる
- 「誰を排除しないか」を練習環境でも問い続ける — 技術の差、文化の差で参加できない子どもがいないかを常に確認する
- パスを出す選択も仕掛ける選択も、どちらも「なぜ」を持つ — 判断のひとつひとつに理由があると、プレーが意味を持ち始める
- 「波風を立てない」ことも選択、立てることも選択 — どちらかを押しつけられていないか、自分が選べているかを意識する
- 誰と一緒にプレーするか、誰を排除しないかを大切にする — 戦術や技術と同じくらい、サッカーの根っこにある問いだと知っておく
答えを出すことより、問い続けることの価値
もし自分がその立場だったら、写真に入っていたかもしれない。
波風を立てたくない、という気持ちは誰にでもある。
しかし、その「波風を立てない選択」もまた、何かを意味してしまう。
サッカーは90分の試合の中で、何十回もそういう判断を積み重ねるスポーツだ。
パスを出すのか、自分で仕掛けるのか。
プレスをかけるのか、ブロックを組むのか。
そのひとつひとつに、「なぜ」があり、「誰かのため」がある。
ピッチの外での選択も、構造は同じだ。
ラジューブは今回の大会でメキシコには入れた。
チュニジアの試合を見届けた後、パレスチナに帰ると語った。
彼が持ち帰るものが、勝ち負けではなく、何か別のものであることは、たぶん確かだ。

スタジアムに入れなかった人が、それでも見ていた
2026年のワールドカップが持つ意味は、試合結果だけでは測れない。
開催国に入れなかった人たちの視線が、どこか遠くからこの祭典を見ている。
その視線に気づけるかどうかが、サッカーを「スポーツ」として享受するだけでなく、「社会の中にあるもの」として受け取れるかどうかの分岐点かもしれない。
日本の子どもたちが将来、ワールドカップのピッチに立つとき。
あるいは、ただボールを追いかけるだけの週末に。
「誰と一緒にやるのか」「誰を排除しないか」という問いは、戦術や技術の話と同じくらい、サッカーの根っこにある。
ビザを拒否された人たちのことを、簡単に「政治の話だ」と片付けることも、もちろんできる。
でも、それもまた、ひとつの選択だということを、忘れないでいたい。
どこかのスタジアムの外で、入れなかった誰かが空を見上げている。
その人が何を思っているかを想像できるとき、サッカーはもう少しだけ、広くなる気がする。
後に日本代表に選ばれることになる選手たちと、ジュニアユースからユースまでの時期、同じピッチでボールを蹴っていた。その頃から感じていたのは、「空気を読む力」と「自分の判断を手放さない力」は、ピッチの上では本来両立するはずのものだということだ。ところが、一方だけを求める指導の場面に、何度も出会った。
皆さんが経験してきた育成の現場が、同じ葛藤に満ちていたとは限らない。ただ少し思い浮かべてみてほしい──あの頃、「なぜそう動いたのか」を自分の言葉で説明できた瞬間が、あなたにはあったかどうかを。