VARが「正しさ」を連れてきて、決断の重さを奪っていないか——最下位ヘイデンハイムが示した“怖い方を選ぶ”勇気
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「最下位なのに、攻めに行く」ヘイデンハイムとVAR騒動から考える、決断の重さ

83分、最下位の歓声と、そのわずか5分後
ブンデスリーガ23節。
1.FCヘイデンハイムは、残留争いのど真ん中にいる。
相手は上位につけ、ヨーロッパリーグも戦うVfBシュトゥットガルト。
15,000人のスタジアムで、多くの人が「波乱が起きるかもしれない」と感じていたはずの試合は、最後の最後まで揺れ続けた。
83分。
ヘイデンハイムの途中出場、シルロイド・コンテがネットを揺らす。
スコアは3-2。
リーグ最下位のクラブが、格上相手に残留へ大きく近づくかもしれないリードを手にした瞬間だった。
だが試合は終わらない。
88分、今度はシュトゥットガルトのデニズ・ウンダフが決めて3-3。
最下位のクラブが「勝ち点3」をつかみかけて、指からこぼれていくような展開になった。
この試合は点の取り合いだけではない。
2度のPK、2つの取り消されたゴール、そしてビデオ判定をめぐる怒りや戸惑い。
そこには、選手も指導者も、そして審判も、「決断すること」から逃げられない現代サッカーの姿が浮かんでいる。
| 観点 | VAR導入後 | VAR導入前 | 評価 |
|---|---|---|---|
| 明らかな誤審の件数 | 大幅に減少 | 高い頻度で発生 | ◎ 正確性向上 |
| 主審の決断の最終責任 | 外部チェックが常に存在 | 主審が単独で決定 | △ 責任の分散 |
| 選手のゴール後の喜び | 数十秒〜数分待機が発生 | 即時に確定 | △ 感情的な揺らぎ |
| 試合のリズム・テンポ | 中断が増えやすい | 流れが継続しやすい | △ 変化 |
| 審判の自信と主体性 | 「後で確認がある」という意識が生じる | 自分の判断が全て | ○ 一長一短 |
| 観客・選手の納得感 | 正しい結果でも感情的に受け入れにくい場合あり | 誤審でも判定は明快 | ○ 複雑化 |
「ビデオが正しい」は、本当にそうなのか
34分、最初の大きな転換点が訪れる。
ヘイデンハイムが攻め込む。
接触があるが、主審サシャ・シュテーゲマンは続行を選ぶ。
そのカウンターから、シュトゥットガルトのエルメディン・デミロヴィッチがゴールネットを揺らす。
一度は2-1と表示されたスコアが、その直後に揺り戻される。
ビデオ・アシスタント・レフェリー(VAR)からの連絡。
主審はモニターで映像を確認し、「さっきの接触はPK」と判断を変更。
デミロヴィッチのゴールは取り消され、今度はヘイデンハイムのアリヨン・イブラヒモヴィッチがPKを決めて1-2ではなく2-1となる。
さらに後半には、デミロヴィッチの2本目のゴールも、オフサイド判定でビデオチェックの末に取り消される。
試合後、この「二度の幻のゴール」の当事者となったデミロヴィッチは、怒りと悔しさを隠さずに言葉を選んだ。
要約すると、彼はこう訴えている。
- ピッチ上の主審が決めるべきで、ビデオに頼りすぎているのではないか
- 主審は「どうせあとで連絡が来る」と思い、自分で決めづらくなっているのではないか
- この状況を変える方法を探すべきではないか
「テクノロジーがあるから正しい」
その前提に対して、感情のこもった疑問符が投げかけられた瞬間だった。
もちろん、VARは「明らかな誤審」を減らすために導入された。
この試合でも、実際にはファウルがあったプレーが見逃されていた可能性は高い。
ルール上は、VARの介入は筋が通っていると言えるだろう。
けれど、ピッチの中でプレーしている選手にとって、「ルール的に正しい」だけでは済まない何かがある。
ゴールが決まった瞬間の喜び。
スタジアムの空気。
そこから数十秒後に、「なかったこと」にされる感覚。
それは数字には表れないが、選手の心と判断を確実に揺らす。
- 判定結果に左右されない「自分たちのプレーに集中する」メンタルを練習で育てる — VARによるゴール取り消しや不利な判定は今後も起き続ける。その後に「どんなメンタルでプレーを続けるか」を事前にチームで話し合い、乱されにくい土台を作る
- 残留や負け越しの状況でも「怖い方を選ぶ」判断基準をチームで持つ — ヘイデンハイムは最下位でも守りに入らず格上に攻め続けた。「失点しないこと」を最優先にするか「勝ちにいくこと」を前提に動くかをチームの価値観として共有しておく
- 審判の判定に対する反応のルールをチームで決めておく — 判定への不満を表現することと、それをプレーに引きずることは別物。判定後に選手が取る行動のガイドラインを持つことで、チームのリズムを維持できる
揺らぐのは、選手の心か、それとも審判の心か
デミロヴィッチの言葉で印象的なのは、「審判が一番つらい立場になっているのではないか」という視点だ。
「どうせあとで連絡が来る」。
もし主審が、心のどこかでそう感じていたとしたら、何が起こるだろうか。
- はっきりしない接触に対して、あえて笛を吹かず、ビデオに委ねる
- 自分の直感よりも、「後からバッシングされない安全策」を優先する
- 結果として、プレーが止まりがちになり、試合のリズムが失われる
サッカーは、本来「瞬間の決断」が積み重なっていくスポーツだ。
選手がパスかドリブルか、シュートかキープかを瞬時に選ぶように、審判もまた「今、どう見るか」をその場で決めなければならない。
だがVARの存在は、審判から「決断の最終責任」を一部奪い取り、「外部のチェック」を必ず意識させる仕組みでもある。
そこに安心感を覚える審判もいれば、「自分が試合をコントロールしている感覚」を失っていく審判もいるかもしれない。
もし自分が主審の立場だったら、どうだろう。
15,000人の前で、自分の笛一つが試合を決めてしまうプレッシャー。
その重さから、つい「後で映像で確認できるし」と思ってしまうことはないだろうか。
選手には選手の葛藤があり、審判には審判の葛藤がある。
VARは「正しさ」を追い求める装置であると同時に、「決める主体」をぼやかしてしまう装置でもある。
- ゴールが取り消された後にどう立て直すかを自分なりに考えてみる — デミロヴィッチのように2度ゴールを取り消された後でもプレーを続ける場面は、自分の感情管理と集中力の切り替えを鍛える最も実戦的な場面のひとつだ
- 最下位・劣勢の状況で守るか攻めるかを自分なら選ぶか、立ち止まって考える — ヘイデンハイムは最下位でも格上に攻め続けた。批判を受け入れてリスクを取る「怖い方の選択」を自分のチームでも選べるかどうかが問いになる
- 「VARが正しい」という前提だけで試合を見ず、判定の背景にある選手・審判それぞれの葛藤を想像する — ルール的に正しい判定でも、ゴールの喜びを「なかったこと」にされる感覚は数字に表れない。その両方を理解することが試合をより立体的に見る出発点になる
最下位ヘイデンハイムが選んだ「怖い方の選択」
この試合で、もう一つ忘れてはいけないのは、ヘイデンハイムの姿だ。
試合前、長年チームを率いるフランク・シュミット監督は、「ほとんど勝たないと残留は難しい」と語っていた。
数字だけ見れば、過去のブンデスリーガの歴史上、この時期の勝ち点では残留はほぼ不可能に近い。
それでも彼らは、「勝ちに行く」というスタンスを選んだ。
5分で失点し、最下位チームとしては最悪の入り方をした試合。
普通なら、そこから守備を固め、失点を増やさないことを優先してもおかしくない。
だがヘイデンハイムは違った。
- 20分、冬に戻ってきたエレン・ディンクチが同点ゴール
- 彼は何度も仕掛け、前向きなプレーで観客を沸かせる
- PKを獲得し、イブラヒモヴィッチの逆転弾につなげる
前線で新加入のクリスティアン・コンテもアシストを記録し、積極的にゴールに絡む。
最下位チームらしからぬ「怖さ」のある攻撃を、あえて選んでいたように見える。
最下位という状況は、守りに入る理由をいくらでも与えてくれる。
「失点しないこと」を最優先にすれば、批判もある程度は避けられる。
だがシュミット監督は、「勝たなければ意味がない」という前提を受け入れたうえで、リスクを取る道を選んだ。
その結果が、3-3というスコアだ。
勝ち点3を取り逃したと見るか、格上を相手に勝ち点1を拾ったと見るか。
評価は分かれるだろう。
けれど、「怖い方の選択」を貫いたその姿勢は、数字では測れない何かをチームに刻んでいるはずだ。
「誤審より怖いもの」は何か

VARをめぐる議論は、多くの場合「誤審をなくすかどうか」に収れんしがちだ。
だが、この試合を見ていると、もう一つ別の問いが浮かび上がる。
誤審よりも怖いのは、「誰も責任を取らない状況」ではないか。
ピッチ上の審判が「自分の笛で決めきれない」。
VARルームの担当者も「映像上の解釈」としてしか関与できない。
選手は、「どこまでプレーを続ければいいのか」「どのタイミングで喜んでいいのか」に迷う。
決定のプロセスが複雑になればなるほど、「結果」だけは誰にも否定されにくくなる一方で、「決めた人」の輪郭はあいまいになっていく。
一方、ヘイデンハイムの選択はシンプルだ。
「残留するためには勝つしかない」
だから、前に出る。
だから、リスクを取る。
成功すれば称賛され、失敗すれば非難される。
その両方を受け入れたうえで、「自分たちで決めた道」を歩いている。
VARの話題と、残留争いの話題は、まったく別物のように見える。
だが根っこには、「誰が何を決めるのか」という共通のテーマがあるように思える。
日本のサッカーで、この試合をどう受け止めるか
日本でもVARが導入され、同じような場面が増えてきている。
喜びの後に取り消されるゴール。
「なぜプレーを止めなかったのか」「なぜ今になって?」という戸惑い。
そして、育成年代でも、「判定への不満」や「審判のレベル」を話題にする場面は少なくない。
けれど、この試合から拾い上げられるのは、「VARは良い・悪い」という表面的な二択だけではない気がする。
例えば、こうした問いかけができるかもしれない。
- もし自分がデミロヴィッチなら、2度ゴールを取り消された後、どんなメンタルでプレーを続けるか
- もし自分が主審なら、あの最初の接触を、ビデオなしでどう判断していたいか
- もし自分がヘイデンハイムの選手なら、最下位という状況で、守るか攻めるかどちらを選ぶか
そこには、「正解」はない。
選手の性格、チームのスタイル、クラブの歴史、置かれている立場によって、選ぶべき答えは変わる。
大事なのは、「なぜそう考えるのか」を自分なりに言葉にしてみることかもしれない。
VARをただ批判するのでも、ただ受け入れるのでもなく、
「テクノロジーがある中で、自分はどうプレーしたいのか」
「不利な判定にあったとき、自分はチームメイトにどんな声をかけたいのか」
そんな視点で試合を振り返ると、同じ90分でも違う意味を持ち始める。
答えを急がないからこそ見えてくるもの
ヘイデンハイムはこの試合で勝てなかった。
残留の可能性は、数字の上ではいっそう厳しくなっている。
それでもフランク・シュミット監督は、エネルギーを注ぎ込み続けている。
なぜか。
「まだ可能性がゼロではないから」と言ってしまえば、それまでだ。
しかし、もしかしたら彼は、「この状況で、選手たちがどんな決断を選べるか」を見届けたいのかもしれない。
守りに入るのか、前に出るのか。
判定に心を乱されるのか、それでも自分たちのプレーに集中するのか。
勝ち点だけでは測れない「選ぶ力」が問われている。
VARの議論も、残留争いも、短期間で結論が出る問題ではない。
拙速に「これが正しい」と言い切るよりも、しばらく「揺れたまま」にしておくことが、かえって大切なのかもしれない。
もし、あなたがこの試合のどこか一場面の当事者だったとしたら、何を選ぶだろうか。
PKの笛を吹く主審かもしれない。
2度ゴールを取り消されたフォワードかもしれない。
最下位チームで、前に出るかどうかを迷うサイドアタッカーかもしれない。
「自分ならどうするか」を一度立ち止まって考えてみる。
その時間こそが、ピッチの上での次の一歩を、少しだけ確かなものにしてくれるのかもしれない。
そして、答えが出なくても構わない。
揺れながら、それでもボールに向かって走り続ける姿に、サッカーの面白さは宿り続けているのだから。