敗戦のあと、僕らはなぜ「審判」と戦いたくなるのか
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なぜ負けたとき、人は「審判」に向かうのか

ホームで0−2の敗戦を喫した直後、バルセロナはピッチの外で、もう一つの勝負に踏み出した。
相手はアトレティコ・マドリードではなく、審判と、そのジャッジを統括するUEFAだった。
クラブとして公式声明を出し、特定のハンド判定やレッドカードの場面について「規則に反している」と強く抗議し、審判団の通信記録へのアクセスや、誤審があった場合の公式な認定と改善策を求めるという行動に出た。
監督のハンジ・フリックも試合後の会見で、判定への不満をあらわにしている。
それは一見すると、単なる「負け惜しみ」に見えるかもしれない。
ただ、ここには「プロフェッショナルクラブとして、何を守ろうとしているのか」という、少し違う角度から眺められる問いも隠れている。
同じ90分を戦ったはずなのに、なぜあるクラブは「判定と戦う」ことを選び、また別のチームは「自分たちの出来」に焦点を当てるのか。
そして、ピッチに立つ一人の選手としては、どうこの出来事を受け止めればいいのか。
審判への抗議は「逃げ」なのか、それとも「責任」なのか
クラブの視点:組織としての「選択」
今回のバルセロナの行動を、感情論ではなく「組織の判断」として見てみると、また別の顔が見えてくる。
彼らが問題視したのは、例えばこうした点だ。
- 自陣でのバックパスを受けたGKからのボールを、味方DFがペナルティエリア内で手に触れたとき、主審はハンドを取らなかったこと
- すでに0−1で負けている時間帯で、この判定が試合の流れに大きな影響を与え得たこと
- さらに、若いDFパウ・クバルシへの退場処分が下されたこと
クラブは、それらが「規則の運用としておかしい」と感じたからこそ、試合後すぐに声明を出し、UEFAに対して調査と説明を求めた。
この行動をどう受け取るかは、人によって分かれるだろう。
ある人は「また審判のせいにしている」と感じるかもしれないし、別の人は「クラブとして選手を守ろうとしている」と見るかもしれない。
どちらが正しいというよりも、ここにあるのは「クラブとして、何を優先したのか」という選択だ。
判定に不満はあっても、「受け入れて前を向く」こともできたはずだし、「内部で検証して、外には出さない」というやり方もあったはずだ。
その中であえて、公の場で強く異議を唱える道を選んだ。
それは、「納得できないものは納得できない」と示す姿勢であり、「選手たちは自分たちが守る」というメッセージにも見える。
一方で、「じゃあ内容面の反省はどこへ行ってしまうのか」という問いも、同時に立ち上がってくる。
| 立場 | 審判に向ける行動 | 自分たちへ向ける行動 | バランス評価 |
|---|---|---|---|
| クラブ(バルセロナ) | 公式声明でハンド非採用・退場に抗議、通信記録開示要求 | 内容面の反省が後回しになりやすい | △ 守る姿勢は強いが検証が薄れる |
| 監督(フリック) | 会見で判定への強い不満を表明 | 改善点の言語化は後回し気味 | ○ 選手は守られるが指導は要注意 |
| 当事者選手(プビル/クバルシ) | 公的には何も発信しない | 身体の向き、一歩の踏み出し方を自己分析 | ◎ コントロールできる範囲に集中 |
| 育成指導者 | 協会・運営へ適切な方法で意見 | なぜその判断だったかをチームで振り返る | ◎ 抗議と検証を両立 |
| 選手(個人) | 感情的にならないよう努める | 1本前のポジショニング・切替速度を問い直す | ◎ 自分に引き寄せる |
| ファン/SNS | 即結論で「誰が悪い」を語る | 「自分ならどう選ぶか」を想像する | △ 急ぎすぎに注意 |
監督の視点:チームを守る言葉、個人を成長させる言葉
ハンジ・フリックは、試合直後の会見で、問題の場面に触れながら強い不満を示した。
このとき、彼の頭の中にはどんな優先順位があったのだろうか。
例えば、監督としては次のような葛藤があるかもしれない。
- その場で審判への不満を表明しないと、「クラブも監督も選手を守ってくれなかった」と感じる選手がいるかもしれない
- 一方で、全てを審判のせいにしてしまうと、「自分たちの改善点」を見つめる視点が薄れてしまう
言葉ひとつで、ロッカールームの空気は変わる。
監督がメディアの前で審判を責めるほど、選手たちは守られているように感じるかもしれないし、その裏で「じゃあ自分たちは何を変えるのか」という問いが後回しになる危険もある。
もし自分が指導者なら、どんな言葉を選ぶだろうか。
判定に対する不満を言葉にしつつも、「それでも自分たちはこうすべきだった」と両方を語るのか。
あるいは、感情が熱いうちはあえて判定には触れず、「まずは自分たちのプレーから見直す」と伝えるのか。
どちらも正解になり得るし、どちらもリスクをはらんでいる。
結局、監督がそのとき何を一番大切にしたいかによって、選ぶ言葉は変わってくる。
ピッチの中の一瞬と、外側の大きな流れ
- 抗議と自己検証を同時に語る — 「あの判定はおかしい」と「自分たちはこう変えられた」をワンセットで選手に伝える習慣を持つ。
- 映像で冷静に解釈を共有する — 試合直後の熱い会見とは別に、翌日以降に映像とルールで検証する場を設ける。
- 不満の出し方にルールを敷く — 選手の前で審判に見せる態度が、そのままチームのリスペクト文化になると意識して振る舞う。
ハンドをした選手と、退場した選手の視点から考えてみる

問題のシーンで、自陣のペナルティエリア内でボールに手が触れたとされるのは、アトレティコのマルク・プビルだった。
彼にとって、その瞬間はどのような時間だっただろう。
ボールの軌道、相手のプレッシャー、味方GKの位置関係。
わずか一秒にも満たない中で、「足で処理する」「身体を入れ替える」「クリアする」など、様々な選択肢が交錯したかもしれない。
結果としてボールは手に触れ、主審はそれをファウルと取らなかった。
試合後、大きく騒がれたのはその判定だが、当事者にとっては、「なぜあのときあの身体の向きだったのか」「なぜあの一歩を踏み出せなかったのか」という、もっと細かい自己分析の時間が続いている可能性もある。
同じように、パウ・クバルシにとっても、退場という結果は大きな出来事だ。
自分の対応は本当にファウルだったのか。
リスクを背負って止めに行くべきシーンだったのか。
それとも、もう一歩我慢して、別の方法で守る選択肢もあったのか。
「理屈の上ではこうするべき」とわかっていても、実際のスピードとプレッシャーの中で、その選択を貫くのは簡単ではない。
ピッチの外では「誤審かどうか」が議論されていても、当事者である選手たちは、「自分の判断をどう磨いていくか」という、もっと静かな戦いを続けているかもしれない。
- 1本前のプレーを思い出す — ハンドや退場の瞬間ではなく、その直前のポジショニングや身体の向きに自分で変えられた余地を探す。
- 切り替えスピードを評価軸にする — 判定がどう出ても、次のプレーに入る速さは本人の選択。家族でも「切替の速さ」をほめる視点を持つ。
- SNSの即断に飲まれない — 「誤審だ」「選手のミスだ」という結論の前に、「自分ならどう振る舞うか」を一度立ち止まって考える。
日本の現場に引き寄せてみるとき
こうした出来事を、日本の育成年代や学校チームの現場に重ねてみると、いくつかの問いが浮かぶ。
- 判定に納得がいかないとき、選手や指導者はどこまで声を上げるべきなのか
- 子どもたちの前で、どのように「不満」と「リスペクト」の線を引くのか
- 理不尽に感じることがあったとき、それを「なかったこと」にせず、どう対話の材料に変えていくか
例えば、ある試合で明らかにオフサイドではないゴールが取り消されたとする。
そのとき、指導者が取れる選択肢はひとつではない。
- 強く抗議して判定の修正を迫る
- 抗議はするが、一定のところで引き下がり、選手には「切り替え」を促す
- ほとんど抗議せず、終わったあとでチーム内でだけ状況を整理する
どれが正しいとも言い切れないが、「なぜ、その選択をしたのか」を自分の中で説明できるかどうかは、とても大事になってくる。
選手の前でどう振る舞うかは、そのまま「サッカー観」や「人との向き合い方」として伝わってしまうからだ。
「審判のせい」にすることと、「審判のせいにしないこと」の間
両方を同時に持つという難しさ
バルセロナのように、公式に抗議をするクラブを見ていると、「言い訳だ」と切り捨てたくなる気持ちもあるかもしれない。
ただ、サッカーには明らかに「判定がおかしい」と感じる瞬間も存在するし、そのときに何も行動しないことが、必ずしも美徳とは限らない。
一方で、「全部審判のせい」にしてしまえば、自分たちのプレーの中にある改善点は見えなくなる。
その間のどこかに、自分たちなりの立ち位置を探す必要がある。
例えば、こんなスタンスもあり得る。
- 試合中は、判定に感情的になりすぎないよう努める
- 試合後に映像を見ながら、ルールの解釈や審判の立ち位置を含めて、冷静に検証する
- それでも納得できない部分があれば、適切な方法で協会や運営に意見を伝える
- 同時に、「たとえ判定が変わらなくても、自分たちが変えられた部分はどこか」を必ずセットで考える
大事なのは、「どちらか一方だけを持つ」ことではなく、矛盾するように見える二つの視点を、同時に抱え続けることなのかもしれない。
「あの判定はおかしかった」と認めながら、「それでも、あの試合をひっくり返す力を自分たちが持てていなかった」という事実も見つめる。
その両方を受け入れるのは、決して楽な作業ではない。
選手として、自分はどこに責任を置くか
読んでいる人がもし選手だとしたら、自分自身の視点もまた少し違うはずだ。
判定に不満があったとしても、最終的にコントロールできるのは、自分のプレーと態度だけだからだ。
「審判は自分で選べないけれど、自分の準備と判断は自分で選べる」。
そう考えたとき、同じ試合であっても、捉え方は変わってくる。
例えば、今回のようなハンドの場面が、自分の試合で起きたとする。
- そもそも、あのリスクのある体勢にならないよう、1本前のパスやポジショニングを変えられなかったか
- ボールが来る前の身体の向き、味方との距離感を、他の選択肢にできなかったか
- 判定がどう出ても、次のプレーに切り替えるスピードをもっと上げられなかったか
そうやって「自分に引き寄せて考える」ことでしか、選手としての成長にはつながらない部分がある。
もちろん、人間だから感情的になる瞬間もある。
それでも、感情が落ち着いたあとに、「結局、自分は何を変えられるのか」という問いに戻ってこられるかどうか。
その繰り返しが、長い目で見たときの差になっていくのではないだろうか。
日本ではどう考えられるか:負けたあと、どこを見るか
「環境のせい」と「自分たちの選択」のあいだ
日本のサッカー界でも、「審判のレベル」や「運営の問題」が話題になることは少なくない。
グラウンドの質、移動の負担、試合数の多さや少なさ、審判の経験値。
環境に課題があるのは事実として、そこにどこまで向き合うかは、それぞれの立場によって変わってくる。
バルセロナのように、公に強い姿勢を見せるやり方もあれば、表立っては語らず、内部で積み上げていくやり方もある。
ただ、どれを選ぶにしても、「自分たちは何を変えたいのか」「そのためにどんな行動を取るのか」を意識し続けることが大切なのだと思う。
環境のせいだけにしてしまえば、自分たちの選択の余地は見えなくなる。
逆に、「全部自分たちのせい」と考えすぎれば、不必要な負い目を抱えてしまう。
両方のバランスの中で、自分なりの答えを探していくことが、日本のサッカーを考える上でも避けて通れないテーマなのかもしれない。
「答えを急がない」見方を持てるか
試合直後、SNSではすぐに結論が並ぶ。
- 「誤審だ」「審判が試合を壊した」
- 「いや、内容で負けていた」
- 「選手のミスだ」「監督の采配が悪い」
どれも、一部は真実を含んでいるのかもしれない。
けれど、90分の試合の裏側には、もっと長い時間が流れている。
選手の迷いや準備、クラブの方針、監督の葛藤、審判のトレーニング環境。
それらを全部ひとつにまとめて、「誰が悪い」で終わらせてしまうのは、もったいない気もする。
「あの判定はどうだったのか」と考えることと、「じゃあ、自分ならどう振る舞うか」を考えること。
この二つをゆっくり行き来できると、同じ試合から受け取るものが少し変わってくる。
負けの中に、どんな問いを残すか
バルセロナは、アトレティコに0−2で敗れたあと、審判とUEFAに対して強いメッセージを発した。
その選択を、「言い訳」と見るか、「責任ある行動」と見るかは、人によって違うだろう。
大切なのは、その出来事を遠くから眺める自分たちが、「自分ならどう考えるか」を一度立ち止まってみることかもしれない。
- 自分が選手なら、判定にどう向き合い、自分のどこを見直すか
- 自分が指導者なら、どんな言葉でチームと審判の両方に向き合うか
- 自分がクラブを運営する立場なら、どのタイミングで、どんな形で声を上げるか
サッカーの敗戦は、いつも何かを奪っていく。
勝ち点やタイトルだけでなく、自信や誇り、時には公平さへの信頼までも。
それでも、その中にひとつだけ残せるものがあるとしたら、「次はどう選ぶか」という問いなのかもしれない。
その問いを抱えたまま、また次のキックオフに向かって歩き出せるかどうか。
サッカーの強さは、案外その静かなところで決まっていくのではないだろうか。
