エストゥディアンテスの「一人に預けた11年」から学ぶ――日本の選手・保護者・サポーターがいま身につけたい「自分でクラブとサッカー人生を選ぶ力」
このコラムを共有
「誰かが決めてくれるクラブ」から「自分たちで選ぶクラブ」へ

金曜日の夜、エスタディオ・アントニオ・カンディーニのスタンドには、怒号よりも、長いため息が目立っていた。
アルビセレステの選手たちがピッチを後にしても、大きな罵声は飛ばない。
観客席には、うつむく顔と、どこも見ていない目線だけが浮かんでいる。
エストゥディアンテス・デ・リオ・クアルトがまたひとつ敗れ、降格が現実味を帯びてきた試合後。
その空気は、単なる「負けた悔しさ」とは違うものだった。
もっと深いところで、「ひとつの時代が終わるかもしれない」という予感が、スタンド全体に広がっていた。
負けたことより重い「選挙」という言葉
クラブを率いてきたアリシオ・ダガッティ会長が、クラブとしての選挙の実施を発表した。
この「選挙」というたった三文字が、敗戦以上に人々の心を揺さぶっている。
降格の可能性ももちろん重い。
しかし、それ以上に、「ここ11年ほど、クラブのすべてを引き受けてきた存在が、もう続かないかもしれない」という現実が浮き彫りになったからだ。
選挙は、本来、集団のメンバーが「誰に任せるか」を決めるための、ごく当たり前の仕組みだ。
アルゼンチンの多くのクラブでも、社会全体でも、選挙は民主主義の一部として当然のように行われている。
それなのに、エストゥディアンテスで「選挙」という言葉がここまで不安を呼ぶのはなぜなのか。
それは、この11年ほどの間に、クラブの運命を「ほとんど一人に預ける」形が、いつの間にか当たり前になっていたからだろう。
| 観点 | 任せる(健全) | 丸投げ(委ねすぎ) | 評価 |
|---|---|---|---|
| 決定の前提 | 自分でも考えたうえで権限を委ねる | 考えること自体を手放す | ◎ 健全な委任 |
| 問いの有無 | 「他に選択肢はないか」と問い続ける | 「うまくいっているからいい」で止まる | △ 問いの放棄 |
| 結果が落ちた時 | 自分の関わり方を振り返れる | 「誰のせいか」を探し始める | ○ 当事者性の差 |
| ピッチ上の振る舞い | 状況を観て自分でプレーを選ぶ | 監督の指示を待ち続ける | ◎ 判断の自立 |
| 失敗した時の学び | 「なぜ選んだか」を言語化できる | 「不運」「誰かのせい」で終わる | △ 学びに繋がらない |
「任せること」と「丸投げすること」は違う
クラブ運営も、チーム戦術も、人生も、誰かに「任せる」こと自体は悪いことではない。
全員が同時に決定権を持ちたがったら、何ひとつ決まらない。
だからこそ、人は「この人なら」と思う誰かに、ある程度の権限を委ねる。
ただ、その「任せる」は、いつの間にか「全部どうにかしておいてくれる人」に変わっていくことがある。
エストゥディアンテスでは、ダガッティ会長のもとで、クラブは40年ぶりとも言えるような強い存在感を手に入れた。
カテゴリーを上げ、注目を浴び、勝利を重ねた期間もあった。
結果が出ている間、人はあまり問いを立てない。
「誰が決めているのか」「どう決まっているのか」「他に選択肢はないのか」。
そんな問いを持たないまま、「うまくいっているからいいじゃないか」と思ってしまう。
会長が拘留された期間に、その職務が息子に事実上引き継がれても、大きな議論にはならなかった。
それは、「任せる」というより、「考えることを手放して預けた」状態に近いのかもしれない。
- 指示の前に問いを置く — 「相手のシステムが変わった、どう守る?」と先に問い、答えを待ってから補足する
- 選択肢を3つ提示する — 一択で命じず「A・B・Cのどれを選ぶか」をピッチ上で選ばせ、判断の責任を残す
- 振り返りを「なぜ」で締める — 結果ではなく「なぜそのプレーを選んだか」を本人の言葉で語らせ、判断プロセスを蓄積する
ピッチの中の「委ねすぎ」と、クラブの「委ねすぎ」
ここで、少しピッチの中の話に引き寄せてみる。
試合の中で、選手が監督の指示を聞くのは当然だ。
だが、指示をただ待つだけで、自分で状況を観て判断することをやめてしまったら、どうなるだろうか。
例えば、守備の場面。
相手のシステムが変わったのに、ピッチ上で修正する選手が誰もいなければ、ベンチから指示が出るまで、ただやられ続けることになる。
「監督が何とかしてくれるだろう」という前提が強すぎると、選手はプレーの自由を失うどころか、自分の責任も手放してしまう。
クラブ経営においても、似たようなことが起きる。
会員や関係者が、「決めるのは会長」「クラブのことは上の人が考える」という空気に慣れすぎると、気づけば誰も「違うやり方」を提案しなくなる。
「選挙に出てみよう」と手を挙げる人も減り、「このままでいい」と思い込んでしまう。
勝っているうちは、それでも問題は表に出づらい。
しかし、成績が落ち始めた時、その「委ねすぎ」は、一気に不安に変わる。
スタンドでため息をつきながら、「結局、あの人がどうにかしてくれないと…」と考えてしまう。
ピッチの中の11人が、「誰かが何とかしてくれる」と思って立ち尽くすチームに、逆転する力はなかなか生まれない。
クラブの外側でそれが起きているとしたら、ピッチの中にも、同じ空気が流れ込んでいないだろうか。
- クラブを「カテゴリー」だけで選ばない — 名前や強さの奥にある「誰がどう物事を決めているか」までひと呼吸かけて見る
- 方針へのモヤモヤを言葉にする — 「そういうものだから」で飲み込まず、家庭内で一度言語化してから次の対話に進む
- 進路を「任せきり」にしない — 監督・親まかせの一択ではなく、自分で2〜3案を比べてから決める習慣を子どもに持たせる
「選ぶ力」は、急に身につくものではない
エストゥディアンテスでは、2015年以来、本格的な「複数候補による選挙」は行われてこなかった。
結果が出ている間、会員の投票率も高くはなかった。
気づけば、「次は誰に任せるのか」を本気で考えたことがない人が、大半になっているかもしれない。
ここで少し、日本のクラブや育成環境を思い浮かべてみる。
日本でも、多くのクラブはトップダウン型だ。
- 監督やクラブ代表が、方針のほとんどを決める
- 保護者や選手は「決まったことに従う」ことに慣れている
- 方針にモヤモヤを感じても、「そういうものだから」と飲み込む
もちろん、トップが方向性を示してくれるのは心強い。
だが、そこに慣れきってしまうと、「自分ならどうするか」を考える習慣が薄れていく。
選挙の場になって急に、「どの候補に投票する?」「どんなクラブにしたい?」と問われても、答えが出てこない。
普段から、何かを「選ぶ」経験をしていないからだ。
これは、選手にも重なる。
普段から、自分でポジションを選べない。
練習メニューも、参加する大会も、進路も、すべて誰かが決める。
その環境の中で、いきなり「自分のプレーを選べ」と言われても、戸惑うのは当然だ。
「考えていなかった」ことは、悪ではなく、きっかけになり得る
エストゥディアンテスのサポーターが感じているであろう不安や戸惑いは、「誰も何もしてこなかった」から起きているわけではない。
クラブを信じ、成果を喜び、日々スタンドに足を運んできたからこそ、今の状況がある。
それでも、あえて言えば、「考えずに済んでいた時間」が長かったのかもしれない。
「この会長じゃなかったら、どんなクラブになっていただろう」
「クラブの財政は、どのくらい健全なんだろう」
「育成とトップチームの関係は、10年後にどうなっているべきだろう」
こうした問いを、ふだんから自分なりに持っていれば、選挙が近づいたときに、「ようやく話し合える場が来た」と感じるかもしれない。
逆に、「誰かがやってくれているはず」と思い続けてきたなら、「え、今さら自分たちが決めないといけないの?」という不安にもつながる。
この違いは、そのままピッチに立つ選手にも重なる。
普段から、「自分ならどう守るか」「どこにポジションを取るか」「どんな言葉をチームメイトにかけるか」と考えている選手と、 「監督の指示を待つ」ことだけに慣れた選手。
同じ試合、同じ状況に立たされたとき、その二人が感じるプレッシャーはまったく違うはずだ。
「誰の責任か」ではなく、「自分はどこに関わるか」
クラブが苦しい時期に入ると、多くの人は「誰のせいか」を探したくなる。
会長なのか、監督なのか、選手なのか。
あるいは、過去のある決断をした人なのか。
エストゥディアンテスでも、降格の現実が迫るなかで、そんな空気がないとは言い切れない。
ただ、その問いだけでは、クラブは前に進みにくい。
「誰の責任か」という問いは、しばしば「自分は当事者ではない」という前提とセットになっているからだ。
「自分にはどうしようもなかった」「自分は被害者だ」と考えれば考えるほど、次の一歩を選ぶ力は弱くなる。
一方で、「自分はどこに関わってきたか」「どこから先を任せすぎていたか」と問い直すと、見えてくるものが変わる。
- 会員として、クラブの総会や説明会に顔を出していたか
- わからないことを「わからない」として、誰かに聞いたか
- モヤモヤした不安を、誰かと言葉にしたか
この問いは、サポーターだけでなく、選手や保護者、自分の所属するチームすべてに向けられる。
たとえば日本のジュニアクラブで、「今年から方針が変わります」と突然言われたとき。
「監督が全部悪い」と言いたくなる気持ちをぐっと飲み込んで、 「自分たちは、どこまで『お任せ』にしてきたのか」を一度振り返ってみることもできる。
そこから、「これからはどう関わるか」という新しい対話が始まるかもしれない。
「選ぶこと」に伴う、不安と責任
選挙は、「誰かに選ばされる場」ではなく、「自分が選ぶ場」だ。
それは同時に、「自分の選択が、これからのクラブを形づくる」ことを意味する。
そこに、不安がないはずがない。
投票した候補が、必ずしも期待どおりの結果を出すとは限らない。
しかし、自分で選んだという感覚があれば、うまくいかなかったときも、「なぜこの選択をしたのか」を振り返ることができる。
ピッチ上でのプレーも同じだ。
自分でプレーを選んだとき、ミスは痛い。
だが、そのミスは、次の学びに変わる。
「監督に言われたとおりにしただけ」という感覚のままでは、ミスはただの「不運」か「誰かのせい」で終わってしまう。
クラブを選ぶことも、指導方針を選ぶことも、監督を選ぶことも、本質はそれと似ている。
成功しても失敗しても、「自分がそこに関わった」という感覚があれば、人は考え続けることができる。
日本のサッカーで「選び慣れている」のは誰か
ここで、日本のサッカーにもう一度視線を戻してみる。
日本では、プロクラブの多くが株式会社や企業主体で運営されており、会員が直接トップを選挙で選ぶケースは多くない。
その分、「経営」や「クラブの向かう方向」について、サポーターや育成世代の選手に議論の場が開かれる機会は限られている。
代わりに、選手や保護者が頻繁に選んでいるのは、「どのクラブに所属するか」という選択だ。
その選択もまた、「ポジションの安定」や「勝てるチーム」を優先しすぎると、「考えずに委ねる」形になってしまうことがある。
一方で、「このクラブがどんな価値観で運営されているか」「どのように選手に決定権を与えているか」まで見ようとすれば、そこに「選ぶ力」が育っていく。
人は、自分が見ようとしたところしか、見えない。
クラブの名前、カテゴリー、ユニフォームのかっこよさ。
それらの奥にある、「このクラブは誰が、どうやって物事を決めているのか」という視点を持つかどうか。
その小さな違いが、長い時間のなかで、大きな差になっていくのかもしれない。
エストゥディアンテスのスタンドから届く、静かな問い

カンディーニのスタンドにあった、あの静かなため息。
あれは、「もう終わりだ」という諦めだけではないはずだ。
「これから、自分たちはどう関わるのか」という、まだ形にならない問いが、うっすらと立ち上がり始めている時間でもある。
誰か一人の時代が終わるのかどうか。
降格するのか、残留できるのか。
それももちろん大きなテーマだが、その先にもうひとつ、「どんなクラブでありたいか」を自分たちで選び直すタイミングが来ている。
この状況を前にして、もし自分がエストゥディアンテスの会員だったら、何をするだろうか。
- これまでの11年について、自分なりに情報を集めて整理するか
- 候補者が何を語るのか、じっくり聞きにいくか
- 自分にとって「良いクラブ」とは何か、紙に書き出してみるか
そして、もし自分が日本でプレーする一人の選手だとしたら。
- チームの方針について、監督や仲間と話してみるか
- 自分のキャリアの選択を、誰か任せにせず、一度自分の言葉で考えてみるか
スタジアムの客席でただ立ち尽くすこともできる。
同じ場所に立ちながら、「自分ならどうするか」と静かに問い直すこともできる。
答えを急がないクラブ、答えを急がない選手
選挙の日が近づくと、人はつい「どっちが正しいか」「誰が正しいか」を急いで決めたくなる。
しかし、クラブも、チームも、人生も、一度選んで終わりではない。
今日選んだことを、明日また見直すことができる。
そのとき大切なのは、「なぜそう選んだのか」を、自分の中で言葉にしておくことだろう。
エストゥディアンテスのサポーターが今、向き合っているのは、「一人の時代の終わり」かもしれない。
同時に、それは「自分たちで選び始める時代」の入り口でもある。
ピッチの中でも、クラブ運営でも、そして自分自身のサッカー人生でも、「考えずに委ねる」時間が長ければ長いほど、「自分で選ぶ」一歩目は重く感じる。
それでも、スタジアムの冷たい空気の中で一度立ち止まり、「自分ならどうしたいか」と静かに見つめる時間を持てたとき、サッカーは少しだけ、ただの勝敗を超えたものに変わっていく。
その変化は、派手な歓声ではなく、誰にも聞こえない小さな決意から始まるのかもしれない。
