監督はなぜ「話さない勇気」を選ぶのか――キヴの会見から考える言葉と責任の戦術
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監督はなぜ言葉を選ぶのか――クリスティアン・キヴと「話さない勇気」

記者会見に現れなかったのは、だれの「選択」か
ユヴェントスとの大一番を前にしたインテルの前日会見。 メディアが注目したのは戦術でもスタメンでもなく、「だれが話すのか」だった。
本来ならベンチを率いる監督が前に出て、記者の質問に答える。 しかしこの日、ユヴェントス側は監督のルチアーノ・スパレッティではなく、選手のマヌエル・ロカテッリを会見に立たせる選択をする。
それについて問われたインテルのクリスティアン・キヴは、少し笑いを交えながらこう返している。 「じゃあ、うちはラウタロを送ろうって言ったけどね、ダメだって言われたよ」と。 そして続けて、「監督が毎回話すのは簡単じゃない。言うことがあまり変わらないときもある。だからあの選択には共感するし、正直なところ、僕も来たくなかったくらいだ」と、冗談まじりに本音をにじませている。
ユーモアに包まれてはいるが、そこには「だれが、いつ、どこで、何を話すのか」という、サッカーにおけるもう一つの意思決定が見えてくる。
| 観点 | 話す・開示する選択 | 話さない・委ねる選択 | 評価 |
|---|---|---|---|
| 監督が自ら登壇する | チームを落ち着かせる効果あり | 精神的消耗を避けられる | ○ |
| 選手を会見に立てる | 選手にリーダーシップを求める | 「ピッチで戦うのは選手」を示す | ◎ |
| 審判批判をする | 不満の表明として理解される | フェアでない議論を生む可能性 | △ |
| 外部要因を理由にしない | 自己責任の姿勢を示せる | 場合によっては選手を守れない | ◎ |
| 結論を先延ばしにする | 余白が生まれ思考が深まる | 優柔不断と見られる場合もある | ○ |
「話す」か「黙る」かも、ひとつの戦術
会見に監督が出るか、選手が出るか。 一見すると、小さな違いに聞こえるかもしれない。 しかしトップレベルになればなるほど、その「小さな違い」の裏には、いくつもの計算と迷いが絡んでいる。
たとえば、ユヴェントス側の視点で考えてみると、こんな可能性がある。
- 監督がメディア対応を繰り返すことで、精神的に摩耗してしまうのを避けたい
- チームとして「ピッチで戦うのは選手だ」というメッセージを打ち出したい
- あるいは、会見を通じてロカテッリにリーダーシップを求めたい
逆に、キヴが「自分も来たくなかった」と言いつつも、実際には記者会見に出て言葉を選んでいることも、ひとつの選択だ。
自分が話すことで、チームを落ち着かせることができるのか。 それとも、あえて選手を前に出し、「お前たちのチームなんだ」と責任を分かち合うほうがいいのか。
ピッチ上でフォーメーションを決めるのと同じように、言葉の出し方もまた「布陣」なのかもしれない。
- 「何を言わないか」を事前に決める — 試合後取材の前に「今日は審判について触れない」「選手個人には言及しない」という判断を意識的に行うことで、感情的な発言によるチームへのダメージを防げる
- 責任の所在を外に向けない習慣をつくる — 結果が出ないとき審判・ピッチ・天候を理由にすると「自分たちに何ができるか」という問いが弱まる。先に「自分たちの足りない部分」を言葉にすることを選手とのルールにする
- 先輩指導者を「盗む視点」で参照する — 尊敬する指導者の手法をそのまま真似るのではなく、「どこを取り入れ、どこを自分なりに変えるか」という視点を持つことで自分の判断力が育つ
「毎回話す」ことの難しさと、日本の現場
キヴは「監督が3日に1回話すのは簡単じゃない」と口にしている。
これはイタリアに限らず、日本のJリーグや育成年代でも、少し形を変えながら当てはまる話だろう。 試合ごと、時にはトレーニング後にもメディア対応があり、クラブ公式のコメントもあり、ファンやサポーターからの期待もある。
言うことが毎回大きく変わるわけではない。 むしろ変えてはいけないときも多い。
・負けが続いても、「ブレない姿勢」を示さないといけない
・それでも「同じことしか言ってない」とは受け取られたくない
・選手を守りたいが、甘やかしていると思われるのも避けたい
このバランスをとることは、戦術的な判断とは別の意味で、かなり高度な「ゲーム」だ。
日本でも、指導者が「コメントひとつ」で批判されたり、選手がSNSの一文で炎上することがある。 そのたびに、現場の人たちは「次はどう言うべきか」と、試合映像と同じくらい真剣に、自分の言葉を振り返っている。
もし自分がチームのキャプテンで、負けた後の取材に応じる立場だったら、どうするだろう。 ただ「申し訳ない」の一言で終わらせるのか。 改善点を具体的に話すのか。 仲間をかばうのか、自分を責めるのか。
どれも「正しい」「間違い」で切り分けられない選択肢だ。 大切なのは、そのときの自分たちの状況の中で、「なぜその言葉を選ぶのか」を考え抜くことなのかもしれない。
- 取材・コメントの場を「自分の選択の場」と捉える — キャプテンや選手として負けた後に話す機会があれば、「申し訳ない」で終わらせるか改善点を話すか仲間をかばうかを感情ではなく「なぜその言葉を選ぶか」から決める
- 審判への言葉を試合後に振り返る — SNSや観客席での言葉が後でチームや自分に跳ね返ることを意識し、「判定に不満があるとき自分はどう言葉を選ぶか」を事前にイメージしておく
- 「1試合ずつ」に集中することの価値を知る — キヴが「インテルでは先のことを考える時間はない」と語るように、大きな目標より「今日のトレーニングで何をよくするか」に視点を絞ることが結果への最短距離になることが多い
「審判のせいにしない」と決めること
この会見で、キヴはもうひとつ興味深い話をしている。
イタリアでは、審判やVARに関する議論が絶えない。 ユヴェントス対ラツィオ戦の後には、スパレッティが審判の「プロ化」の必要性に言及したとも伝えられている。
それに対してキヴは、静かな口調でこうしたニュアンスのことを話している。
・審判についての議論は、昔から繰り返されていること
・人間である以上、ミスは避けられない
・本当に問題なのは、審判ではなく、イタリア代表が何年もワールドカップに出られていない事実のほうだ
・そこから目をそらして、全部を審判のせいにするのは違う
特に印象的なのは、「自分は、審判が“自分たちにとって得なミス”をしたときに、それを正直に認める監督が現れたら、この話題を語り始める」といった趣旨の言葉だ。
負けたときだけ審判を責め、勝ったときには黙っている。 それでは、議論としてフェアではない。
ここには、「言わないでおく」こともまたひとつの決断である、という視点が見えてくる。
・審判の判定に納得できない
・チームとしても不利を被ったと感じている
・記者からは「どう思うか」と聞かれる
そのとき、感情のままに批判するのか。 一歩引いて、「それでも自分たちに足りないところは何か」と話すのか。
どちらにもリスクがあり、どちらにも意味がある。 キヴは、少なくとも自分は「まず自分たちの足りなさに目を向ける側に立つ」と、立ち位置をはっきりさせたように見える。
日本のサッカーでも、判定への不満はよく話題になる。 スタンドやSNSで審判に対する言葉が荒れてしまうこともある。
そんなとき、「あの監督はどう言ったか」だけでなく、「自分がピッチに立つ選手だったら、あるいはベンチに座る指導者だったら、何を選ぶか」と立ち止まって考える余地があるかもしれない。
「問題は他にある」と考える視点


キヴは「イタリアがワールドカップに出られていないのは、審判のせいではない」とも話している。
これは、責任の所在を「外」に向けるのではなく、「中」に引き戻そうとする姿勢でもある。
・育成の仕組み
・若手起用のバランス
・国内リーグのスタイル
・メンタルや競争環境
そうした要素に目を向けず、「全部レフェリーのせい」と言ってしまうのは、考えることをやめる便利な言い訳にもなり得る。
日本サッカーに置き換えてみるとどうだろうか。
結果が出ないとき、私たちはどこに理由を探しがちだろう。
- 審判のレベル
- ピッチの状態
- 相手のプレースタイル
- 天候や移動距離
もちろん、どれも現実に影響する。 しかし、それだけを理由にしてしまった瞬間、 「では、自分たちに何ができるか」という問いが弱くなってしまう。
キヴの言葉には、「外部要因を完全に否定する」のではなく、「それを言い訳にして思考を止めない」ための距離感がある。
これは、選手にとっても同じだろう。
・監督が使ってくれない
・ポジションが本職と違う
・チーム戦術が自分に合わない
そう感じる場面は、どのカテゴリーにもある。 そこから先、「だからダメなんだ」と結論づけるのか、「それでも自分に何ができるか」と考え続けるのか。 その分かれ目は、目に見えないが、キャリアを大きく左右する。
「1試合ごとに生きる」という選択
会見の終盤、キヴはチームの現在地についても触れている。
インテルはシーズン前半でユヴェントスに4−3で敗れている。 そこから時間が経ち、再び首位として大きな一戦に臨む。
「ここまで首位で来ることを想像していたか」と聞かれたキヴは、「インテルでは、先のことを考える時間はない。とにかく次の試合だけに集中してきた」といった趣旨で語っている。
その言葉には、結果を急がない姿勢がにじむ。
・前回ユヴェントスに負けた
・順位表ではライバルたちが迫ってくる
・メディアは「優勝候補」として扱う
そんな状況でも、「次の1試合」を積み重ねることにフォーカスする。
そして、選手たちについては、こういう考え方も見て取れる。
- 選手たちは、要求されていることを素早く理解した
- 日々のトレーニングに「仕事としての姿勢」と「誇り」を持ち込んでくれている
- だからこそ、今の位置にいられる
ここには、「やり方を押しつけた」というより、「選手と一緒に作り上げてきた」という感覚がある。
日本の現場でも、似たような感覚を覚える指導者は多いのではないだろうか。
掲げる目標は「優勝」や「昇格」かもしれない。 しかし、日々のトレーニングで向き合うのは、目の前の1本のパス、1回の守備、1つのポジショニング。
大きな目標を意識しつつも、「今日は何を身につけて終わるのか」と小さなところに目を向け続けること。 結果を追いかけながらも、結果だけに縛られないこと。
それをどう両立するかは、選手にも指導者にも、いつも突きつけられているテーマのように思える。
「モデル」としての先輩監督をどう見るか
キヴは、自身が現役だったころにスパレッティの指導を受けている。
今回の会見でも、スパレッティについて「当時から優れた監督だったが、今はさらに磨かれている」「若い監督にとって、ひとつの模範になる存在」というニュアンスで語っている。
自分より先を歩く監督を、 ただ「すごい人」と見るのではなく、 「どこを盗み、どこを自分なりに変えるか」という視点で見ていることがうかがえる。
日本の選手や若い指導者にとっても、これはどこか重なるところがある。
・有名な監督のやり方を、そのまま真似するのか
・自分の選手たちの特性を見ながら、必要な部分だけ取り入れるのか
・尊敬しながらも、「自分ならどうするか」を手放さないのか
「モデル」があることは心強い。 しかし、モデルに寄りかかりすぎると、自分の判断力が育たない。
キヴのように、かつての自分の監督を「例」として参照しながらも、目の前の選手たちと自分のクラブに合う答えを探す姿勢は、日本のどんなカテゴリーの指導者にも通じるものがあるだろう。
もし自分が「話す側」だったら、何を選ぶか
ひとつの会見の中に、いくつもの「選択」が見えてくる。
- ユヴェントスは、なぜ監督ではなくロカテッリを前に出したのか
- キヴは、審判について「何を言わないことにしたのか」
- インテルの監督として、どこまで結果を語り、どこから先を語らないのか
そして、そのどれもが、「一番正しい答え」を探すというより、「今の自分たちにとって、どの選択がいちばん意味があるか」を考えた末の決断に見える。
もし、自分がプロクラブの監督だったら。 あるいは、ユースのキャプテンだったら。
・大事な試合の前日会見で、どんな言葉を選ぶか
・判定に納得できなかった試合の後、審判について何を口にするか、しないか
・連敗中、選手たちにどうやって前を向かせるか
どこまでが「正直」で、どこからが「戦略」なのか。 その境界線は、とても曖昧だ。 だからこそ、他人の選択を眺めながら、「自分だったらどうするか」を何度もイメージしてみることに価値があるのかもしれない。
急いで答えを決めなくてもいい
キヴの会見には、断定的な物言いが少ない。 ユーモアを交えながら、審判にもチーム状況にも、どこか余白を残して語っている。
言葉を選びすぎると、「本音を隠している」と受け取られることもある。 はっきり言いすぎると、今度は「炎上」や「分断」を生むこともある。
だからこそ、「すぐに結論を出さない」態度もまた、ひとつの勇気なのだろう。
サッカーの中には、すぐには答えが出ない問いがたくさんある。
- このプレーはリスクをかけるべきだったのか
- この交代は正しかったのか
- この発言は、チームにとって良かったのか
時間がたち、別の試合を経験し、違う仲間とプレーして初めて、「あのときの選択」に意味が見えてくることもある。
インテル対ユヴェントスという大きな舞台を前にした、ひとつの記者会見。 そこに映った監督たちの表情や言葉の選び方は、もしかすると、ピッチ上の戦術と同じくらい、サッカーの奥深さを教えてくれているのかもしれない。
次に試合を観るとき、あるいは自分がマイクの前に立つとき。 「なぜ、その言葉を選ぶのか」。 その問いを、あわてて片づけずに、少しだけ胸の中に置いておく。
その小さな習慣が、プレーの判断にも、人生の選択にも、静かに響いていくのかもしれない。
