マルディーニはなぜベネズエラに“飛び込んだ”のか──サッカー選手がピッチ外で選ぶ「立ち位置」とは
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「マルディーニのベネズエラ」から考える、サッカー選手の“立ち位置”の選び方

ピッチの外で、マルディーニが選んだポジション
Paolo Maldini。
ACミランの背番号3として、何年も左サイドを守り続けた選手。
相手のエースと1対1になっても、慌てず、飛び込まず、最後まで待てるディフェンダーとして、多くの人の記憶に残っているはずだ。
ところが今、彼が強く飛び込んでいるのは、サイドの攻防ではなく、南米ベネズエラの政治だ。
2023年にミランのテクニカルディレクターを退任して以来、マルディーニはサッカーの現場から少し距離を取り、穏やかに暮らしているように見える。
だがSNSでは、ベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領の拘束を歓迎し、「27年間の独裁の終わり」と受け取れる言葉を発信している。
アメリカによるマドゥロ夫妻の拘束は、多くの国からは主権侵害とも批判される一方で、ベネズエラ国内には、歓喜した人々も確かにいる。
マルディーニは、はっきりとその側に立った。
それはなぜなのか。
そこには、サッカーとは一見関係ないようでいて、「どこに立つのか」「どう選ぶのか」という、フットボールにも通じるテーマが見えてくる。
| 場面 | ピッチ内(守備) | ピッチ外(政治) | 共通する姿勢 |
|---|---|---|---|
| 判断スタイル | 慎重・飛び込まず待つ | 明確に一方の側に立つ | △ 場面で真逆の判断 |
| 立場の表明 | ミラン一筋・クラブへの忠誠 | 反マドゥロ・反チャビスモ | ◎ 信念に従い選択 |
| 沈黙の使い方 | 試合中はほぼ無言・行動で示す | イタリア政治は多くを語らない | ○ 語る領域を選ぶ |
| 背景となる視点 | 「ミランから見た世界」 | 「ベネズエラ富裕層家族の一員」 | ◎ 立場から世界を見る |
| 発信のリスク | ミスが失点に直結する | 賛否・炎上の対象になりうる | ○ リスクを承知で選ぶ |
| 引退後の変化 | 現場から距離を置く | 政治的発信は継続・明確化 | △ ピッチ外での声が増す |
なぜ、イタリア人のレジェンドがベネズエラにこだわるのか
マルディーニの発信を追うと、ベネズエラへの関心は最近突然始まったわけではないことがわかる。
ここ10年ほど、彼は何度もマドゥロ政権への批判をにじませてきた。
かつては、アメリカ寄りと見なされるフアン・グアイドにも好意的な姿勢を見せていたと言われる。
イタリアの国内政治については比較的口を閉ざしてきた一方で、南米のこの国については、はっきりとした立場を取っている。
鍵になるのは、彼のパートナーだ。
マルディーニの妻、Adriana Fossa Blancoは、ベネズエラ生まれ。
父はイタリア系の実業家、母はベネズエラの上流階級の出身とされている。
ベネズエラは、世界でも格差の大きい国のひとつとされる。
ジニ係数はおよそ60%。
ブラジルやコロンビアと並び、ラテンアメリカでも特に格差が大きい水準で、日本やフランスよりはるかに高い数字だ。
その中で、1990年代以降、ウーゴ・チャベスによる「チャベス主義(チャビスモ)」が台頭する。
貧困層から強い支持を得た一方で、多くの富裕層・中間層は、自らの利害が脅かされると感じ、激しく反発した。
アメリカの影響力も絡みながら、政治闘争は過激化していく。
アドリアナの家族は、まさにその富裕層・上流階級の側に属していた。
マルディーニ夫妻が反チャビスモの立場に立つのは、イデオロギーというよりも、自分たちの「生まれた場所」の延長線上にあるとも言える。
「27年の独裁」と語ったとされる言葉も、チャベス政権以降を一括して否定的にとらえてきたベネズエラ上流階層の言葉と重なっている。
ここで大切なのは、その是非を決めつけることではない。
「なぜ彼がその立場に立つのか」を、背景ごと考えてみることだ。
- 選手が「どこから世界を見ているか」を把握する — 強豪クラブ出身か地方の小クラブ育ちかで、選手の「当たり前」はまったく違う。その背景を把握してから言葉をかける。
- 「間合いをとる」習慣をコーチングに取り込む — 感情的な場面(審判への抗議、負け試合直後)でも一歩引いて考える時間を意識的に設ける練習をチームに促す。
- 「沈黙」も選択肢のひとつとして教える — SNS時代に何でも発信することを当然とせず、「今は言わない」「どこまで言うか」を考える習慣をチームの文化にする。
サッカー選手も、どこかの“チーム”に属している
ピッチの上では、選手はクラブ、代表、ポジションという「立ち位置」を背負ってプレーする。
マルディーニにとっては、何よりも「ミラン」だった。
ミラン以外のクラブからオファーがあっても、彼は断り続けたと言われている。
彼にとっての世界の見え方は、常に「ミランから見た世界」でもあったはずだ。
ベネズエラについての発信も、同じように考えることができる。
彼は「市民として」意見を言ったのかもしれない。
同時に、「ベネズエラ富裕層の家族の一員」としての視点も、そこに折り重なっている。
サッカーをしていても、似たようなことはないだろうか。
例えば、ある選手は「強豪チームの10番」という立場から物事を見る。
別の選手は、「ベンチが多い控えメンバー」として世界を見る。
どちらも同じ試合を見ているのに、印象や感じ方はまるで違ってくる。
マルディーニがベネズエラのニュースに触れるときも、おそらくは二つのレンズを通している。
ひとつは、世界のニュースを追う一人のサッカー人として。
もうひとつは、ベネズエラの上流階級にルーツを持つ家族として。
この「どこから世界を見ているか」を自覚するかどうかで、選ぶ言葉や、踏み込む距離感は変わってくる。
- 自分の「当たり前」は、育ってきた環境がつくっていると知る — 強豪クラブにいる選手と地方の小クラブにいる選手では見えている景色が違う。どちらが正しいではなく、「自分の視点だけが全てではない」と立ち止まれるかどうかが大切。
- SNSで発信する前に「間合いをとる」一呼吸を習慣にする — 試合直後や感情が高ぶった場面でのコメントは、後で後悔することがある。発信の前に「なぜ自分はこれを言いたいのか」を一度だけ確認する。
- 「沈黙を選ぶ」ことも立派な意思決定だと知る — マルディーニがイタリア政治については多くを語らない一方、ベネズエラには踏み込んだように、どこで声を上げどこで立ち止まるかも個人の判断。保護者は子どもの「言わない選択」も尊重する。
「沈黙」か「発信」か、そのどちらも選択肢になる
興味深いのは、マルディーニがイタリア政治については多くを語らない一方で、ベネズエラには踏み込んでいる点だ。
近年は、フットボール界でも政治的発言をする選手が増えた。
差別問題、戦争、環境問題。
発信することで称賛されることもあれば、批判や炎上の対象になることもある。
クリスティアーノ・ロナウドのように、特定の国やスポンサーと深く結びつく選手もいれば、極力政治的なトピックには触れないスターもいる。
どちらが正しい、という話ではない。
「何を話すか」と同じくらい、「何については話さないか」もまた、ひとつの判断になる。
マルディーニは、ミランからの退任も、わずかなクラブの公式文だけで片付けられた。
ファンからは不満もあったが、彼自身は多くを語らないまま、クラブから距離を取った。
一方で、政治的にはここまで踏み込む。
同じ人物の中で、「沈黙」と「発信」のラインが分かれている。
もし自分が選手だったら、どうだろう。
SNSで、クラブのこと、仲間のこと、日本や世界のニュース、どこまで言葉にするだろうか。
そして、どこで立ち止まり、「今は言わない」という選択をするだろうか。
日本でプレーする自分なら、どこに立つか
ベネズエラのような極端な格差社会や、チャベス主義をめぐる激しい対立は、日本からは遠い国の話に感じられるかもしれない。
だが、「自分がどの立場から物事を見ているか」という問いは、日本のサッカーにも静かに流れている。
例えば、育成年代。
強豪クラブのジュニアユースにいる選手と、地方の小さなクラブにいる選手では、「当たり前」がまったく違う。
毎週のように全国からスカウトが見に来る環境で育つのか。
保護者が送迎や費用の負担に苦労しながら支える環境で育つのか。
同じ「サッカーが好き」という気持ちを持っていても、見えている景色は大きく変わる。
指導者も同じだ。
Jクラブのアカデミーで働く指導者と、学校部活の顧問としてサッカーを見ている先生では、選手への言葉も、練習の組み立ても変わる。
どちらが正しい、ではなく、どちらも「自分の立場」から世界を見ている。
重要なのは、そのレンズを絶対視しないことかもしれない。
マルディーニも、ひとりのベネズエラ人として世界を見る妻と共に生きる中で、自然と「その側」から世界を見るようになったのだろう。
そのこと自体は、ごく人間的なことだ。
同時に、「自分の見ている世界は、世界のすべてではない」と立ち止まれるかどうかで、次の一歩は変わってくる。
感情の前に、いったん“間合い”をとってみる
ディフェンダーとしてのマルディーニは、むやみに飛び込まないことで有名だった。
相手のフェイントに乗らず、一歩下がって、最後の最後にボールだけをさらう。
ところが政治についての発信では、明確に一方の側に立っている。
これは責めるべき矛盾ではない。
むしろ、「人は状況によって、こんなにも違う判断をする」という、素直な一例として受け止められる。
自分たちの日常に置き換えてみると、似たシーンはいくつもある。
試合直後、審判の判定に感情的にコメントする。
SNSに、相手チームへの不満を書き込む。
クラブの方針や監督の采配に、公の場で強く反論する。
そのどれも、「言いたくなる気持ち」が先に立つ。
ただ、そこで一度だけ、ディフェンスの時のように「間合いを取る」こともできる。
なぜ自分は、いまこんなに強く何かを言いたくなっているのか。
その感情の後ろにある、自分の立場や経験、損得や恐れを、一歩引いて眺めてみる。
マルディーニほど大きな影響力はなくても、自分の言葉が誰かを勇気づけたり、逆に傷つけたりする可能性は、どのカテゴリーの選手にもある。
その重みを意識するかどうかで、「次の一言」の形は変わる。
「正しさ」より、「どう選ぶか」を考えてみる
マルディーニの発言をめぐっては、賛成も反対もある。
アメリカによるマドゥロ拘束を歓迎する人もいれば、国の主権を無視した危険な行為だと捉える人もいる。
チャベス主義を「独裁」と断じる言葉に拍手を送る人もいれば、貧困層にとっての社会的な意味を評価する人もいる。
いずれにしても、ひとつだけ言えるのは、「単純な善悪では語れない」ということだ。
だからこそ、サッカーに関わる私たちにできるのは、「誰が、どの立場から、なぜそう言うのか」を想像してみることかもしれない。
もし自分がマルディーニの立場だったら。
ベネズエラにルーツを持つ家族を持ち、その家族が長年抱えてきた不安や怒りを見聞きしてきたとしたら。
それでも、同じ言葉をSNSに書くだろうか。
それとも、別の言い方を探すだろうか。
あるいは、沈黙を選ぶだろうか。
問いとして残しておきたいこと

サッカー選手である前に、一人の人間として、誰もがどこかの「サイド」に立って生きている。
所属クラブ、育ってきた地域、家族の価値観、経済的な背景。
そのすべてが、自分の「当たり前」を形づくっている。
ベネズエラをめぐるマルディーニの発信は、「ヒーローにも自分の立場と限界がある」という、ごくシンプルな事実を改めて見せてくれる。
だからこそ、他人の発言を一瞬で評価する前に、こんな問いを自分に向けてみることもできる。
- 自分はいま、どんな立場から物事を見ているのか
- その立場が変わったら、同じ試合、同じニュースをどう感じるだろうか
- 発信する前に、一歩だけ間合いを取る余裕を持てるだろうか
ピッチの中では、ポジションをひとつ動かすだけで、景色も、見えるパスコースも、守るべきスペースも変わってくる。
ピッチの外でも、自分の立ち位置を意識してみるだけで、世界の見え方は少し違ってくるのかもしれない。
正解を急がず、「なぜそう見えるのか」をたどること。
その静かな作業は、サッカーのプレー選択にも、人生の選択にも、どこかでつながっていくはずだ。
