ワールドカップ2026をめぐる「ボイコット」の問いを、サッカーと共に考え続ける
分享这篇专栏
「ボイコット」の二文字が、ピッチの外からピッチの中に落ちてくるとき

ワールドカップをめぐる議論に、「ボイコット」という言葉がふたたび浮かび上がっています。
2026年大会は、アメリカ、カナダ、メキシコの3カ国共催という、これまでにない形で行われる予定です。
しかし、2025年初めにドナルド・トランプ氏がアメリカ大統領として再登場してから、その空気は大きく変わりました。
カナダへの露骨な併合発言、メキシコへの国境封鎖や国外退去をちらつかせる強硬な姿勢、さらにベネズエラへの軍事介入、グリーンランドへの威嚇的な言動。
移民局による強権的な取り締まりが国内で混乱を生んでいることも報じられています。
そうした現実の上に、「世界最大のスポーツの祭典」を重ねていいのかどうか。
クラブワールドカップ2025は一応「問題なく」行われましたが、トロフィー授与式でトランプ氏が前面に出て、チェルシーの選手たちより目立ってしまった場面は、多くの人の記憶に残ったはずです。
そこに、FIFA会長ジャンニ・インファンティノ氏が、ワールドカップ抽選会の場でトランプ氏に「平和のトロフィー」を手渡すという出来事が加わりました。
「いったい、これは何の大会なのか」
そう問いかけたくなる人は、きっと少なくないでしょう。
スポーツと政治のあいだで、誰がどこまで考えるのか
ボイコットという選択肢を前にしたとき
ワールドカップの歴史を振り返ると、ボイコットはオリンピックほど頻繁には起きていません。
1930年代には、アルゼンチンやウルグアイがヨーロッパでの大会をスキップし、逆に1930年や1950年には、いくつかのヨーロッパの協会が南米行きを見送っています。
ただ、それらは主に政治ではなく、移動や日程、経済的な条件など、スポーツ運営上の理由に近いものだったとされています。
近年のロシア大会(2018年)やカタール大会(2022年)でも、多くの批判やボイコット論はありました。
しかし、最終的にはどの代表も出場を取りやめることはなく、大会は予定通り行われました。
その裏には、いくつもの立場と事情があります。
- FIFAや開催国の思惑
- 各国政府や協会の判断
- 指導者の立場
- 選手一人ひとりの思いや葛藤
例えば、アフリカで豊富な経験を持つフランス人指導者クロード・ルロワ氏は、2026年に向けてアフリカ諸国がアメリカ行きを見合わせるべきだという趣旨の提案をしています。
これは、人種差別的な発言を含め、トランプ氏がアフリカ諸国に対して示してきた軽視や侮辱に対する、サッカー界からの意思表示として考えられるからです。
ドイツ、ノルウェー、デンマークなど、一部のヨーロッパ諸国も、参加について熟考する姿勢を見せていると伝えられています。
一方で、フランスなど多くの国は、いまのところ明確な行動には踏み出していません。
「スポーツと政治は別だ」という言葉は、フランスのスポーツ担当大臣マリナ・フェラーリ氏からも聞かれました。
皮肉なことに、その一方でフランスのマクロン大統領は、代表チームが決勝に進めばスタンドに駆けつけ、ロッカールームにも顔を出すことで知られています。
政治とスポーツは切り離すと言いながら、勝利の瞬間には並んで写真に写る。
この「ねじれ」を、選手や指導者はどう感じているのでしょうか。
| 観点 | 参加を選ぶ立場 | ボイコットを主張する立場 | 共通する課題 |
|---|---|---|---|
| キャリアへの影響 | ◎ 大会出場でキャリアを守れる | △ 選考外・スポンサー契約リスク | 選手個人が背負うリスクは大きい |
| 政治との距離 | ○ スポーツと政治は分離すべき | ◎ スポーツも社会の一部として声を上げる | どちらの立場も「分離」か「統合」かで割れる |
| 組織の判断 | ◎ FIFA・各国協会が参加を推奨 | △ 一部指導者・協会が見直しを示唆 | 最終決定は各国協会が握る |
| 過去の前例 | ○ ロシア大会・カタール大会で不参加なし | △ アルゼンチン・ウルグアイなど歴史的欠席例 | 「前例がない」は論拠にならない |
| 観る側の選択 | ◎ 試合を純粋に楽しめる | ○ 問題意識を持ちながら観戦する選択もある | どちらも「自分で選ぶ」ことが本質 |
代表監督と協会、そして選手のあいだにある温度差
フランスサッカー連盟の会長フィリップ・ディアロ氏は、2026年に向けたボイコット論について、はっきりとした姿勢はまだ示していません。
しかし、代表チームを率いるディディエ・デシャン監督は、従来から「政治的な問題を代表チームに持ち込むべきではない」という考え方を取ってきたことで知られています。
言い換えれば、「自分はサッカーの部分に集中したい」という立場です。
では、そのもとでプレーする選手はどうでしょうか。
政治的な発言を厭わないタイプの選手も、ヨーロッパには少しずつ増えてきました。
ただ、ワールドカップのメンバー選考がかかった状況で、自ら「ボイコット」を表明することは、キャリアへの巨大なリスクを伴います。
それは単に大会に出られないということだけではありません。
- 所属クラブの評価や契約への影響
- スポンサーとの関係
- 世論やSNSを通じた批判や攻撃
1978年アルゼンチン大会のフランス代表には、人権状況に強い問題意識を持ちながら、最終的に参加を選んだドミニク・ロシュトーという選手がいました。
軍事独裁政権下の開催に対して疑問を持ちつつも、彼は「行かない」という選択ではなく、「現地で自分なりのメッセージを示す」という道を選んだと伝えられています。
それでも、チームメイトの多くは、その問題に深く踏み込むよりも、試合に勝って報酬を得ることの方に意識が向いていたといいます。
全員が同じ覚悟や関心を持っているわけではない。
この温度差は、2026年をめぐる議論でも、きっと生まれてくるでしょう。
もし、自分がその立場だったら何を選ぶだろう
- 年代に合わせた問いかけを準備する — 「もし自分がその国の選手だったらどうする?」など、答えを求めず考える場を設ける
- 政治的テーマを排除せず入口として使う — ニュースをきっかけに「正解のない問いと向き合う練習」をトレーニング前後の5分で組み込む
- 「揺れたまま考え続ける」姿勢をモデルで示す — 指導者自身が「自分はまだ考えている」と正直に語り、即答しないことを恐れない
「行くか、行かないか」だけが選択肢なのか

ここまでの話を聞くと、多くの人はこう整理したくなります。
- ボイコットするか、しないか
- スポーツと政治を分けるか、結びつけるか
しかし、実際の現場では、そんなに単純な二択ばかりではないはずです。
代表監督や協会の立場から見れば、「出場をやめる」という決定は、国全体を巻き込む巨大な選択になります。
一方で、選手個人にとっては、自らのキャリアや家族の生活がかかった問題でもあります。
例えば、こうしたグラデーションのある選択の仕方も考えられます。
- 大会には出場するが、試合前のパフォーマンスや発言でメッセージを示す
- 代表チームとして統一した立場を持つのではなく、選手個人が自分の言葉で語る
- 現地で、社会問題に向き合う団体や人たちと連携しながら行動する
- 政治的な発言をしないこと自体を、自分なりの選択として自覚しておく
どれが正しいという話ではありません。
ただ、「参加=無関心」「ボイコット=正義」という単純な図式にしてしまうと、そこにあるはずの迷いや、積み重ねてきたキャリアの重さを、見落としてしまうかもしれません。
自分がプロ選手で、25人の代表候補の中に入っていたとしたら、どんな選択肢を思い浮かべるでしょうか。
家族や代理人、クラブの人とどんな話をするでしょうか。
「行きたい」という気持ちと、「でも…」という葛藤のあいだで、どんな時間を過ごすのでしょうか。
- 試合を楽しみながら選手の言動にも耳を澄ます — 得点シーンだけでなく、選手がピッチ外でどんな発言をしているかを一つの観戦軸にしてみる
- 「どう感じたか」を家族で言葉にする時間を持つ — 難しい答えを出さなくていい。「自分はこう思う」と話し合う習慣が自分で考える力になる
- 「参加=無関心」ではないと知っておく — 大会に出ながらメッセージを発する選手の行動も、選択の一形態として見逃さない
日本なら、この議論はどう立ち上がるのか
日本のサッカー界を思い浮かべるとき、この2026年の議論は他人事に見えるかもしれません。
しかし、ロシア大会、カタール大会をめぐる世界的な議論の中で、日本から強い「ボイコット論」が出てこなかったことも、ひとつの事実です。
それを「遅れている」と評価するのは簡単ですが、その前に考えてみたいことがあります。
- そもそも、選手や指導者、保護者が「自分の言葉」で社会問題について語る場がどれだけあるのか
- クラブや学校の中で、「政治」「人権」「差別」といったテーマをサッカーと結びつけて考える機会があるのか
- 異なる意見を持った選手同士が、安全に対話できる雰囲気はあるのか
もし、世界が大きく揺れているときに、日本代表にもボイコット論が降りかかってきたとしたら。
選手たちは、自分の考えを言葉にする準備ができているでしょうか。
指導者は、その声を受け止める心構えがあるでしょうか。
協会やクラブは、「正解」を押し付けるのではなく、異なる選択肢を一緒に考える体制を持てているでしょうか。
育成年代に落ちてくる「問い」を、どう扱うか
ピッチの外のニュースを、ピッチの中でどう扱うか
2026年のボイコット論は、トップレベルの話です。
しかし、その影は、やがて育成年代にも届いてきます。
ニュースを見た子どもが、練習後にぽつりと聞いてくるかもしれません。
「なんでボイコットって言ってるの?」
「行かない方がいいの?」
そのとき、指導者や保護者は、どんな言葉を返すでしょうか。
- 「サッカーと政治は関係ないから気にしなくていい」と言うのか
- 「難しいから大人になってから考えなさい」と先送りにするのか
- 「今すぐ答えは出せないけど、一緒に考えてみようか」と対話を始めるのか
もちろん、年代によって話し方は変わります。
小学生に、いきなり国際政治の話をしても伝わりません。
ただ、「考えなくていい」と伝えるか、「考えていい」と伝えるかは、子どものサッカーとの向き合い方にも影響するように思います。
例えば、こんな問いかけ方もありえます。
- 「もし、自分がその国の選手だったらどうすると思う?」
- 「サッカー選手が、サッカー以外のことで意見を言ってもいいと思う?」
- 「逆に、何も言わないこともひとつの選択だと思う?」
正解を教える時間ではなく、考える時間にしてみる。
そのプロセス自体が、「自分で選ぶ力」を育てるきっかけになるかもしれません。
答えを急がないことも、ひとつの「技術」
日本のサッカー現場では、「早く決めなさい」「はっきりさせなさい」という文化が強く働く場面が少なくありません。
戦術の話でも、進路の話でも、「どっちが正しいか」を早く知りたくなるものです。
しかし、2026年のボイコットをめぐる議論は、そもそも「すぐに正解が出ない」テーマです。
どの立場から見ても、完全に矛盾のない答えを見つけることは難しいでしょう。
だからこそ、「揺れたまま考え続ける」という態度が問われます。
これは、ピッチの中の判断にもつながっています。
例えば、カウンターの場面で、シュートに行くか、味方に預けるか、一瞬迷うとき。
どちらか一方が絶対に正しいとは言い切れない中で、その瞬間に自分なりの決断をする。
その決断がゴールにつながることもあれば、カウンターを食らって失点することもあります。
大事なのは、うまくいかなかったときに「だからあれは間違いだった」と単純化して終わらせないことかもしれません。
なぜ、その選択をしたのか。
他にどんな選択肢があったのか。
次に同じ状況が来たら、何を変えるか、何を変えないか。
ボイコットという大きなテーマも、本質的には同じ構造を持っています。
国、協会、指導者、選手、それぞれが「その瞬間の自分のベスト」を選ぼうとする。
そのプロセスを丁寧に見ていくことは、サッカーのプレーを深く理解することと、どこかでつながっているのかもしれません。
「楽しいから見る」の一歩先で、何を考えるか
観る側にも、静かな選択の積み重ねがある
2026年のワールドカップが、このままアメリカを中心に開催されたとして。
世界の多くの人は、おそらくテレビや配信で試合を楽しむでしょう。
その中には、「政治的なことはよく分からないけれど、サッカーは好き」という人がたくさん含まれます。
そこに、善し悪しはありません。
ただ、観る側にも、いくつかの選択肢があります。
- 単純に試合を楽しむ
- 同時に、その国や地域のニュースにも目を向けてみる
- 選手たちがどんな発言や行動をしているのかにも耳を澄ます
- 自分なりに違和感を覚えたら、身近な人とその気持ちを言葉にしてみる
「観るだけ」も、「考えながら観る」も、どちらもサッカーの楽しみ方です。
大切なのは、「自分はどんなふうに観たいのか」を、自分で選んでいる感覚かもしれません。
ボールひとつから始まる問い
最終的に、2026年のワールドカップがボイコットされるのか、されないのか。
どんな形で行われ、どんな議論が世界中で起こるのか。
今の時点で、はっきりした答えを出すことはできません。
ただ、その過程で浮かび上がってくる問いは、サッカーをしている人にも、観ている人にも、静かに届いていきます。
- サッカー選手は、サッカーだけ考えていればいいのか
- ピッチの外の出来事に、どこまで関わるべきなのか
- 正解のないテーマと、どう向き合えばいいのか
自分なら、どう考えるのか。
自分なら、どんな選択をするのか。
その問いを急いで片付けず、しばらく心の中に置いておくこと。
もしかしたら、その「置いておく時間」こそが、サッカーを通じて育まれる、いちばん静かで、いちばん確かな力なのかもしれません。
笛が鳴っても、ボールはまたセンターサークルに戻ってきます。
試合が終わっても、考えることは、終わらなくていいのだと思います。
