レアル・マドリーの「チュアメニ不在」から学ぶ:監督・指導者が“代わりのいない選手”に頼らないチームをつくるための思考と起用のデザイン
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「代わりのいない選手」がいないチームをつくるには

ひとりの不在から始まる、たくさんの問い
ミュンヘンでの大一番を前に、ひとりの選手の不在が、クラブ全体の思考を揺さぶっている。
オーレリアン・チュアメニ。
レアル・マドリーの中盤で「アンカー」としてバランスを支えてきた彼は、バイエルン戦を出場停止で欠場する。
「代わり」がいない。
そう表現されるタイプの選手だ。
ボールを奪う位置、味方との距離、ラインの高さ。
それらを一手に調整しながら、攻守両面で味方を安心させてきた。
では、その選手がいないとき、チームはどうするのか。
アシスタントではなく、監督として決断を迫られているアルバロ・アルベロアは、リーグ戦のジローナ戦でひとつの「実験」を選んだ。
カマヴィンガとベリンガムを中盤のセンターに据え、4-4-2の形を維持しながら、新しいアンカー像を探ろうとした。
その結果、試合はうまくいかなかった。
勝点という意味でも、内容という意味でも、「代償」を払う形になった。
けれど、その代償の中に、ひとつの問いが浮かび上がってくる。
大事な試合を前に、どこまで「実験」していいのか。
| 観点 | 既存の形を維持する | システムを大きく変える | 現実的なリスクと効き目 |
|---|---|---|---|
| アンカー起用 | カマヴィンガを6番で試す | バルベルデを中央に戻す | ○ 柔軟化/右の安定と中央の穴を秤にかける |
| 守備タスク | 『動かないこと』を要求 | ダイナミックに奪いに行く | △ 変化/動く本能を抑える設計が必要 |
| ビルドアップ | アンカーを出口にする | CBがビルドアップを多めに担う | ○ 役割を分解できる |
| 右サイド | バルベルデを右に残す | 右を他選手に任せる | ◎ 継承/トレントの背後カバーが維持 |
| 実験の時期 | ジローナ戦で先に試す | ぶっつけ本番でミュンヘン | △ 代償を払う/前者を選んだ |
カマヴィンガに託された「見えない仕事」
アルベロアは試合後、カマヴィンガを6番(アンカー)で起用した理由を説明している。
これまでも何度かその位置でプレーしてきたこと。
そして、本人もそこが一番力を発揮できるポジションだと感じていること。
ただ一方で、彼がチュアメニとは違うタイプの選手であることも、はっきりと示された。
カマヴィンガは広いエリアを動き回れる、ダイナミックな選手だ。
ボールに向かっていく本能も強い。
しかしアンカーには、「動くこと」だけでなく「あえて動かないこと」も求められる。
どこに立ち続けるのか。
どのスペースを空けてはいけないのか。
味方センターバックが前に出たとき、どのタイミングで背後をカバーするのか。
アルベロアはその試合で、カマヴィンガに「自分がアンカーに何を求めているのか」を理解してほしかったと示している。
配置、立ち位置、ビルドアップへの関わり方、守備のときのポジション。
言葉にすればシンプルだが、試合の中で同時に処理する情報は膨大だ。
ジローナ戦では、その「見えない仕事」の細部が、結果として失点場面に表れてしまった。
マークに寄せきれない。
一歩、寄せるタイミングが遅れる。
そうした一瞬の遅れが、相手にシュートコースを開き、ゴールネットを揺らす。
カマヴィンガの能力が足りない、という話ではない。
違う役割を担ってきた選手が、別の役割に順応するには時間が要る、という当たり前の現実が、表面化しただけとも言える。
もし自分がカマヴィンガの立場だったら、どうだろう。
「自分はこのポジションでやりたい」「ここで一番力を出せる」と感じている。
しかし、監督の求めるアンカー像は、これまで自分が得意としてきた動き方とは少し違う。
動きたい本能を抑えて、あえて止まり続ける。
ボールを奪いに行きたい心を抑えて、スペースを消し続ける。
その葛藤の中で、90分間プレーし続けることになる。
ひとつの試合のミスだけを見るか。
それとも、「新しいポジションに挑戦している途中の揺れ」として見るか。
どちらの見方を選ぶかによって、次の一歩は変わってくる。
- 同型の代役ではなく役割を分解する — ビルドアップ出口・スペース管理・カバーを複数人で分け、1人に集中させない
- 実験する試合を前もって選ぶ — 大舞台の直前に新しい起用を試す痛みを覚悟のうえで、どの試合で試すかを事前設計する
- 『動かしたくない選手』を言語化する — 誰を動かさないかを明文化することで、ほかの選手にチャンスを回す判断がブレない
「ここは動かしたくない選手」をそのままにするか
チュアメニの穴を誰で埋めるか。
当然、他の名前も候補に挙がる。
右サイドで圧倒的な存在感を放っているフェデリコ・バルベルデ。
彼を中央に戻してアンカー気味に使う、という発想は、サッカーゲームであれば多くの人が思い付く選択かもしれない。
実際、バルベルデは中盤センターやインサイドハーフを務めてきた経験もあり、走力、守備範囲、球際の強さ、どれも高水準だ。
だが、アルベロアはこのカードを切ることに慎重になっている。
右サイドでのバルベルデは、攻撃でゴールやアシストに絡むだけでなく、右サイドバックのトレント・アレクサンダー=アーノルドの背後をカバーする役目も担っている。
その役割は、ミュンヘンで相対するリバプールのルイス・ディアス(設定上の相手として挙がっている)や、攻撃的なウイングに対して極めて重要になる。
「ここを動かしたくない」と感じるポジションにいる選手を、あえて動かしてまで中盤を補強すべきか。
それとも、右サイドの安定を優先して、別のやり方でアンカー不在を乗り切るのか。
日本のチームでも似たような状況は少なくない。
- 本来はボランチだけれど、サイドに置いたらチームが安定した選手
- ストライカーだが、トップ下に置くと周りが生きる選手
- センターバックだが、サイドバックで使うとビルドアップが楽になる選手
指導者はいつも、どこかの「ベストポジション」と、どこかの「チームにとって都合のいいポジション」の間で揺れ動く。
バルベルデを動かさないという判断は、「彼が右にいることで得られているもの」を高く評価しているとも受け止められる。
同時に「アンカーの穴は、別の誰かに任せざるを得ない」という、リスクを引き受ける選択でもある。
- 慣れない役割での揺れを評価する — カマヴィンガのように『動きたい本能を抑える』挑戦を、保護者はミスだけで判断しない
- 新しい景色をつくる — ボランチの子がCBへ、サイドハーフの子が中盤の底へ、と役割を変える時間を練習で設ける
- 『なぜ今ここにいるか』を言葉にする — 出番や起用に納得できないときこそ、自分の選択を言葉にしてみる習慣を持つ
名前はある、でも「現実的な選択肢」として見えてこない選手たち
チュアメニの代役候補として、他にもいくつかの名前がある。
アルダ・ギュレルやピタルチのような若い才能を組み合わせる案。
あるいは、左サイドで起用されているカンテラ出身の選手を中央に寄せる案。
しかし、それぞれに「経験の少なさ」「守備の強度」「攻撃的すぎるバランス」などの不安要素がつきまとう。
そしてもうひとり、名前があまり挙がらない存在がいる。
ダニ・セバージョス。
かつて高い期待を集めた彼は、今季はほとんど出場機会を得られておらず、最後にプレーしたのは2月のオサスナ戦だという。
ミュンヘンのスタメン候補として、現実的に名前が挙がりにくい状況にある。
「なぜ使わないのか」と外から言うのは簡単だ。
だが、日々のトレーニングやコンディション、チームの戦い方との相性など、外から見えない要素がいくつも重なって、今の立ち位置がある。
もし自分がセバージョスだったら、どう感じるだろう。
シーズンの大事な局面で、自分の名前が「候補」にすら挙がらない。
悔しさ、焦り、諦め、いろいろな感情が渦巻くはずだ。
ただ、その感情の先で、自分は何を選ぶのか。
トレーニングで見せ方を変えるのか。
自分の武器をもう一度整理するのか。
クラブを変えるという選択肢も浮かび上がるかもしれない。
選手としても、「自分はもう計算外だ」と決め付けてしまうのか。
それとも、「まだどこかでチャンスは来る」と信じて準備を続けるのか。
どの感情を選ぶかは、自分にしか決められない。
「代わりがいない」という前提を、どう疑うか

チュアメニのような選手について、「代わりがいない」と表現されることは多い。
ピッチのバランスを整える能力、守備時のポジショニング、ビルドアップの出口としての落ち着き。
こうした要素を兼ね備えたアンカーは、どのクラブでも希少だ。
しかし、「代わりがいない」と言った瞬間に、思考が止まってしまう危険もある。
本当に「同じタイプの選手」がいなければダメなのか。
あるいは、「別のタイプの選手」で役割を分担するという発想はあり得ないのか。
例えば、日本の育成年代でも「このボランチの代わりがいない」と感じることはよくある。
ゲームを落ち着かせられる。
危ないスペースを自然と消せる。
パスの出しどころをいつも用意してくれる。
そんな選手がいないとき、指導者はどう考えるだろうか。
- センターバックにビルドアップの責任を少し多めに担ってもらう
- サイドハーフの一人に、守備時は中に絞る役割を加える
- フォーメーション自体を変えて、アンカーの役割を二人で分ける
ひとりの「代わり」を探す代わりに、「役割をどう分解するか」を考えてみる。
その発想を持てるかどうかで、「代わりのいない選手」が生まれるかどうかも変わってくるのかもしれない。
レアル・マドリーの今回のケースでは、アルベロアはまず、カマヴィンガというひとりの選手に大きな役割を託し、同時にバルベルデを動かさないという選択をしているように見える。
それは、「システムを大きく変える」ことよりも、「既存の形をできるだけ維持したまま、アンカーに求める動きを教え込む」という方向に舵を切ったとも受け取れる。
誰かを代役として当てはめるのか。
それとも、チーム全体で役割を再配分するのか。
そこには唯一の正解はなく、監督それぞれのサッカー観が表れる。
「今うまくいかなくても」続けるか、それとも戻すか
ジローナ戦の「実験」は、リーグタイトル争いにとっては痛い結果を招いた。
だからといって、「この起用は失敗だった」と言い切ることはできるだろうか。
重要なのは、「結果が悪かったから選択が間違いだった」と短絡的に結論づけないことだ。
選手の新しい可能性を探るためには、ときにリスクを取らなければならない。
そのリスクを、どのタイミングで、どの試合で取るか。
アルベロアは、大舞台の直前にあえてそれを選んだ。
もしミュンヘンで同じようにカマヴィンガをアンカーで起用するのなら、ジローナ戦での経験は「痛みを伴う準備」の一部になる。
逆に、ミュンヘンでは別の選択をするのなら、ジローナ戦は「一度試した上で、違う道を選ぶための材料」になったとも言える。
どちらにしても、重要なのは「なぜそう選ぶのか」を自分なりに説明できることだ。
これは、選手にも当てはまる。
失敗したチャレンジを、どう扱うか。
「やっぱり自分には無理だ」と元のポジションに戻るのか。
「もう一回やってみたい」と、監督に話してみるのか。
「別のやり方ならできるかもしれない」と、映像を見直して自分で修正点を探すのか。
監督ほど大きな決定権はなくても、「自分はこの失敗をどう意味づけるか」という選択は、選手ひとりひとりに委ねられている。
日本の現場で「チュアメニの不在」をどう考えるか
少し視点を日本に移してみたい。
育成年代のチームで、「この子がいないと試合が成り立たない」という選手はいないだろうか。
ゲームを落ち着かせるボランチ。
常に点を取ってくれるフォワード。
後ろから声を出し続けるセンターバック。
大会の大事な試合で、その選手が怪我や累積警告で出られないことは、実際によく起こる。
そのとき、誰が何を選ぶのか。
- 監督は、どの試合でどこまで新しい起用を試すのか
- 選手たちは、「自分には無理」と決めずに、新しい役割に挑戦するかどうか
- 保護者は、我が子が新しいポジションでミスをしても、その挑戦をどう支えるか
「代わりがいない」という前提で嘆くのではなく、「今あるメンバーで、役割をどう分け合うか」を一度立ち止まって考えてみる。
その時間自体が、チームの成長につながっていく。
そして、選手自身にとっても、「自分にはこのポジションしかできない」という思い込みを揺さぶるきっかけになる。
ボランチだと思っていた選手が、センターバックで新しい景色を見るかもしれない。
サイドハーフだと思っていた選手が、中盤の底でゲームを読む楽しさに出会うかもしれない。
いまのレアル・マドリーのように、大事な試合を前に揺れながらも試行錯誤している姿は、「完成されたプロの世界」というより、「変化の途中にあるひとつのチーム」としても見ることができる。
答えは、ミュンヘンだけにあるわけではない
最終的に、アルベロアがミュンヘンでどんな中盤を送り出すのか。
カマヴィンガをアンカーに据えるのか。
バルベルデを中央に戻すのか。
まったく別の組み合わせを選ぶのか。
結果だけを見れば、「その選択が正しかったかどうか」は自然と議論されるだろう。
ただ、そのときにひとつだけ忘れたくないのは、「どの選択にも、見えない思考のプロセスがある」ということだ。
日々のトレーニングで見えたもの。
前の試合で得た手応えと不安。
相手の特徴。
選手自身の言葉や表情。
そうした断片の積み重ねの中から、ひとつのスタメンが生まれてくる。
もし自分が監督だったら、誰をアンカーに置くだろうか。
そして、なぜその選手を選ぶのか。
もし自分が選手だったら、どんなポジションのオプションを自分の中に用意しておきたいだろうか。
もし自分が保護者だったら、わが子が慣れないポジションで苦しむ姿を、どう受け止めるだろうか。
ミュンヘンでの90分は、世界最高峰のクラブの「答えのひとつ」になる。
けれど、その答えの前にあった無数の迷いや試行錯誤に思いを馳せてみると、自分自身のサッカーの見方も少し変わってくるかもしれない。
「代わりのいない選手」の不在は、誰かひとりを探すゲームではなく、チーム全体で「どうありたいか」を問い直すきっかけでもある。
今すぐに正解を見つける必要はない。
それぞれの立場で、「自分ならどう考えるか」を少し時間をかけて味わってみる。
その余白こそが、サッカーを少しだけ深くしてくれるのかもしれない。
