イタリア審判疑惑とインテル優遇論から学ぶ──判定が揺らぐ時代に、選手と指導者が「勝ち方」と公正さを選び直す理由
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イタリアの「笛」の揺らぎから、サッカーの選択を考える

ある週末、イタリアのスタジアムで起きた一つの判定が、国全体を揺らしている。
ウディネーゼ対パルマのリーグ戦。
一見すれば、ごく普通の一試合に見えるはずだった。
ところが、その試合で与えられた一つのPKが、「妥当だったのかどうか」を超えて、「そもそも、その判定は公正だったのか」という次元まで疑われている。
イタリアでは、セリエAとセリエBの審判を任命する立場にあるジャンルカ・ロッキが、スポーツ詐欺への関与の疑いで捜査の対象になっている。
複数の試合、特にインテルを有利にしたのではないかとされるいくつかのシーンが、検察によって細かく検証されている。
ビデオ判定が使われなかった場面、微妙な接触でPKになった場面。
判定の正誤を議論するフェーズを通り越し、「そもそも、何を基準に判断していたのか」という問いが、イタリアサッカー全体に向けられている。
「間違い」ではなく「なぜそう吹いたのか」
一人の審判に集まる光と影
ロッキは現役時代から、イタリアでも有名な審判の一人だった。
2014年には、そのジャッジが特定のクラブを有利にしていると、メディアから厳しい批判を浴びたこともある。
ただ、そのときも今も、「彼が本当に何を考えて笛を吹いていたのか」を外から完全に知ることはできない。
彼自身は、今回の疑惑が明らかになったあと、自ら職務から身を引き、司法手続きの結果を待つ姿勢を示している。
潔白を主張しているのかもしれないし、自らの判断を振り返る時間が必要だと感じているのかもしれない。
いずれにせよ、「一度立ち止まる」という行動を選んだのは事実だ。
こうしたニュースを目にするとき、私たちはすぐに「黒か白か」「有罪か無罪か」を決めたくなる。
けれど、サッカーのピッチの上では、もっとグレーな領域の判断が、何十回も繰り返されている。
例えば、ペナルティエリア内での接触。
- 手を使っているかどうか
- その力が「反則」と言えるほどだったか
- 相手が倒れたのは、その接触が原因と言えるのか
こうした要素を、審判は一瞬で整理し、自分の基準で「ファウルか、そうでないか」を決めている。
同じ場面を、別の審判が見たら、違う判定になっていたかもしれない。
だからこそ、本来であれば問われるべきなのは、「正解だったか」ではなく、「なぜそう判断したのか」だ。
| 観点 | 受動的な反応 | 能動的な選択 | 評価 |
|---|---|---|---|
| 誤審への態度 | 「審判が悪い」で終わる | 「自分は何を選べるか」を考える | ◎ 思考の癖が育つ |
| VARの介入 | テクノロジーが解決すると期待 | 最後は人の決断と理解する | ○ 限界を受け入れる |
| 不利な判定の場面 | 感情を爆発させる | 次のプレーに切り替える | △ コントロール力が鍵 |
| 有利な誤審の場面 | そのまま喜ぶ | 喜び方を少し考える | ◎ 信頼を積み上げる |
| 公正さの担い手 | システムや大人に預ける | 選手自身が小さな行動で守る | ◎ 自分ごとにする |
VARがあっても、最後は「人の決断」
インテル対ヴェローナの試合では、アレッサンドロ・バストーニとドゥダの接触が問題視された。
エルボー気味のコンタクトの直後にインテルがゴールを決めたが、そのプレーはファウルとして取られず、ビデオ判定も介入しなかった。
VARが導入されたはずの時代でも、「見ない」という選択が可能であることが、ここには表れている。
画面を巻き戻して、何度でも確認できるはずの時代に、「確認しない」という一つの決断が、試合の流れと、後からの大きな疑念を生むことになった。
VARは、間違いをゼロにする魔法ではない。
「見直すかどうか」を決めるのも人であり、「最終的にどう判断するか」を決めるのも人だ。
テクノロジーが入ってもなお、「何を基準に決断するか」という問いからは、誰も逃れられない。
イタリアが揺れるとき、選手は何を感じているのか
- 誤審後の言葉を準備する — 「あの判定も含めてどう勝ち切るか」を試合前から伝え、誤審を理由にしない文化をつくる
- 感情のコントロールをテーマ化する — 納得いかない判定にどう反応するかを練習で再現し、選手の自己制御力を育てる
- 公正さを行動で教える — 倒れた相手に手を差し伸べる、有利な誤審で過剰に喜ばないなど、小さな振る舞いを評価する
勝つために戦いながら、信頼も守らなければならない
今回の疑惑は、イタリアサッカー界全体にとって、過去の「カルチョポリ」を思い起こさせる規模だと言われている。
ユヴェントスがセリエBに降格した、あの一連の不正工作事件。
クラブも、審判も、選手も、誰もが「勝つこと」の意味を問い直さざるを得なくなった。
それから10数年が経ち、また別の形で、審判とクラブの関係が疑われている。
イタリア代表はワールドカップ出場を2大会連続で逃し、今季はヨーロッパの三つのクラブ大会すべてで準決勝に一つも残れなかった。
そんなタイミングで浮上した審判問題は、人々の失望をさらに深めている。
一方で、その渦中でプレーしている選手たちはどうだろうか。
ピッチに立つ選手にとって、試合の中での判定は、自分ではコントロールできない領域だ。
それでも、彼らは90分を戦わなければならない。
「この判定は本当に公正なのか」と心のどこかで引っかかりを抱えながらも、次のプレーの選択は止まってくれない。
ファウルだと思ったのに笛が鳴らない。
PKだと信じていたのに流される。
逆に、自分たちが得たPKが、「今のはラッキーだったな」と感じることもあるかもしれない。
そのたびに、選手は小さなジレンマと向き合っている。
- 納得いかない判定に、どこまで感情をぶつけるのか
- 不満を飲み込み、次のプレーに切り替えるのか
- 判定に頼らない戦い方をどう選ぶのか
「審判が悪い」と口にするのは簡単だ。
しかし、それを言った先で、自分は何を選ぶのか。
そこに、プレーヤーとしての「考える力」が問われている。
- 納得いかない判定の後こそ次のプレーに集中する — 流れた笛を引きずらず、自分が変えられる部分に意識を戻す
- 有利な誤審に気付いたら一呼吸置く — その喜び方が、相手やチームの信頼につながる
- 家庭での観戦時に「審判が悪い」で終わらせない — 「自分ならどう選ぶか」を子どもと一緒に話し、思考の余白を残す
もし自分がイタリアのユース選手だったら
今、イタリアの下部組織で育っている10代の選手たちは、このニュースをどんな気持ちで見ているのだろうか。
「大人は何をやっているんだ」と呆れているかもしれないし、「またサッカーが汚れてしまった」と悲しんでいるかもしれない。
あるいは、「自分には関係ない」と距離を置いているかもしれない。
それぞれの反応は、きっと間違いではない。
ただ、もし自分がその立場だったとしたら、こんな問いが浮かぶかもしれない。
- 自分は、どんな状況になっても、試合の中で何を大事にしたいのか
- 不透明なことがあっても、自分が変えられる部分はどこなのか
- 判定に左右される試合の中で、自分の軸をどう保つのか
勝つためにプレーするのは、当たり前だ。
だが、「勝ち方」を選ぶのも、また選手自身である。
この事件は、そのことを強く突きつけているようにも見える。
日本のサッカーは、このニュースをどう受け止めるか
「審判を責める文化」とどう向き合うか
日本でも、審判の判定が議論になることは多い。
Jリーグの試合でも、代表戦でも、「あれはPKだろう」「退場は厳しすぎる」といった声が、SNS上にあふれる。
ただ、イタリアのように、システムとしての不正疑惑が大きく報じられるケースは、今のところ多くない。
それでも、審判への不満や不信感が積み重なれば、「どうせジャッジは当てにならない」という空気が、少しずつ広がってしまう危険はある。
そうなると、選手も観客も、「自分のプレー」ではなく、「誰かのせい」に意識が向きやすくなる。
ここで問われるのは、「審判を信じるべきだ」という道徳の話ではない。
むしろ、「判定をどう受け取り、その先に何を選ぶか」という、一人ひとりの態度の話だ。
例えば、日本の育成年代の試合を思い浮かべてみる。
誤審に近い判定が出たとして、そのときにチームとして、指導者として、どんな言葉を選ぶのか。
- 「審判がひどかった」で終わらせるのか
- 「あの判定も含めて、どう勝ち切るかを考えよう」と伝えるのか
- 「納得いかないとき、感情をどうコントロールするか」をテーマにするのか
どの言葉を選ぶかによって、選手たちが育てていく「思考の癖」は変わっていく。
イタリアの騒動は、遠い国の出来事に見えながら、日本のグラウンドにも静かに問いを投げかけている。
「公正さ」を他人任せにしないために
イタリアのスポーツ相が、「もし責任が明らかになれば、しかるべき結果を受けてもらう」といった趣旨の強い言葉を発している。
国家レベルで「何が公正か」を問い直さざるを得ない状況だ。
では、日本ではどうだろうか。
もちろん、日本にも制度としてのチェックはあり、審判の評価や教育も行われている。
しかし、「公正さ」を守る責任を、すべてシステムや大人に預けてしまうと、プレーする側の「考える機会」は減ってしまう。
選手自身が、公正さを守るためにできることは、本当に何もないのだろうか。
- 相手が倒れたとき、わざとではない接触でも、すぐに手を差し伸べること
- 自分に有利な誤審があったとき、喜び方を少しだけ考えること
- 仲間が判定に過度に怒っているとき、声をかけて落ち着かせること
これらは、直接スコアを変える行動ではない。
けれど、そうした小さな選択の積み重ねが、「このチームは信頼できる」という空気をつくっていく。
公正さを、ただ「与えられるもの」として待つのか。
それとも、「自分たちでつくるもの」として関わっていくのか。
イタリアのニュースをきっかけに、日本のサッカーもその問いに向き合えるのかもしれない。
答えのないピッチで、何を選び続けるか
「疑惑の判定」のあとに残るもの

ウディネーゼ対パルマのPKも、インテル対ヴェローナのエルボーも、最終的に「正しかったかどうか」は、司法が何らかの結論を出すかもしれない。
しかし、ピッチの上では、すでに時間が進んでいる。
ゴールは記録に残り、勝ち点は表に刻まれ、選手の感情はどこかに蓄積される。
私たちがそこから受け取れるのは、もしかすると、「誰が悪いか」という答えではない。
むしろ、「曖昧で、不完全で、不公平に見える状況の中で、自分なら何を選ぶか」という問いそのものかもしれない。
審判が迷うように、選手も迷う。
クラブも迷う。
国全体が迷うこともある。
その迷いの中で、
- どの場面で立ち止まり
- どの場面で決断し
- どの場面で受け入れるか
その積み重ねが、一人のプレーヤーや一つのチームの「スタイル」になっていく。
「正しさ」が揺らぐときにこそ、考え続けられるか
イタリアの審判問題は、サッカーの「正しさ」が揺らいで見える出来事だ。
ただ、その揺らぎの中にこそ、サッカーに関わる一人ひとりが、自分なりの答えを探す余地がある。
判定に納得がいかないとき、ただ怒るだけで終わるのか。
それとも、「なぜそうなったのか」「自分は何を選べるのか」と、一呼吸おいて考えてみるのか。
どちらを選ぶかは、いつも自分に委ねられている。
答えがすぐには見つからないときこそ、ピッチに立ち続ける選手たちの思考は深まっていくのかもしれない。
そして、その迷いの時間を急いで埋めようとせずに、少しだけ長く味わってみることが、サッカーを続けるうえでの静かな強さにつながっていくのではないだろうか。