ウェストハム会長辞任と告発報道が問いかける——サッカークラブの「文化」は、誰がつくり、誰が守るのか
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クラブの顔は、誰が決めるのか

サッカークラブには、ピッチの外にも「顔」がある。
監督の采配でも、エースストライカーのゴールでもなく、クラブを所有し、経営し、その方向性を握る人間の存在が、時にクラブそのものの輪郭を形づくる。
ウェストハム・ユナイテッドのオーナーのひとりであったデイヴィッド・サリヴァンが、共同会長の座を辞した。
複数の女性による深刻な告発が報道される数時間前の辞任だった。
その報道の中身は、1980年代にさかのぼる複数の証言によって構成されており、グラマーモデルを目指していた若い女性たちへの性的搾取と権力の乱用が指摘されている。
サリヴァン本人はすべての申し立てを「カテゴリカルに否定する」と述べ、報道を不公正だと主張している。
今ここで、その事実関係の白黒を問いたいわけではない。
ただ、このニュースを受けて、ひとつの問いが静かに浮かんでくる。
クラブの「姿勢」というものは、いったい誰によって担保されるのだろうか、と。
アクレディテーションという名の約束
ウェストハムは昨年、男性による女性への暴力根絶を支援する慈善団体「ホワイトリボンUK」から、プレミアリーグで初めてアクレディテーションを受けたクラブとなった。
これはたんなる称号ではなく、3年間にわたる行動計画を実行することへのコミットメントを意味するものだという。
当時のバロネス・カレン・ブレイディ副会長は、「有害な行動を見逃さない文化をつくることに取り組む」と宣言していた。
その言葉は、クラブの意志として語られた。
だが、その言葉を語った人間も、今シーズン終盤に副会長職を退いている。
クラブはいま、プレミアリーグからの降格も決まったばかりだ。
クラブが掲げた価値観は、嘘だったのか。
そう問うのは、おそらく正確ではない。
けれど、その言葉がどれほどの重みを持っていたのかは、問われていい。
「文化をつくる」という言葉は、誰かが宣言すれば生まれるものではない。
それは、毎日の積み重ねと、見えにくい選択の連続によってしか、育たない。
見えない権力の構造
今回の報道で証言した女性たちの多くは、1980年代から1990年代にかけて、グラマーモデルとしてのキャリアを夢見ていた10代後半から20代前半の若者だった。
彼女たちが置かれていた状況を想像してみると、そこには明確な権力の非対称性がある。
一方には、出版事業を握り、雑誌の掲載枠を左右できる大物実業家がいた。
もう一方には、夢を持って上京し、業界の扉をたたいた若い女性たちがいた。
キャリアの入口に立つ人間と、その扉の鍵を持つ人間。
この構造は、サッカーの世界にも、まったく無縁ではない。
スカウト、監督、クラブオーナー、代理人。
若い選手のキャリアに影響を与える立場の人間は、スポーツの世界にも無数に存在する。
その権力が正しく使われているかどうかは、表からは見えにくい。
見えにくいからこそ、構造そのものを問い続けることが必要なのかもしれない。
クラブを「守る」とはどういうことか
サリヴァンは2010年からウェストハムの最大単独株主であり、それ以前にはバーミンガム・シティを15年以上にわたって共同所有していた。
FAはここ数年で彼に関するセーフガーディング調査を開始しており、イングランドの新しいサッカー規制機関もオーナーの誠実さや廉潔性に懸念がある場合には調査権限を持つとされている。
組織としてのクラブは、声明を出した。
「明確で強固なセーフガーディング措置が整っている」と。
その言葉は、おそらく嘘ではないのだろう。
しかし、クラブを守るとはどういうことか、という問いに対する答えは、声明の中にはなかった。
クラブを守る、というのは、クラブの評判を守ることではないはずだ。
クラブに関わるすべての人間が、安心していられる空間を守ることではないのか。
選手、スタッフ、サポーター、そしてクラブの名前と関わるすべての存在が。
もしそうだとするなら、守るべき対象は、組織の外側にも広がっている。
| 要素 | クラブの宣言・行動 | 今回の出来事との関係 | 評価 |
|---|---|---|---|
| 価値宣言 | ホワイトリボンUKアクレディテーション取得 | 告発報道と前後してオーナー辞任 | △ 問われた |
| 責任者の継続性 | 副会長が「有害な行動を見逃さない」と宣言 | 今シーズン終盤に副会長職を退任 | △ 継続困難 |
| 制度的対応 | 「明確で強固なセーフガーディング措置」声明 | FAおよび新規制機関による調査開始 | ○ 手続き進行 |
| 権力構造の問題 | スカウト・監督・オーナー等の影響力 | キャリア入口の若者との非対称性を内包 | △ 構造的課題 |
| 声を上げる環境 | 「文化をつくる」という組織目標 | 沈黙を選ばせるコストが高い状況の存在 | △ 根本に課題 |
日本のサッカー界に引き寄せて考えるなら
日本においても、スポーツとパワーハラスメント、あるいは性的な権力の乱用に関する問題は、繰り返し表面化してきた。
「指導」という名のもとに見えにくくなる強制。
「選んでもらう立場」という非対称性が生み出す沈黙。
今回の報道はイギリスの事例だが、構造そのものは、場所を問わず似通った形をしていることがある。
若い人間が夢を持って扉をたたくとき、その扉の先にある「条件」が何であるかを、彼らは事前に知ることができない。
だからこそ、扉を開く側の人間に、何が求められるのかを問い続けることが重要だ。
それは規則ではなく、文化の話だ。
文化は、誰かが旗を立てたときに生まれるのではなく、誰もが小さな選択をするたびに、少しずつ形をつくっていく。
サッカークラブが問われていること
ウェストハムという名前は、ロンドン東部の労働者階級の街から生まれたクラブとして、長い歴史を持つ。
ゲオフ・ハースト、マーティン・ピーターズ、ボビー・ムーア。
1966年のワールドカップでイングランド代表の軸を担った選手たちを輩出したクラブとして、その名は世界に知られている。
そのクラブが今、ピッチの外の問題によって揺れている。
降格という結果と、オーナーの辞任と、告発報道という、三重の困難の中に置かれている。
この状況をどう読むか。
単なるスキャンダルとして消費することも、できるだろう。
だが、もう少し立ち止まって考えるとするなら、ここにはクラブという「組織」が持つ責任の輪郭が、はっきりと浮かび上がっている。
クラブは、ピッチの上だけで評価されるべき存在ではない。
誰が関わり、どんな文化を持ち、その内部でどんな人間関係が育まれているか。
それがクラブの本当の姿であり、ファンがクラブを愛するときに無意識に信頼しているものでもある。
- 権力の非対称性を自覚して関わる ── スカウト・監督・代理人など、若い選手のキャリアに影響を与える立場にある人間は、その影響力が正しく使われているかを常に自問する習慣を持つ
- 「文化をつくる」という言葉を行動で積み重ねる ── 宣言だけでは文化は生まれない。選手が意見を言える場面、不満を話せる関係性を日常的につくる具体的な行動を一つ決めて実践する
- 沈黙のコストを下げる仕組みを意識する ── 「声を上げることのコストが飲み込むコストを上回るとき、人は沈黙を選ぶ」。チーム内で声を上げやすい場の設計を、試合準備と同じ優先度で考える
- 「誰を守るか」でクラブの本質が見える ── サポーターがクラブを愛するとき、無意識に「そこに関わる人たちが安心していられる空間」を信頼している。成績だけでなく、クラブの姿勢を見る視点を持つ
- 声を出しにくいと感じたら、その感覚を大切にする ── チームへの不満や違和感を口にすると「やる気がない」と見なされる文化は、どんな組織でも起きうる。その感覚を無視せず、信頼できる大人に話せる環境を探す
- 「文化は小さな選択でできている」と知っておく ── 親として子どもが関わるクラブを選ぶとき、成績や指導者の実績だけでなく、そのクラブが「誰の声をどう聴くか」を観察する目を持つ
「誰の声を聴くか」という問い
今回、証言した女性たちの多くは、長年にわたって沈黙を守ってきた。
「信じてもらえないと思った」「怖かった」「誰に話せばいいかわからなかった」。
その言葉の重さは、サッカーとは直接関係がないように見えて、じつはとても近いところにある。
選手が監督に意見を言えない環境。
チームへの不満を口にすると「やる気がない」と見なされる文化。
声を上げることのコストが、声を飲み込むことのコストを上回るとき、人は沈黙を選ぶ。
それはどんな組織でも起きうることであり、サッカーの現場も例外ではない。
「誰の声を聴くか」という問いは、チームの戦術よりも先に問われるべき、組織の根本にある問いかもしれない。
クラブという器を、何で満たすか

サリヴァンは辞任声明の中で、報道を「事実に反する」として訴訟も辞さない構えを示した。
今後、法的な手続きがどう進むかは、わからない。
だが、いま問われているのは、法廷での真偽だけではない。
クラブという器を、何で満たすか。
成績か、資金力か、ブランドイメージか。
あるいは、そこに関わるすべての人間が誇りを持って語れるような、静かで確かな何かか。
答えは、ひとつではないだろう。
けれど、答えを急ぐよりも、この問いをクラブが本気で抱えているかどうかが、長い目で見たときの違いをつくる気がする。
サッカークラブとは、試合の結果だけでできているのではない。
それは、そこに関わるすべての人間の選択と、その選択が積み重なってできた文化の、集合体なのだから。
その器が何で満たされているかを、問い続ける目を持つことが、サポーターにも、関係者にも、そしてこの競技を愛するすべての人間に、静かに求められているのかもしれない。
ひとつのクラブが選手を育てる10年を、外側ではなく内側から見ていた時期があった。そのなかで感じたのは、「文化」という言葉が軽く使われるとき、それは旗を立てた瞬間だけを指していることが多いということだった。実際に根づいていく文化は、誰かが声を上げやすかったかどうか、その声を誰かが拾ったかどうか、という小さな積み重ねの中にあると、長く見ていると分かってくる。
もちろん、皆さんが関わってきたクラブや組織がそうだったとは限らない。ただ少しだけ思い浮かべてみてほしい。自分がそのクラブや場にいたとき、声を出せていただろうか。あるいは、誰かの声を受け取れていただろうか。