センターバックがいない夜に問われるもの──ドルトムントの危機が映す「考えるサッカー」の価値
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センターバックがいない夜に、何を選ぶか

チャンピオンズリーグのプレーオフ、アタランタとのホームゲームを前にしたボルシア・ドルトムント。 スタジアムの照明がまだ本気を出す前の時間、記者会見のマイクの前で、ニコ・コバチ監督は静かにひとつの現実を告げていた。
ニクラス・ズーレも、ニコ・シュロッターベックも出られない。 さらにエムレ・ジャンもフィリッポ・マネも負傷中。 本職のセンターバックが、ほとんどいなくなってしまった。
相手は、攻撃的で、圧力をかけ続けてくるアタランタ。 決して「調整試合」ではなく、シーズンの流れを左右するかもしれないプレーオフ。 そんな試合で、守備の要がごっそり不在になる。
この状況を前にして、監督はひと言こう示している。 「監督の仕事は、いつも創造的であり続けて、解決策を見つけることだ。」
この一文の中には、「戦術」より先に、「考え続ける姿勢」がにじんでいるように感じる。 センターバックがいない夜、いったい何を選び、何を手放すのか。 そこには、選手や指導者、クラブの思考が、いつも以上に強く問われている。
経験を信じるか、若さに賭けるか
18歳レッジャーニという選択肢
ドルトムントは、すでにブンデスリーガのマインツ戦の後半で、ひとつの答えを試している。 Bリストから登録された18歳のイタリア人センターバック、ルカ・レッジャーニを送り出したことだ。
金曜の夜、彼は初めて、あの南スタンドの前に立った。 黄色と黒の海、耳をふさぎたくなるほどの声量。 そこに18歳を立たせる。 それは、クラブとしても、監督としても、小さくない決断だ。
「起用するかどうか」だけなら、選択肢は他にもあったはずだ。
- サイドバックの選手をセンターバックに回す
- ボランチを最終ラインに落とす
- システム自体を変えて、3バックや5バックにして守備人数を増やす
- 相手に合わせて、よりロングボールに強い選手を選ぶ
それでもコバチは、レッジャーニをピッチに送り出した。 そこには、単に「若手を使った」という表面的な話以上のものがある。
18歳の選手を重要な試合で起用する時、監督は何を天秤にかけているのだろうか。 「将来性」だけではない。 今、この瞬間のチームの安定。 ベテランたちの信頼感。 そして、クラブ全体としての「若手へのメッセージ」。
もしあなたが指導者なら、どこまでリスクを取って若手を使うだろうか。 もしあなたが同い年の選手なら、そのチャンスをどう受け止めるだろうか。
| 対応策 | メリット | リスク | 評価 |
|---|---|---|---|
| サイドバックをCBに転用 | ポジション理解が近く即時対応しやすい | サイドの攻撃力が落ちる | ○ |
| ボランチを最終ラインに落とす | 中盤の選手でビルドアップ継続できる | 中盤の守備カバーが薄くなる | ○ |
| 3バック・5バックに変更 | 守備人数を物理的に増やせる | 攻撃の形を大きく変える必要がある | △ |
| 18歳若手をCBに起用 | 将来への投資・チームへのメッセージになる | 経験不足による連携ミスのリスク | △ |
| 中盤プレスを強化してラインを守る | 相手をライン前で止めれば不安定なCBを守れる | 強度維持のスタミナ消耗が大きい | ◎ |
「リスクをとらない」というリスク
コバチは、シュロッターベックについて、「リスクは取りたくない」と判断した。 筋肉の問題を抱えたセンターバックを、無理に使わないという選択だ。
表面的には、安全で当たり前のように見える決断。 しかし、目の前の試合の重要度を考えれば、「ギリギリまで引っ張って使う」という選択も、現実には存在していたはずだ。
サッカーでは、しばしば「リスクを取るか取らないか」という話になる。 だが、このケースにはもう一段深い問いが隠れている。
- 今、この試合に勝つためのリスク
- 選手の長期的なキャリアを守るためのリスク
- チーム全体の信頼関係を壊さないためのリスク
無理をさせれば、もしかしたらこの1試合は乗り切れるかもしれない。 しかし、選手自身は本当にそれを望んでいるのか。 チームメイトはどう感じるのか。 クラブはどこに線を引くのか。
「出たい」と思う選手の気持ちと、「出さない」と判断する側の責任。 この板挟みの中で、それでも「無理はさせない」と決める。 この瞬間に必要なのは、サッカーの知識よりも、「何を一番大事にするか」という価値観だ。
守備が足りないとき、サッカーはどう変わるか
- 「本職不在」のシーンを練習に設ける — センターバックが2人不在という設定でゲーム形式を行い、選手が自分の頭で「どう守るか」を提案する時間を作る。
- 若手起用の意図をチーム全体に言語化して伝える — 「なぜこの選手をここで使うのか」を公にすることで、周りの選手が若手を支えるための考える守備が生まれる。
- 「迷ってよい」環境を作る — 型を正確に再現することだけを評価するのをやめ、「なぜそう判断したか」を試合後に問い、説明できた選択は正否を問わず認める。
「誰を出すか」より、「どう守るか」
負傷者が相次いだことで、ドルトムントの守備陣は明らかな「人手不足」になった。 それでもコバチは、守備の構成については会見の場で明言しなかった。
「いくつかの可能性がある」 そう言って具体的な並びを濁した背景には、単なる情報戦以上のものがあるように思える。
センターバックがいないとき、サッカーの守り方は、シンプルに「足りないところを埋める」だけでは済まない。
- 最終ラインを低くして、背後のスペースを減らすか
- 中盤から前で守備の強度を上げて、そもそもラインまでボールを運ばせないか
- ボール保持の時間を伸ばし、「守る時間」そのものを減らすか
一人のセンターバックが欠けたことで、チーム全体の守備の考え方まで変わる。 そして、その新しいやり方に、18歳のレッジャーニも、周りの選手も、瞬時に適応していかなければならない。
あなたがもしピッチの中にいるとして、今日の試合開始の笛を聞いた瞬間に、こう自分に問いかけられるだろうか。 「今日は、いつもの守り方とは違う。自分はどこを優先して守るべきか。」
- プレーの成否ではなく「判断の理由」に注目して観る — 「なぜここで前から行かなかったのか」「なぜ若手がCBに入ったのか」を想像しながら観戦することで、戦術理解が深まる。
- ケガで出られない時間を「見えない思考」に使う — スタンドから仲間のプレーを観て「自分が戻ったときに何を変えたいか」「どう周りと関わるか」を具体的にイメージする習慣をつける。
- 「自分ならどうするか」を一問だけ持ち帰る — 試合後にひとつだけ「自分が同じ状況ならどう動くか」を親子で話す時間を作ると、考える力が自然に育つ。
若いセンターバックに、周りは何ができるか
最終ラインに18歳が入る。 この時、注目されがちなのは若い選手本人のプレーだが、実はそれ以上に重要なのは「周りの選手の思考」かもしれない。
例えば、中盤のボランチは何を考えてポジションを取るか。 サイドバックは、攻撃でどこまで高い位置を取って良いのか。 前線の選手は、どのタイミングで守備のスイッチを入れるべきか。
一人の経験不足を、他の十人でどう支えるか。 それは、単に「頑張ってカバーする」という根性論ではなく、11人全員の「考える守備」が要求される状況だ。
日本の育成年代でも、似たシーンは少なくない。 大事な大会で、ケガ人が出て、本来のポジションではない選手が最終ラインを任される。 そのとき、周りの選手たちはどれだけ「一緒に守る工夫」を考えられているだろうか。
試合後に、「あいつ、やっぱりまだ不安定だよな」と誰かの責任を口にする前に、 「自分はあの瞬間、何を選べたか」を振り返ることはできるだろうか。
「創造的である」ということは、迷い続けることかもしれない
正解のない中で選び続ける監督
コバチは、「監督の仕事は創造的であること」と口にした。 それは、「奇抜な戦術を使う」という意味だけではないはずだ。
むしろ、こうした負傷者続出のような場面でこそ、「創造性」は静かに試される。
- 若手を起用するか、ベテランをポジション変更して使うか
- システムを変えるか、選手の役割を変えるか
- リスクを受け入れて攻めるか、堅実に守るか
どの選択にも、「これは絶対に正解」という保証はない。 だからこそ、監督は迷う。 それでも、試合前にはひとつのプランに決めなければならない。
創造的であるというのは、答えがない中で、自分の信じるものをいったん選び取ること。 そして、うまくいかなかったときに、その選択をただ後悔するのではなく、「なぜそう考えたのか」をもう一度見つめ直すことでもある。
これは指導者だけに限らない。 選手も同じだ。 ピッチの中で、0.数秒の間に、自分の動き方、パスコース、寄せるタイミングを決めている。 そこにも、たくさんの「小さな創造性」がある。
日本の現場では、迷う時間がどれくらい許されているか
日本のサッカーの現場を振り返ると、「迷うこと」自体があまり歓迎されない空気を、時々感じる。 トレーニングでは、あらかじめ答えが決まっている形を繰り返し練習し、それをどれだけ正確に再現できるかが評価される場面も多い。
もちろん、型を身につけることには大きな意味がある。 しかし、予想外のケガ、予想外の相手、予想外の展開が起こった時、その「型」だけでは対応しきれない場面が必ず来る。
そのときに問われるのは、 「この状況で、自分なら何を選ぶか?」 と、立ち止まって考えた経験があるかどうかだ。
例えば、日本の中高生のチームでも、こんな場面があるかもしれない。
- センターバック2人が同時にケガをしてしまう
- 本職の選手がいない中で、急きょ誰かが最終ラインに入る
- 大事な大会の決勝トーナメントで、メンバーを組み替えないといけない
監督だけでなく、選手たち自身が、 「今日はこういう守り方にしよう」 「この選手を生かすために、自分はこう動こう」 と、自分の頭で考えて提案できるチームであれば、想定外の事態にも強くなっていく。
「出られない」という時間に何を積み重ねるか

負傷した選手の「見えない選択」
ズーレは太ももの負傷、シュロッターベックは筋肉の問題。 本人たちはどう感じているだろうか。
スタジアムに立てない夜、試合をテレビやスタンドから見ながら、「出たい」という思いと、「無理はできない」という現実の間で、何度も心が揺れるはずだ。
その時間を、単なる「我慢の時間」としてやり過ごすのか。 それとも、「次に戻ったときに何を変えたいか」を静かに考える時間にするのか。
ピッチに立っている選手以上に、出られない選手の思考は、外からは見えにくい。 だからこそ、想像してみたい。
- 仲間の18歳がセンターバックで戦っている姿を、どう受け止めるのか
- 自分が戻ってきたとき、その若い選手とどう関わっていきたいのか
- 自分のポジションを「守る」のではなく、チーム全体をどう強くするか
負傷は、誰にとっても望まない出来事だ。 それでも、その中で何を選び取るかは、やはり自分次第になる。
問いを残したまま、キックオフを待つ
「もし自分だったら」を持ち帰る
センターバックが4人も不在という状況で、ドルトムントはアタランタとの大一番に向かう。 そのピッチの上で交差するのは、監督の選択、若い選手の覚悟、負傷者の葛藤、ベテランの支え、多くの「見えない思考」だ。
観客席から、テレビから、その試合を眺める側にも、できることがある。 ただプレーの成否だけを追うのではなく、少しだけ視点をずらしてみることだ。
- なぜ、ここでこの選手を起用したのか
- なぜ、この選手は今のプレーを選んだのか
- 自分なら、同じ状況で何を選んだだろうか
その問いかけを、自分のチーム、自分のトレーニング、自分の試合に持ち帰ったとき、 「考えるサッカー」は少しずつ形になっていくのかもしれない。
センターバックがいない夜に、ドルトムントはどんなサッカーを選ぶのか。 その答えは、試合が終わっても、ひとつには絞りきれないだろう。
けれど、その迷い続けるプロセスにこそ、サッカーがサッカーである理由が、静かに息づいているように思う。 正解を急がずに、その過程を見届ける視線を、私たちも持てるかどうかが、問われているのかもしれない。
