うまくいかない試合ほど「どこで勝つか」を選び直す力──アーセナル対チェルシーが教えるセットプレーと現実主義
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「うまくいっていない時ほど、“考えるコーナーキック”になる」アーセナル対チェルシーから見えるもの

主導権を握れないままのホームチームが、なぜセットプレーに賭けたのか
ロンドンの夜、エミレーツ・スタジアム。 アーセナルはチェルシーを迎えた二週連続のロンドンダービーで、また勝点3を手にした。 スコアは2−1。 3点すべてがコーナーキックから生まれた、少し独特な試合だった。
21分、ウィリアム・サリバが先制ヘッド。 前半アディショナルタイムには、リース・ジェームズの鋭いボールをピエロ・ヒンカピエが自陣で触ってしまい、オウンゴールで同点。 66分、ユリエン・ティンバーが再びコーナーキックから決めて、アーセナルが勝ち越す。
数字を見れば、ポゼッションはアーセナル44%、チェルシー56%。 シュート数はアーセナル12本(枠内4)、チェルシー8本(枠内2)。 期待値ゴールは1.46対1.01。 どちらかが一方的に押し込んだ試合ではなく、むしろボールを持たれた側が勝ち切った形だった。
この試合後、ミケル・アルテタは「10人相手なのに、思ったように主導権を握れていなかった」と振り返っている。 「ここ数週間、コーナーキックから点を取れていなかった。今日はそこにチャンスがあると感じていた」とも示した。
一方で、チェルシーを率いるリアム・ロゼニアーは、2失点ともコーナーからだったことに強い悔しさをにじませた。 「1週間かけてセットプレーに取り組んだ分、余計につらい」としながら、「これを修正しない限り、どれだけ流れの中で良いプレーをしても、目標には届かない」と語っている。
90分のドラマの裏側で、両監督は何を考え、どんな選択をしていたのか。 そしてそこから、日本の選手や指導者、保護者は何を感じられるだろうか。
| 観点 | 流れの中の崩し | セットプレー得点 | 評価 |
|---|---|---|---|
| 得点の性質 | 組み立て・連携から生まれる | コーナー・FKなど固定場面から生まれる | ◎ どちらも1点は1点 |
| 主導権との関係 | ボールを握っているほど機会が増える | 主導権を握れない試合でも機会をつくれる | ◎ 苦しい試合での武器になる |
| 準備のしやすさ | 相手の守備ブロックに応じた即興判断が必要 | 事前に動き・タイミングを設計できる | ○ 反復練習で再現性が高まる |
| 育成現場での評価 | 「きれいな崩し」として評価されやすい | 「セットプレー頼み」と消極的に見られることがある | △ 価値の再認識が必要 |
| 失敗時の学び方 | 流れの中なので原因が複雑 | 動きの設計を映像で確認・修正しやすい | ○ 改善のサイクルを回しやすい |
ポゼッションで押される側が、「どこで勝つか」を決めるということ
この試合を振り返ると、印象的なのはアーセナルが「ボールを持てていないのに勝っている」という事実だ。 チェルシーはコール・パルマーを左に置きながら、中に絞らせて中央に人数をかけた。 そこにリース・ジェームズが内側から関わり、エンソ・フェルナンデスが降りてつなぐ。 ボールを握り、ペースもある程度コントロールしていたのは、むしろチェルシーだった。
それでも勝点3をつかんだのはアーセナルだ。 このギャップは、偶然だけで説明してしまっていいのだろうか。
アルテタは、試合前から「今日はセットプレーにチャンスがある」と見ていた。 ここ数週間、流れの中からは多くの得点を決めていたが、コーナーキックからは結果が出ていなかった。 だからこそ「今度はそこで決める番だ」と考え、準備していたという。
主導権を握れない時間が長くても、勝ち筋はどこかにある。 そのひとつを、アルテタは「コーナーキック」に見出した。 そして実際に、その読みが形になった。
もし自分が選手として、あるいは指導者として同じ状況に立たされたらどうだろうか。
- ボールを握れていない
- 相手の中盤の構造に後手を踏んでいる
- 試合展開としては苦しい
そんな中で「どこで勝つか」を、自分で決められるだろうか。 「いや、自分たちはボールを持って崩して点を取るスタイルだから」と、理想に固執してしまうかもしれない。 あるいは、「今日は苦しい日だ」と受け身のまま90分を終えることもできる。
アルテタが選んだのは、 「ボールを思うように持てないなら、セットプレーで仕留める」 という、条件の中での現実的な決断だった。
この切り替えは、単に戦術的な柔軟性というだけでなく、「今できることを選び直す力」とも言えるかもしれない。 日本の試合でも、ポゼッションを重視するチームほど、こうした「別の勝ち筋」をあえて選ぶことに迷いが出る場面があるのではないだろうか。
- 「今日の勝ち筋」を試合前に選手と共有する — 主導権を握れない日は何で勝負するかを、ウォームアップ前に言語化して伝える。セットプレーを「今日の武器」と位置づけることで、選手がコーナーキックひとつに込める集中力が変わる
- 失敗した守備練習を「無駄だった」と片付けない — 1週間準備したのに失点したとき、選手を責めるのではなく「どこでズレが生じたか」を映像とともに問い直す。積み上げた分だけ悔しいが、その感情が次の修正への動力になる
- 試合中の守備の形の変更を選手が自分ごとにできるよう事前に話す — 「監督の指示だから変える」ではなく、「なぜ今形を変えるのか」を選手自身が噛み砕けるよう、交代の判断基準やプランBの存在を普段の練習から共有しておく
綺麗に崩せなくても、ゴールは1点。そこをどう受け入れるか
アーセナルは、流れの中の攻撃では決して完璧ではなかった。 特に前半から中盤にかけて、高い位置での崩しには、どこか迷いが見えた。
左サイドでは、レアンドロ・トロサールが中に入ってボールを引き出し、デクラン・ライスが飛び出してマーカーを引きつけるパターンが繰り返された。 サイドバックのユリエン・ティンバーが外を回ってブカヨ・サカに繋ぐ形もあった。 それでも、エリア内に入ってくる人数は少なく、ヴィクトル・ギョケレシュが孤立する場面も多かった。
つまり、アーセナルが目指していた「流れの中での崩し」は、決して十分とは言えなかったということになる。 それでも、試合は勝てる。 コーナーキックから2点を奪い、最後は守護神ダビド・ラジャがアレハンドロ・ガルナチョのクロスシュートを止め、逃げ切った。
ここで生まれる問いは、少し意地悪かもしれない。 「内容がよくなくても、セットプレーで勝つことを、どこまで肯定できるか」 という問いだ。
たとえば育成年代の試合。 監督が「とにかくコーナーを取れ。そこから点を取ればいい」と割り切ることに、違和感を持つ人もいるだろう。 「ビルドアップして崩す経験を積ませたい」 「ボールを持つサッカーを教えたい」 そうした思いがあるからこそ、セットプレー頼みの得点に、どこか引っかかりを感じることもある。
一方で、この試合のアーセナルのように、 「うまくいっていない要素を無理に押し通さず、その日の現実を受け入れて、別の手段で勝ちにいく」 という選択もまた、ひとつのサッカーだ。
綺麗に崩して決めた1点も、コーナーから押し込んだ1点も、スコアボードでは同じ「1」。 その当たり前の事実を、どこまで素直に受け入れるか。 そこには、「理想」と「現実」の間で揺れる、選手や指導者の心の動きがある。
自分なら、どこでバランスを取るだろうか。 育成年代でセットプレーの練習に時間を割くこと、リーグ戦の大一番で割り切ってコーナーに賭けること。 それを「妥協」と見るのか、「現実を受け入れた選択」と見るのか。 立場や年齢によって、答えは変わっていきそうだ。
- コーナーキックも積み上げた1点 — きれいに崩して決めた得点も、セットプレーから押し込んだ得点も、スコアボードでは同じ「1」。うまくいかない試合でコーナーから決めたとき、チームの努力を「きれいじゃない」と切り捨てないようにしよう
- 押し込まれていてもできることを探す習慣をつける — ボールを持てない、崩せないと感じた試合でも、セットプレーでの競り合い・守備の粘り・カウンターの一瞬など、自分が力を出せる場面は必ずある。その「勝ち筋」を自分で見つける力が試合経験を豊かにする
- 結果に結びつかなかった努力を、子どもと一緒に受け止める — 練習して失点したとき「なんで点を取られたの」と問い詰めるより、「どこが難しかった?次どうする?」と問いかける側に回ることで、子どもが失敗から学ぶ力を育てられる
「1週間かけて準備したのにやられた側」の学び方
ロゼニアーの立場に立ってみると、また別の景色が見えてくる。 彼は、アーセナルとの試合に向けて、1週間かけてセットプレーの守備に取り組んだという。 それでも2失点。 しかも両方ともコーナーから。
日本でもよくある光景かもしれない。 守備のセットプレーを何度も繰り返し練習したのに、本番で同じ形から失点してしまう。 指導者として、何とも言えない無力感に襲われる瞬間だ。
このときに問われるのは、「誰のせいにするか」ではなく、「どう受け止めるか」なのだと思う。
- マークを外した選手を責めるのか
- 練習の量が足りなかったと考えるのか
- そもそもの守り方の前提を問い直すのか
ロゼニアーは「個々の規律と、現れ始めている問題を修正しないといけない」と語っている。 そこには、「やってきたことが無駄だった」と投げ捨てるのではなく、「積み上げてきた分だけ痛いが、それでもここから学ぶしかない」という感覚がにじむ。
努力が結果に結びつかなかったとき、人は「こんなにやったのに」と叫びたくなる。 選手も、指導者も、保護者も。 それでも、次の週末にはまた試合がやってくる。 そこで必要なのは、「うまくいかなかった事実を素直に見て、それでも続けていく心」なのかもしれない。
日本の現場で同じようなことが起きたとき、どう振る舞うだろうか。 失点した瞬間に、サイドから怒号が飛ぶのか。 試合後に、選手と一緒に映像を見て「どこでズレが出た?」と問いかけるのか。 あるいは、「1週間やったからこそ、ここまで守れた」とプラスの部分を探すのか。
正解はひとつではない。 ただ、「失敗の受け止め方」が、その先の1週間を大きく変えるのは確かだろう。
考え続ける守備。中央を消すか、サイドに追い込むか

この試合の中で、もうひとつ興味深いのは、アーセナルの守備の「変化」だ。 序盤、チェルシーは中央に優位を作り、パルマーとエンソ、ジェームズが内側でボールを繋いだ。 そこに対して、アーセナルはセンターバックの一人を前に押し出し、パルマーにマンツーマン気味につかせる選択をする。
ディフェンスラインから一人が前に飛び出すというのは、リスクのある判断だ。 それでもあえてそうしたのは、「このままでは中央からやられる」という危機感があったからだろう。 センターバックが前に出ることで、中盤の選手はチェルシーのダブルボランチにより積極的にプレッシャーをかけられるようになった。
さらに時間が経つと、アーセナルは前線のプレッシングの形も変えていく。 サカをギョケレシュの横に並べ、外から内へボールを追い込み、中央での前進を制限する。 後半には、「サイドにボールを誘導して、そこから逃がさない」という形に再び修正した。
ここにあるのは、「一度決めた守り方に固執しない」という姿勢だ。 試合前に用意したプランはある。 だが、相手のやり方を見て、ピッチ上の選手たちの感覚を見て、「これでは足りない」と感じたとき、形を変える。 その柔軟さが、この試合のアーセナルの守備を支えていた。
日本の現場でも、「プランA」と「プランB」を持つことの重要性はよく語られる。 しかし実際には、選手が「変えてもいい」と思えているかどうかが、大きな分かれ目になる。
もし自分がピッチに立っていて、試合中に監督から守備の形を変える指示が出てきたら。 「こんなに練習したのに、今変えるの?」と戸惑うのか。 「このままでは危ないから、変えよう」とすっと入っていけるのか。
その時、必要なのは「自分の頭で状況を理解し直す力」だろう。 ただ言われたから形を変えるのではなく、「なぜ今、こうするのか」を自分なりに噛み砕けるかどうか。 それが、試合中に「次の一手」を選び続ける力につながっていく。
日本でこの試合をなぞるなら、どんな問いを立てられるか
このアーセナル対チェルシーの試合を、日本のサッカーと重ねてみると、いくつかの問いが浮かび上がってくる。
- 理想通りにボールを持てない試合で、「どこで勝つか」を誰が決めるのか
- セットプレーでの勝利を、「内容が悪いのに勝った」と切り捨てていないか
- 1週間準備して失敗したときに、選手と一緒にどんな会話ができるか
- 試合中の守備の形の変更を、選手はどこまで自分ごととして理解できているか
選手の立場なら、 「もし自分のチームが押し込まれているとき、セットプレーをどれだけ武器として意識できるか」。 保護者なら、 「子どもが結果に結びつかない努力をしたとき、その悔しさをどう受け止めてあげるか」。 指導者なら、 「自分の理想と、チームの現実の間で、どこに線を引くか」。
そこに、ひとつの正解はない。 ただ、こうした試合を見たあとに「自分のチームだったらどうするだろう」と立ち止まること自体が、サッカーを深く味わう時間になる。
答えを急がないサッカー
アーセナルは、完璧な内容ではなかった。 チェルシーも、せっかく掴みかけた試合の流れをセットプレーで手放した。 それでも、どちらのベンチにも、「なぜそうしたのか」という理由があったはずだ。
うまくいった選択もあれば、うまくいかなかった選択もある。 そのすべてが、次の週末への材料になる。 だからこそ、試合を見終えたあとに、「どちらが正しかったか」を急いで決めてしまう必要はないのかもしれない。
なぜアルテタはセットプレーに手応えを感じていたのか。 なぜロゼニアーは、1週間の準備の末に失点した現実を、それでも前向きに語ろうとしたのか。 なぜ選手たちは、押し込まれる時間帯でも守備の形を変えながら、90分を戦い抜けたのか。
その「なぜ」を急いで一言でまとめずに、少し時間をかけて考えてみる。 自分ならどう決めただろうかと、ゆっくり想像してみる。 そうした静かな時間が、サッカーを続けていくうえでの、ひとつの財産になっていくのではないだろうか。
コーナーキックからの1点にも、苦しい守備の90分にも、それぞれの物語がある。 その物語に耳を澄ませること自体が、サッカーを「考えながら楽しむ」ということなのかもしれない。
