イタリア審判界の疑惑から学ぶ「笛を選ぶ」ということ――選手・指導者・保護者が考えたい、判定と信頼との付き合い方
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「笛の音の向こう側」で、誰が何を選んでいるのか

スタジアムの歓声が一瞬だけ静まりかえる瞬間がある。
ゴールでも、ビッグセーブでもない。
審判がホイッスルを口元に運び、吹くか、吹かないか。
その「一息」のあいだに、選手も監督もサポーターも、そして審判自身も、それぞれの期待と不安を抱えている。
いまイタリアでは、その「笛」の世界が大きく揺れている。
セリエAなどトップカテゴリーの審判を統括する立場にいるジャルーカ・ロッキが、スポーツ詐欺の疑いで捜査の対象となり、自ら職務から身を引いた。
VARのスーパーバイザーを務めるアンドレア・ジェルヴァソーニも、別件での介入疑惑により調査を受け、同じように自ら退く選択をした。
「インテルにとって好ましい審判を選んでいたのではないか」「あるセリエBの試合で不適切な影響力があったのではないか」。
報道で語られているのは、そんな疑念だ。
事実関係はこれから司法の場で明らかになっていくことになる。
ただ、ここで考えたいのは「誰が悪いか」ではなく、「そもそも審判を『選ぶ』とは、どういうことなのか」ということだ。
審判もまた、「選ばれる」立場にある
試合をする側からすると、審判はあらかじめ決まっているもので、自分ではどうにもできない存在に見えやすい。
けれど、実際には審判もまた「選ばれ続けている」。
一つひとつの試合でのパフォーマンスが評価され、次の試合を任されるかどうかが決まっていく。
トップレベルの世界では、その選定を担う「デジニャトーレ」と呼ばれる人たちがいる。
どの試合に誰を派遣するのか。
それは、単にスケジュール表に名前を埋める作業ではない。
選ばれた審判の特徴、両チームのスタイル、試合の重要度、これまでの経緯。
さまざまな要素を頭の中に並べながら、「この組み合わせなら試合がスムーズに運ぶだろう」と仮説を立てていく。
そこには「考えるサッカー」ととてもよく似たプロセスがある。
しかし、その判断が「あるクラブに有利だから」という意図と結びついた瞬間、話はまったく別の意味を帯びる。
同じ行為でも、どの前提に立つかで、まったく違うものに変わってしまう。
| 観点 | 透明性重視のアプローチ | 信頼関係重視のアプローチ | 評価 |
|---|---|---|---|
| 選定基準の公開 | プロセスを全面公開 | 選ぶ側と選ばれる側の信頼で運用 | △ 変化 |
| 審判の振る舞い | 疑われないことを最優先 | 試合をよりよくする決断を優先 | ◎ 継承 |
| クラブとの関係 | 接触を極端に制限 | 個性を踏まえた配置を許容 | ○ 柔軟化 |
| 疑念が生じた時 | 外部調査と説明責任 | 自ら身を引く判断も選択肢 | ◎ |
| 育成年代への波及 | 知らない審判を機械的に割当 | 地域審判の経験値も活用 | △ |
「自ら身を引く」という難しい選択
今回のケースでひとつ注目したいのは、ロッキもジェルヴァソーニも共通して「自ら一時的に職務を離れる」という決断をした点だ。
まだ有罪が確定したわけでもない段階で、自分から退くこと。
それは、自分を守りたい気持ちと、組織や仲間を守りたい気持ちがぶつかる中での選択だったはずだ。
続けることも、ひとつの選択だっただろう。
「身の潔白を証明するまでは、仕事をまっとうする」と言うこともできた。
あえて自分から降りるというのは、「自分がここにいることで、周りに余計な影を落としてしまうかもしれない」という想像力が働いたからかもしれない。
もし自分が選手だったらどうだろう。
自分がピッチに立つことでチームに雑音が増えるとわかったとき、「それでも出たい」と思うか、「いまは一歩下がろう」と思うか。
どちらが正しい、という話ではない。
ただ、「どちらを選ぶにせよ、簡単ではない」という感覚を想像してみることはできる。
- 判定への反応をチームの基準にする — 不利な笛が続いても、感情的に責めずにベンチが「次の選択」に意識を戻す言葉を持つ
- 審判選定の繊細さを言語化する — 育成年代でも誰を割当てるかは配慮の連続。地域大会で起きる小さな配置判断を、選手にも説明できる準備をしておく
- 『疑われない』ではなく『試合をよくする』を軸にする — 無難な指示よりも、勇気を持って判断する文化を選手・審判双方に求める姿勢を見せる
見えないところで行われる「試合の準備」
選手や監督が試合に向けて準備を重ねるように、審判の世界にも準備がある。
映像でチームの傾向を確認したり、特定の選手同士のこれまでの関係性を把握したり。
「ここの対戦では、序盤から激しいデュエルが増えるかもしれない」
「セットプレーでの駆け引きが多そうだから、ポジショニングに気をつけよう」
そんな想定をしながら、「どうコントロールしていくか」を考えている。
一方で、デジニャトーレの立場からすれば、その特徴も踏まえて「この試合にふさわしいのは誰か」を決めていく。
そのプロセスは、本来なら透明である必要はないかもしれない。
選ばれる側も選ぶ側も、お互いを信頼できているなら、「任せた」「任されている」という関係性で回っていくからだ。
ただ、いったん「特定クラブに好まれる審判を意図的に配置したのでは」と疑われると、その見えない準備のすべてが別の色に染まってしまう。
どんなに真剣に考え抜いて判断したとしても、「本当は別の思惑があったのでは」と見られてしまう。
それは、選手で言えば、どれだけ努力して成長しても「親のコネで試合に出ているんだろ」と言われてしまう感覚に近いかもしれない。
やっている側にとっては、これほど苦しいことはない。
- 笛に意識を奪われすぎない — 審判は選べないが、ボールの置き所やリスクのかけ方は自分で選べる。揺れた感情を「次に選べること」へ戻す
- キャプテンやベテランの距離感を観察する — 審判との対話が試合の流れをどう変えるか、観戦時に注目すると「ピッチ外の駆け引き」が見えてくる
- 『正しさ』より『どう考えたか』を話題にする — 試合後の親子の会話で、判定の良し悪しではなく審判や選手が何を考えたかを推し量ってみる
「疑われないように」だけでサッカーはできるのか
では、どうしたらいいのか。
選出プロセスをすべて公開することなのか、審判とクラブとの接触を極端に制限することなのか。
たしかに「透明性」を高める努力は欠かせない。
けれど、それだけでは何かが足りない気もする。
「疑われないように」だけをゴールにしてしまうと、誰もリスクを取らなくなる。
微妙なプレーに対して、勇気を持って笛を吹くことより、「無難に流しておこう」という判断が増えるかもしれない。
選ぶ側も、審判に個性があっても「問題が起きなさそう」な人を並べることが目的になってしまうかもしれない。
選手の世界にも似た状況はある。
チャレンジするプレーより、ボールロストしないプレー。
ゴールを狙うより、怒られないパス。
「失敗しないこと」が基準になると、サッカーは一見整って見えるが、どこか息苦しくなる。
審判も同じかもしれない。
「疑われないように」ではなく、「試合をよりよくするために、自分はどんな決断ができるか」という軸をどう守り続けるか。
いまイタリアで起きている揺れは、その問いを改めて突きつけているようにも見える。
日本のサッカーでは、どう考えられるだろう
このニュースは海外の出来事だ。
日本では関係ない、と言い切れるだろうか。
例えば、育成年代の大会での審判割り当て。
どのチームにも知り合いがいない審判がいいのか。
それとも、選手の特徴をよく知っている地域の審判がいいのか。
極端に考えれば、どちらにもプラスとマイナスがある。
知っているから抑えられるケースもあれば、知っているから無意識のバイアスが働くこともある。
高校年代や大学サッカーでも、重要な試合に誰を割り当てるかは、実はかなり繊細なテーマだ。
「強豪同士だから、経験のある人を」
「感情的になりやすいチームがいるから、対話ができる人を」
そうした配慮は決して不自然ではない。
ただ、その一歩先で「この学校は、あの審判と相性がいいから」といった話題が当たり前になっていくとき、どこで線を引くのか。
もし自分が割り当てを決める立場だったら、何を基準に選ぶだろう。
もし自分が審判だったら、「あのチームとは仲がいいから」と言われたとき、どう振る舞うだろう。
もし自分が選手だったら、「あの審判は相手に有利だ」と聞いたとき、どんな気持ちでピッチに立つだろう。
選手は「コントロールできないもの」とどう付き合うか
今回の話には、もうひとつ別の問いも含まれている。
それは、選手やチームが「自分ではコントロールできないもの」とどう向き合うか、ということだ。
審判が誰なのか。
どんな判定が続くのか。
こうした要素は、選手自身には選べない。
だからこそ、そこに意識を奪われすぎると、自分たちのプレーに戻るのが難しくなってしまう。
それでも、「気にするな」と言われて簡単に割り切れるものでもない。
不利だと感じる判定が重なれば、感情が揺れるのは自然だ。
大切なのは、その揺れを無理に押し殺すことでも、相手や審判を責めきることでもなく、「じゃあ、この状況で自分たちは何を選べるのか」を探すことかもしれない。
ボールの置き所を変える。
リスクのかけ方を変える。
キャプテンやベテランが、審判との距離感を少し調整する。
自分では選べない条件があっても、その中で選べることはまだ残されている。
そう考えられるかどうかは、一朝一夕には身につかない。
日々の練習や、普段の試合のなかで、「うまくいかない状況でも、何を選べるか」と問い続けていくしかないのだと思う。
「正しさ」よりも、「どう考えたか」を残す

イタリアの審判界を揺らしている今回の件は、これから長い時間をかけて検証されていくだろう。
誰がどこまで関わっていたのか。
組織として何を変えるのか。
さまざまな議論が起こるはずだ。
外から見ている私たちは、つい「正しい/間違い」だけで結論を出したくなる。
けれど、そこでいったん立ち止まってみると、別の見方も見えてくる。
ロッキは、なぜ自ら身を引く決断をしたのか。
ジェルヴァソーニは、自分が注目されることで、どんな影響が出ると考えたのか。
そのとき審判仲間や選手たちは、何を感じたのか。
「正しさ」ではなく、「どう考えたのか」という筋道に思いをめぐらせてみると、自分自身への問いにもつながってくる。
自分が選手としてピッチに立つとき。
自分が保護者としてタッチラインの外から見守るとき。
自分が指導者として審判と向き合うとき。
どんな言葉を選び、どんな態度を選ぶのか。
答えを急がないまま、問いを持ち続ける
スタジアムに響く笛の音は、いつも一瞬で過ぎ去っていく。
判定は変わらないことも多いし、議論は簡単にはかみ合わない。
それでも、その一つひとつの笛の裏側には、人の判断や迷い、そして選択がある。
今回のような大きなニュースに触れたとき、「またか」「やっぱり」と感情だけで流してしまうのではなく、「自分だったらどう考えるだろう」と少しだけ立ち止まってみる。
その小さな時間が、サッカーを見る目を少しずつ変えていくのかもしれない。
そして、ピッチの中でも外でも、「すぐに答えを決めつけないで、考え続ける力」が求められていることを、改めて感じさせられる出来事でもある。
笛が鳴る前の、あの短い「一息」のように。
急がず、しかし目をそらさずに、何を選ぶのかを考え続けていきたい。