女子サッカーの「安心してボールを蹴れる場所」はどう守られるべきか
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「安心してプレーできる場所」は、誰がどうやってつくるのか

オーストリアの小さな町で、女子チームのロッカールームにカメラが仕込まれていた。
映っていたのは、ゴールシーンでも、華やかなセレブレーションでもない。
着替えの時間、シャワーの時間、選手たちが「いちばん無防備でいていいはずの時間」だった。
被害にあったうちの一人、現在フランスのトノン・エビアン・グラン・ジュネーヴでプレーするエレニ・リットマンは、その出来事を「女の子がサッカーをするということが、いかに守られていないかを突きつけられた出来事」として受け止めている。
このコラムでは、事件そのものの善悪を裁くのではなく、「サッカーをする場所をどう守るか」という視点から、この出来事を見つめてみたい。
ロッカールームで起きたことと、「信じていたもの」が壊れる瞬間
事実関係はシンプルだ。
オーストリアのクラブ、ラインドルフ・アルタッハで女子チームを担当していた、元スイス1級審判の男性スタッフが、ロッカールームやシャワールームにカメラを設置していた。
それは一度きりの「出来心」ではなく、約3年間続いていたとされる。
彼は裁判で有罪となり、執行猶予付きの7か月と、比較的小さな罰金の支払いが命じられた。
リットマンは、事件が報道されて初めて、自分も被害者であることを知った。
そして時間がたつほどに、「あの時も、この時も撮られていたのかもしれない」という実感が、少しずつ自分の中で重さを増していったという。
彼女は当時を振り返り、こうした違和感を覚えていた。
- 練習中など、自分たちがいない時間によくロッカールームに男性スタッフが出入りしていたこと
- シャワーの中での会話を、なぜかそのスタッフが知っていたこと
しかし、その瞬間に「盗撮されているかもしれない」と疑うことはなかった。
「クラブを信じていたから」という言葉には、サッカーに関わる多くの人が共有する感覚がにじむ。
クラブ、チーム、スタッフを信じてプレーする。
その「信頼」が、プレーのベースにあることは、多くの選手が体験しているはずだ。
では、その信頼が大きく裏切られたとき、選手はどこから、何を信じ直していけばいいのだろうか。
| 確認観点 | 理想的な状態 | 問題のある状態 | 対応の方向性 |
|---|---|---|---|
| ロッカールームへの入室管理 | 入室できる大人・タイミングが明確にルール化されている | 誰でも自由に出入りできる状態 | ◎ 入室ルールを文書化し全員に周知する |
| 異性スタッフの関与範囲 | 着替え・シャワーの時間は同性スタッフが対応する | 異性スタッフが制限なく出入りする | ◎ 女子チームに女性スタッフを必ず配置する |
| スタッフ動機の確認 | 「なぜ女子チームで働きたいのか」を採用時に確認している | 動機確認なく配置が決まる | ○ 採用・配置時に動機を言語化させる機会を設ける |
| 違和感を伝えられる仕組み | 不安や違和感を落ち着いて話せる人・窓口がある | 話せる人がいない・言いにくい雰囲気がある | ◎ 相談窓口を明示し、選手に存在を周知する |
| 被害を公表する選択の尊重 | 選手自身が話すかどうかを自分で決められる | クラブ側が「外には話さないように」と封じる | △ 選手の声を封じることはイメージ守護より害が大きいと認識する |
「話すな」と言われた選手と、「話す」と決めた選手
事件が明るみに出たあと、クラブは心理的なサポートを用意したという。
一方で選手たちには「外には話さないように」とも伝えられたとリットマンは感じている。
クラブのイメージを守りたいという意識が先に立っていたのではないか、と。
この場面に立ち会ったと想像してみると、いくつかの選択肢が浮かぶ。
- クラブの指示に従い、公には何も言わない
- 身近な人にだけ話し、外には出さない
- リスクを承知で、公の場で声を上げる
どの選択にも、それぞれの「理由」があるはずだ。
家族を守りたい人もいれば、自分のキャリアへの影響を恐れる人もいる。
「もう思い出したくない」と感じる人もいるだろう。
そんな中で、リットマンが最終的に選んだのは「話す」という選択だった。
きっかけの一つは、裁判の判決だったという。
執行猶予付きの7か月と、1人あたり数百ユーロ程度の補償。
その内容を知ったとき、彼女は「このまま黙っていたら何も変わらない」と感じたそうだ。
ここで問われているのは、金額の妥当性ではない。
「この扱われ方で、本当に被害の重さは社会に伝わるのか」という問いだ。
リットマンは、自分のトラウマが金額で消えるわけではないと自覚している。
それでもあえて公に話そうと決めた背景には、二つの思いがあったように見える。
- 同じような被害にあっている女性たちが「自分だけじゃない」と感じられるように
- これから同じことをしようとする誰かが、「重い代償を払わされる」と知るように
彼女は、最初の動画を出すとき、とても怖かったと振り返っている。
否定的なコメント、誹謗中傷、クラブや関係者からの反発。
そうしたものを想像しながらも、「それでも話す」と決めたその瞬間には、どれだけの迷いと覚悟が入り混じっていたのだろうか。
サッカーの中で私たちは、パスやシュート、プレスの判断についてはよく語る。
だが、「黙るか、話すか」という種類の判断は、どうだろう。
もし自分が同じ立場だったら、何を基準に、どの選択をするだろうか。
- ロッカールームへの入室ルールを明文化する — 誰が、どのタイミングで入室できるかをチーム全員に明示する。「なんとなく」の慣習を排除し、選手が安心して着替えられる仕組みをつくる。
- 女子チームには女性スタッフを必ず配置する — 着替え・シャワーまわりの対応は同性スタッフが担うことを原則とし、スタッフ採用時に「なぜ女子チームで働きたいのか」を確認する場を設ける。
- 選手が不安を言葉にできる関係を日常的につくる — 技術や結果の話だけでなく、「何か違和感はないか」を定期的に問う時間を設ける。信頼関係は危機のときだけ必要になるのではなく、日常の積み重ねにある。
「安心して着替えられる」ことは、当たり前なのか
事件のあと、リットマンの行動は変わった。
新しいクラブに移籍したとき、彼女はまずロッカールームをくまなくチェックしたという。
シャワーやトイレに入るとき、いまでもどこかにカメラがないか、不安がよぎると話している。
サッカー界では、よく「選手には安心できる環境が必要だ」と言われる。
そのとき、頭に浮かぶのは、どんな「安心」だろうか。
- ピッチの状態が良いこと
- ケガをしたときのサポートが整っていること
- 指導者との信頼関係があること
そういった要素はもちろん大切だ。
だが、そのもっと手前に、「ロッカールームで安心して着替えられること」「トイレやシャワーで、誰かに見られている心配をしなくていいこと」という、ごく当たり前に思えるラインがある。
日本のサッカークラブや学校チームに目を向けてみると、どうだろうか。
カメラや盗撮といった極端な話でなくても、「選手が安心していられる空間」はどれくらい意識されているだろう。
- ロッカールームに、どの大人が、どのタイミングで入ってくるのかが明確になっているか
- 着替えの時間に、異性のスタッフがむやみに出入りしていないか
- 選手が「これは不安だ」と感じたときに、落ち着いて話せる人がいるか
このあたりは、「競技レベル」とは関係なく、どんなカテゴリーでも問うことができるポイントだ。
自分が選手なら、どんなルールや仕組みがあれば安心できるのか。
自分が保護者なら、何を確認したいと思うのか。
自分が指導者なら、どこまでを自分が入り、どこからを選手のプライベートとして尊重するのか。
一度立ち止まって考えてみる価値はあるように思う。
- 違和感を感じたとき、話せる人を一人見つけておく — 練習や試合の場で何か「おかしい」と感じたとき、誰に、どう伝えるかを事前に考えておく。信頼できる人を一人決めておくだけで動きやすくなる。
- 保護者はチームの環境を確認する権利がある — ロッカールームに誰がいつ入れるか、異性スタッフが無制限に出入りしていないか、子どもが不安を話せる人がいるかを確認することは過剰な干渉ではなく当然の関心だ。
- 「レベルや見た目」以外の視点でサッカーを見る — 女子サッカーをプレーのスピードや男子との比較だけで評価する視線は、選手を傷つける。どんな工夫でゲームをつくるかに目を向ける観戦習慣が、安心な環境の文化をつくる。
「なぜ女子チームなのか」を問うこと
リットマンは、再発防止策として「女子チームのスタッフには必ず女性を入れるべきではないか」と提案している。
ロッカールームやシャワーまわりの対応は、できる限り女性スタッフが担うようにする、という考え方だ。
さらに彼女は、指導者やスタッフに対して、「なぜ女子チームで働きたいのか」をきちんと問う必要があると話している。
この問いは、日本の現場にもそのまま持ち込めるものかもしれない。
女子チームの指導者に、「なぜ男子ではなく、女子を指導したいのか」と聞いてみる。
そこにどんな答えが返ってくるか。
それは、その人がどんな価値観で選手と関わろうとしているかを知る、一つの手がかりになる。
もちろん、どんな答えが「正解」という話ではない。
ただ、「なんとなく配置された」ではなく、「なぜここで関わるのか」を自分で言葉にできること。
それが、選手とスタッフの関係を、少しだけ透明なものにしていくのではないだろうか。
「戦う場所」はピッチの外にもある
リットマンは、この事件を通して、女子サッカーの置かれている状況についても触れている。
女子選手たちは、ピッチの上で自分たちのプレーを認めてもらうために戦っている。
一方で、ピッチの外でも、さまざまな偏見や攻撃にさらされていると感じている。
- 「男よりレベルが低い」とプレーを軽く扱われること
- プレーではなく「見た目」や「身体」の対象として見られること
彼女は「女としてサッカーをする」というだけで、いろんな方向から攻撃を受けている感覚があると話す。
日本でも、女子選手や女子チームが似たような視線にさらされる場面は、少なくないかもしれない。
もし自分が女子選手だったら。
あるいは、娘がサッカーをしていたら。
自分は、どんな言葉をかけられたらうれしいだろうか。
逆に、どんな言葉には傷つくだろうか。
そして、自分が見る側の立場のとき、どんなまなざしで女子サッカーを見ているだろうか。
「レベル」や「スピード」だけでは測れないものに、どこまで目を向けられるか。
それもまた、サッカーを見る側に問われる「選び方」の一つなのかもしれない。
フランスで見つけた「安全」と、そこに至るまでの時間

現在、リットマンはフランスのトノン・エビアン・グラン・ジュネーヴでプレーしている。
新しいクラブに移った当初、彼女は、同じことが起きるかもしれないという恐怖を抱えていたという。
そこで彼女は、自分の過去をクラブの女性マネージャーに打ち明けた。
マネージャーはその話を受け止め、クラブとしての環境やルールについて説明し、徐々に不安をほどいていったそうだ。
いま彼女は、「ここでは安心してプレーできている」と話す。
安心を取り戻すプロセスは、プレーの改善とよく似ているところがある。
- いきなりすべてを信じることはできない
- 少しずつ確かめながら、「大丈夫だ」と思える経験を積み重ねていく
- その過程で、自分の不安や恐れを、誰かに言葉として渡していく
サッカーの現場では、どうしても「結果」や「成長」が表に出やすい。
だが、その裏側には、「安心していいのかどうか」を確かめ続けるような、見えにくい時間が流れていることがある。
指導者やクラブ関係者の立場にいる人は、その時間の存在を、どれくらい想像できるだろうか。
「自分ならどうするか」を問い続けるために
この事件は、サッカーの技術や戦術とは一見関係がないように思える。
だが、「どんな環境で、どんな大人と、一緒にサッカーをするのか」という問いは、プレーそのものと切り離せない。
選手の立場なら、自分が不安や違和感を覚えたとき、誰に、どう伝えるだろうか。
保護者なら、子どものチームに対して、どんなことを確認したいだろうか。
指導者やスタッフなら、自分の言動や立ち位置を、どう振り返るだろうか。
「正解」はきっと一つではない。
何が正しいかを急いで決めつけるよりも、「なぜその選択をするのか」「他にどんな選び方があり得たのか」を、それぞれの立場で静かに考えてみる。
その積み重ねの先に、「安心してボールを蹴れる場所」が、少しずつ増えていくのかもしれない。
サッカーをすることが、誰かの勇気や信頼を踏みにじるものではなく、「ここにいてもいい」と思える感覚を育てるものであってほしい。
ボールがピッチを転がる前に、その土台をどうつくるか。
その問いを、今日もそれぞれの場所で考え続けることが、サッカーを続けていくための、もう一つのプレーなのだと思う。