明白でないものとどう向き合うか――VAR時代のPK判定が投げかける問い
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「明らか」ではないものを、どう扱うか ─ ジェノア対ナポリのPK騒動から考える

95分、マラッシの静けさとざわめき
アディショナルタイム、スコアは2−2。
ジェノアは数的優位、ホームの声援も背に受けながら、あと数分を守り切れば勝点1、あるいはカウンターから勝点3も見える時間帯でした。
ナポリは10人で耐えながらも、一つの攻撃に賭けて前に出ていく。
その中で、ペナルティエリア内で起きたのが、コルネ(ジェノア)とベルガラ(ナポリ)の接触です。
主審マッサはプレー続行を選びました。
笛は鳴らない。
ところが、次の瞬間、試合はもう一つの「ピッチ」に移ります。
VARルームからの介入で、主審はモニター前へ。
映像を確認したあとに出たのは、ナポリに対するPKの判定でした。
95分のPKは決まり、ナポリが3−2で試合を制します。
数字だけ見れば、よくある「ラストプレーの劇的PK」かもしれません。
しかし、この試合で人々が議論しているのは、PKそのものの是非よりも、「どうしてVARがそこに介入したのか」というプロセスの部分です。
| 判断者 | 情報源 | 下した判断 | 評価 |
|---|---|---|---|
| 主審マッサ(初期) | ピッチ上のポジショニング感覚 | ノーファウル・プレー続行 | ◎ 原則通り |
| 主審マッサ(VAR後) | スロー再生映像+VAR担当の呼びかけ | PKに変更 | △ 価値の揺れ |
| VAR担当審判 | 映像・スロー再生の印象 | モニター確認を促す介入 | △ 介入基準が問われた |
| 解説者ルカ・マレッリ | プロとしての経験と映像分析 | 「ボーダーライン」の軽い接触と指摘 | ○ 専門的分析 |
| コルネ(DF) | 身体感覚・ボールへの判断 | 足を出してボールに向かった | ○ 現場の選択 |
| ベルガラ(FW) | 接触の瞬間の身体感覚 | コンタクトを受けた | ◎ 実際の当事者 |
「接触はあった」では終わらない問い
この場面を巡って、多くの解説者が口をそろえるのは「接触があったかどうか」ではありません。
接触自体はあった、と認めたうえで、問題にされているのはその「強さ」と「影響」です。
元審判で解説も務めるルカ・マレッリは、コルネの足はベルガラの足を明確に踏みつけにいったわけではなく、上をかすめるような動きだったと指摘します。
いわゆる「踏みつけ(step-on-foot)」として典型的に想定される強いコンタクトではなく、「とても軽い」「ボーダーライン上」の接触。
だからこそ、「現場でノーファウルと判断した主審の決定を、VARがひっくり返すほど明らかなミスだったのか」が問われているのです。
VARは「すべての微妙な接触を正しく取り締まる装置」ではありません。
原則として、「明らかで重大な誤審」を修正するために使われるツールです。
そう考えると、このケースはまさにグレーゾーン。
誰が見ても「完全におかしい」と言えるほどのシーンだったのか、それとも主審の裁量の範囲に収まるものだったのか。
ここに、多くのサポーターや関係者が感じたモヤモヤの源があります。
- 映像を使ってラインの感覚を育てる — 「ここまでは許される」「ここを越えるとファウルになりやすい」というラインを、映像反復で選手の中に形成する
- 「足を出すな」より「どこならチャレンジできるか」を教える — リスク回避だけを繰り返すと積極守備の感覚が育ちにくい。判断基準を具体的に言語化して伝える
- 理不尽な判定への対応をチームで準備する — 笛への不満を次のプレーに持ち込まないよう、判定後の「1分間の使い方」を練習の中で扱う
VARは「答え」なのか、「もう一つの意見」なのか
この場面をサッカー全体の問題として眺めてみると、一つの大きなテーマに行き当たります。
VARは何のためにあるのか。
そして、ピッチ上の主審の判断と、映像を見ているVAR担当の審判の意見、その関係はどうあるべきなのか。
今の国際的なルールでは、VARはあくまで補助役であり、「主役」はあくまでピッチの審判です。
だからこそ、プロトコルでは「明白で重大な誤審」でない限り、VARは介入すべきではないとされています。
ところが、グレーな場面でVARがモニター確認を促すと、結果的に多くの主審は判定を変更します。
自分の目で見たものよりも、「映像」と「別の審判の意見」に引き寄せられる構図が生まれるからです。
この日のマッサも、当初はノーファウルの判断でした。
そこから数十秒後、同じプレーをスロー再生で見直し、PKに変える。
同じ人物が、同じプレーを、短時間で真逆に評価しているわけです。
ここには「何が見えたか」以上に、「何を重視するか」という価値の揺れが現れます。
- 「自分がコルネならどう守るか」を想像しながら観戦する — ペナルティエリア内での1対1で、どこまで足を出すか・どう体を使うかを自分ごととして考えると観る目が変わる
- 結果よりプロセスを振り返る習慣をつける — PKになったプレーも「なぜそのポジションを取っていたか」「なぜそのタイミングで足を出したか」を丁寧に振り返ると次の選択肢が増える
- 不満な判定のあとにすぐ次のプレーへ戻る練習をする — 審判も迷いながら決断している。感情的な批判で終わらせず「自分なら何を見てどう決めるか」と問い直す姿勢が判断力を育てる
ピッチの中にもある「VAR的な迷い」
この出来事を、審判だけの問題として片付けてしまうのは簡単です。
ただ、選手や指導者の立場で眺めてみると、そこにどこか見覚えのある感覚があるのではないでしょうか。
例えば、ペナルティエリア内でのディフェンス。
相手の足元にチャレンジに行くのか、距離を保ってシュートコースを切るのか。
一瞬で選ばなければいけない場面で、頭の中にはいくつもの「もし」がよぎります。
もしボールに届かなかったら。
もし相手の足に当たってしまったら。
PKを与えるリスクを取るのか、シュートを打たせるリスクを取るのか。
どちらを選んでも、「絶対に正しい」なんてことはありません。
ただ、その瞬間に、自分が何を優先するかは問われ続けます。
この試合のコルネも、「ボールに行きたい」「でもPKは避けたい」という綱引きの中で、足を出したはずです。
結果として「軽い接触」が生まれ、それがVAR介入を呼び込み、95分のPKにつながった。
プレーとしてはごく小さなタッチが、大きな結果を生み出す。
それは今のフットボールにおいて、ディフェンダーが常に向き合っている現実でもあります。
日本の現場なら、どう感じるだろうか
では、こうした「ボーダーライン」の判定が続いたとき、日本の選手や指導者は何を感じるでしょうか。
Jリーグや育成年代の試合でも、VARの有無はあっても、「微妙な接触をどう扱うか」という問題は共通しています。
接触を避けようとして守備が消極的になりすぎれば、ゴール前で相手に自由を与えてしまう。
逆に、積極的にチャレンジすれば、「不用意なファウルだ」と評価されることもある。
たとえば、ペナルティエリア内での1対1。
日本では、次のような指導がよく聞かれます。
- 「ペナルティエリアでは足を出すな」
- 「とにかくPKを与えるな」
これ自体はリスク管理として理解できます。
ただ、それだけを繰り返していると、「じゃあ、どこまでならチャレンジしていいのか」という感覚は育ちにくくなります。
ボールに行くべきなのか、我慢してブロックすべきなのか。
相手のタッチに合わせて前に出るのか、シュートコースを切る立ち位置を優先するのか。
映像で繰り返し見ることで初めて、「ここまでは許される」「ここを越えるとファウルになりやすい」というラインが、少しずつ自分の中に形を持ち始めます。
今回のジェノア対ナポリのようなシーンは、「海外は誤審が多い」「VARがおかしい」と批判して終わらせることもできます。
一方で、「もし自分がコルネの立場なら、どう守るか」「自分が主審なら、その瞬間に何を見て、どう決めるか」と置き換えて考えてみることもできます。
「明白」ではない状況で、何を信じるか

VARの議論の中心には、いつも「明白な誤審かどうか」という言葉が出てきます。
しかし、現実のプレーの多くは「明白」とは言い難いグレーな出来事です。
その中で、誰もが何かを基準に選んでいます。
主審であれば、自分のポジショニングから見えた感覚。
VAR担当であれば、映像とスロー再生の印象。
ディフェンダーであれば、身体の距離感と、相手のテクニックへのリスペクト。
攻撃側であれば、コンタクトの瞬間に「倒れるか、倒れないか」という選択。
それぞれが、その瞬間の自分なりの「正しさ」を選択しているとも言えます。
だからといって、すべてを相対化してしまえば、「じゃあ何でもありなのか」となってしまう。
では、どこに自分の軸を置けばいいのか。
そのヒントの一つは、「結果」ではなく「プロセス」を振り返ることかもしれません。
PKを与えて失点した。
勝点を落とした。
その事実だけを見ると、「守備が軽率だった」「審判が悪い」と結論づけるのは簡単です。
ただ、その一歩手前で、「なぜそのポジションを取っていたのか」「なぜそのタイミングで足を出したのか」を丁寧に振り返ると、次の選択肢が少し増えていきます。
「選び直す力」は試合の後に育つ
コルネの接触は、「軽い」と表現されるものでした。
しかし、その「軽さ」が大きな波紋を生んだことは事実です。
選手本人がこのシーンを振り返るとき、どんなことを考えるのでしょうか。
もっと足を引くべきだった、と思うのか。
逆に、もっとはっきりボールに行くべきだった、と感じるのか。
いずれにせよ、次の同じような場面で、彼はまた何かを選び直さなければなりません。
そのときに大事になるのは、「PKになったから、もう二度と足は出さない」と決めつけてしまうことではなく、「どんな状況ならチャレンジできるか」を自分の中で整理することです。
これは、日本の選手や指導者にもそのまま当てはまります。
うまくいかなかったプレーを、「やってはいけないこと」として封印してしまうのか。
それとも、「何を変えれば同じ選択をしても別の結果になり得るか」と考えてみるのか。
同じ出来事を前にしても、その後のサッカー人生は大きく変わっていきます。
審判もまた、揺れながら決めている
今回の試合で、もう一人忘れてはいけない存在がいます。
それは、主審マッサ自身です。
彼はピッチ上で「ノーファウル」と判断し、その後VARからの呼びかけを受けて、モニターで同じ場面を見直しました。
短時間で、自分の判断を修正することを選んだわけです。
この行為の背景には、どんな感情や思考があったのでしょうか。
「映像で見ると、やはりファウルに見える」と素直に感じたのかもしれません。
あるいは、「VARが呼ぶということは、自分の見落としがあったに違いない」と考えたのかもしれません。
どちらにしても、そこには「迷い」があります。
審判も人間である以上、迷いながら決断している。
そのことを想像すると、感情的な批判だけではなく、「自分なら、あの場に立っていたらどう決めただろう」と一度立ち止まる余地が生まれます。
「答えを出さない」という選択肢
このコラムをここまで読んで、「結局、このPK判定は正しかったのか、間違っていたのか、どっちなんだ」と感じているかもしれません。
しかし、あえてその答えをここでは出さないままにしておきたいと思います。
なぜなら、このシーンが投げかける意味は、「PKかノーファウルか」という二択を超えたところにあるからです。
例えば、次のような問いを、自分のサッカーに当てはめてみることはできるでしょうか。
- 自分がディフェンダーなら、ペナルティエリア内でどこまでチャレンジするか。
- 自分が攻撃側なら、軽い接触で倒れるのか、プレーを続けるのか。
- 自分が審判なら、「明白な誤審」と「グレーゾーン」の境目をどこに置くか。
どれも簡単に答えは出ないかもしれません。
けれど、その「答えが出ない時間」を引き受けながら、自分なりの基準を探していく過程こそが、サッカーの中での「考える力」なのだと思います。
最後に残るのは、ひとりひとりの基準
ジェノア対ナポリの試合は、スコアだけを見れば3−2でナポリの勝利。
ただ、95分のPKシーンは、それ以上のものを多くの人に残しました。
VARは完璧な正解を与えてくれる装置ではありません。
審判も選手も、いつも揺れながら、その瞬間のベストだと思う選択をしています。
だからこそ、外から見ている私たちにできるのは、「あの判定はおかしい」と叫ぶことだけではないはずです。
同じ場面が自分に訪れたとき、何を見て、何を優先して、どう決めるのか。
今日の試合の「答え」を探すかわりに、そんな問いを一つだけ持ち帰ってみる。
その小さな習慣が、サッカーの見え方を、そして自分のプレーや指導の基準を、少しずつ変えていくのかもしれません。
95分のペナルティスポットに置かれているのは、ボールだけではなく、それぞれの「選び方」なのだと静かに教えてくれる試合だったように思います。
