推薦とレッテルの向こう側――バジリカータU17が投げかけた「選ぶこと」とどう向き合うか
Compartilhar esta coluna
「推薦組」と呼ばれた20人が見せたもの:バジリカータU17の物語から考える選ぶことの重さ
| 立場 | 直面する状況 | 取りうる選択 | 望ましいアプローチ |
|---|---|---|---|
| 指導者 | 圧力・口利き依頼・個人攻撃を受ける | 圧力に屈する/自分の基準を貫く | ◎ 基準を言語化して一貫させる |
| 落選選手 | 「推薦だ」と呼ばれる仲間と同じチームに入る | 偏見を持つ/ピッチ上の事実で評価する | ◎ プレーで判断する習慣を持つ |
| 保護者(落選側) | 「なぜ選ばれないのか」という疑問と苛立ち | SNSで発信する/子どもと次の一手を考える | ○ 子どもへの声かけを優先する |
| 「推薦」と呼ばれた選手 | 否定的な視線を感じながらプレーする | ラベルに合わせてしまう/プレーで上書きする | ◎ 自分のプレーに集中し続ける |
| 観戦者・SNSユーザー | 断片的な情報で選考の正誤を判断したくなる | 即座に批判する/現場の複雑さを想像してから発言する | △ 一度立ち止まる習慣が必要 |
「お前たちは推薦だ」と言われた選手たち
一つのユース大会が終わるとき、そこには必ず、表に出ない物語が残る。
イタリア・バジリカータ州のU17代表チームも、そんな物語を抱えながらトーナメントを戦い終えた一組だ。
監督を務めたディノ・テレスカは、大会後、自身のスタッフや連盟、そして20人の選手たちに深い感謝の言葉を送っている。
同時に、選手たちには「自分たちの戦い方に誇りを持ってほしい」と伝え、「推薦で選ばれた」といった心ない言葉を気にするなとメッセージを残している。
彼らを「推薦組」と決めつけた人たちは、スタンドにもベンチにもロッカールームにもいなかった。
画面越しの情報や、断片的な噂だけをもとに批判を投げつけた人も少なくなかったという。
それでも監督は、20人の選手に対して「胸を張れ」と言う。
そこには、勝敗とは別の物差しで、自分たちの歩みを測ろうとする姿勢が透けて見える。
- 選考基準を事前に文章化しておく — ピッチでの貢献・態度・成長の可能性など、選んだ理由を言語化しておくことで圧力を受けたときも自分の判断を客観的に見直せる
- 外れた選手とその保護者への伝え方を準備する — 「なぜ外れたのか」を一文で説明できる準備があるだけで、関係の険悪化を大幅に防ぐことができる
- 批判が自身の家族に及ぶリスクを事前に把握する — SNS上での立ち位置を意識的に管理することも現代の指導者に求められるリテラシーだ
キーボードの向こう側から飛んでくる言葉
このチームをめぐっては、選手選考に関してさまざまな悪口や疑いの言葉が飛び交っていたようだ。
監督自身も、個人攻撃に近い言葉や、時には身体的な危害をほのめかすメッセージまで受け取ったと明かしている。
興味深いのは、その中の一部の人たちが、裏では自分の子どもを代表に入れてほしいと頼んできた相手と同じだった、という指摘だ。
表では「推薦だ」「不公平だ」と叩き、裏では「うちの子をよろしく」と頼む。
この矛盾の中に、「選ぶ側」と「選ばれる側」に常につきまとう、見えにくい緊張がある。
そして、その矛盾の矢面に立つのが、選手ではなく、しばしば指導者だ。
- 「推薦だ」と言われたとき、そのラベルに自分を合わせない — ミスをしても「やっぱり推薦」と見られる恐怖に飲み込まれず、次のプレーで何を修正するかだけに集中する習慣を持つ
- 保護者はSNSに不満を書く前に子どもと話す — 落選した場合、「次に何ができるか」を子どもと一緒に考える時間のほうが批判コメントより子どもの成長に直結する
- 「もし自分が監督だったら」と一度考えてみる — 選考基準を自分なりに想定することで、批判より前に「自分に足りない要素は何か」という問いが生まれやすくなる
「自分の道を行く」と決めることの代償
テレスカ監督は、「どんな圧力があっても、自分の基準で選び続けた」と言い切っている。
その言葉は、外から見ればシンプルで爽やかに聞こえるかもしれない。
しかし現実には、その選択は決して軽いものではなかったはずだ。
自分の判断を貫くことは、同時に、多くの人の期待やお願いを断ち切ることでもある。
それは、クラブの指導者や保護者との関係にひびが入るリスクを抱え込むということでもある。
それでもなお、「この選手たちで行く」と決めた。
その結果が、勝ち上がれたかどうか以上に、「選ぶ」という行為の重さを物語っている。
「清い良心」と「汚れた良心」の間にあるグレー

監督は最後に、「自分の良心は穏やかだが、批判する側はそうではないだろう」と強い言葉を残している。
そこには、長い時間をかけて積もってきた苛立ちや、家族にまで及んだ中傷への怒りがにじむ。
ただ、その一方で、保護者側の心情にも目を向けてみると、別の景色が見えてくるかもしれない。
「自分の子どもに少しでも良い環境を」という気持ちは、多くの親にとって自然な感情だ。
その思いが焦りや不安と重なると、「どうにかして代表に入れてあげたい」という行動に変わっていく。
もちろん、選考に不正を求めることは許されない。
ただ、「間違った行動を起こすほどに子どもを思ってしまう」という人間らしさも、どこかにある。
だからこそ、指導者は「選ばれなかった子」や「その家族」の存在を背負いながらも、あるラインで決断し続けなければならないのだろう。
日本の育成年代にもある「見えない圧力」
この物語を、日本の育成年代に重ねてみるとどうだろうか。
都道府県トレセン、ナショナルトレセン、クラブユース代表、各種選抜チーム。
年齢が上がるごとに、「選ばれるかどうか」が進路や評価に直結していく。
その中で、指導者は常に選択を迫られている。
誰を選び、誰を外すのか。
ピッチでのプレーだけでなく、態度や成長の可能性、チームのバランス、相手との相性。
一人ひとりの選手の背景まですべて見通せるわけではない中で、「最善だと思う20人」を決めなければならない。
一方、保護者や周囲の指導者は、「なぜあの子が呼ばれて、うちの子は呼ばれないのか」と考えることがある。
その疑問が、「きっとコネだ」「どうせ推薦だ」といった形で言葉になってしまう時、関係性は一気に険しくなる。
この構図は、日本でも決して珍しい話ではないはずだ。
「もし自分が選ぶ側だったら」と考えてみる
このイタリアの出来事を、自分の立場に引き寄せてみるとどうだろうか。
選手なら、こう自分に問いかけてみることができる。
- もし自分が監督だったら、どんな基準で20人を選ぶだろうか
- 自分が外された立場だったとき、その選考基準を受け入れられるだろうか
- 「推薦だ」と言われているチームメイトと一緒にプレーするとしたら、自分はどんな態度をとるだろうか
保護者なら、こうかもしれない。
- もし自分の子どもが落選したとき、子どもに何と声をかけるだろうか
- 監督に直接問いただしたい気持ちが湧いたとき、その前にどんな情報を集めようとするだろうか
- SNSで不満を書く代わりに、子どもと一緒にどんな次の一歩を考えられるだろうか
指導者なら、こう問うこともできる。
- 自分の選考や起用について、説明できるだけの言葉と準備を持てているだろうか
- 外した選手やその家族に対して、どんな形で誠実さを示すことができるだろうか
- 圧力や噂話がある中で、自分の基準をどう守り、必要に応じてどう見直していくだろうか
「正しいか間違っているか」を判定する前に、「自分がその立場だったらどうするか」と一度立ち止まってみる。
そうすることで、選手も、保護者も、指導者も、それぞれの側にある葛藤や不安を少しずつ理解できるのかもしれない。
「子どもを守る」という言葉の難しさ
テレスカ監督は、批判の矛先が自分の子どもたちにまで向かったことを謝罪しながらも、「気にするな」と伝え続けてきたと語っている。
親として、子どもを守りたい気持ちと、指導者として、自分の判断を曲げたくない気持ち。
その間で揺れながらも、「自分の道を進む」と決めた。
これは、どの国の、どのカテゴリーの指導者にも起こりうることだ。
日本でも、学校やクラブで指導をする大人たちは、しばしば「自分の家族」と「自分のチーム」の間で、目に見えない綱引きをしている。
家族との時間を削ってチームのために動く日々。
それでも、選考や起用をめぐって批判を受けることがある現実。
選ぶ立場に立つ大人たちの迷いや疲れを想像できるかどうかは、育成年代の環境を考えるうえで、小さくないポイントかもしれない。
「推薦」と呼ばれたとき、どう振る舞うか
一方で、「推薦だ」と言われた選手たちは、どんな気持ちでピッチに立っていたのだろう。
本当に推薦かどうかは、外からは分からない。
しかし、ラベルを貼られた側は、プレーするたびにその視線を感じることがある。
パスをミスしたとき、「やっぱりあいつは推薦だ」とささやかれるかもしれない。
ゴールを決めても、「まあ、親が…」と陰口を叩かれるかもしれない。
そんな中で、自分のプレーに集中し続けることは簡単ではない。
だからこそ、監督の「胸を張れ」「他人の言葉に振り回されるな」というメッセージは、結果以上に大切な支えになったはずだ。
ラベルを貼られたとき、そのラベルに自分を合わせてしまうのか。
それとも、ピッチ上で少しずつ「自分は自分だ」と上書きしていくのか。
そこにもまた、一人ひとりの選手の選択がある。
「見る側」にできることは何か
現代は、試合も選考も、すぐにSNSの話題になる。
フォーメーション、交代、メンバーリスト。
あらゆる判断が、「なぜ」「どうして」と議論の的になる。
議論自体は、サッカー文化にとって健全な部分もある。
ただ、その言葉が、まだ成長途中の選手や、その家族や、指導者の心にどう届くのかを想像することは、見る側に求められるマナーの一つかもしれない。
「自分が同じ言葉を、直接その人の目を見て言えるかどうか」
たったそれだけの問いかけで、発信する言葉は少し変わる。
それは、「考えるサッカー」と同じように、「考える言葉」を持とうとする姿勢でもある。
答えを急がないための時間
バジリカータU17の一件を、「正しい指導者」と「間違った保護者」の物語として片付けることは簡単だ。
逆に、「閉じた世界で好きなように選んでいる指導者」と批判する形で切り取ることもできる。
けれど、どちらの極端な見方も、そこにある現場の複雑さを削り取ってしまう。
選手を選ぶ側、選ばれる側、見守る側。
それぞれに、それぞれの言い分と事情がある。
その全てを一度に理解することはできないからこそ、「なぜそう選んだのか」「なぜそう言ってしまったのか」と問い続ける余白を残しておくことが大切になる。
試合の結果表には載らない、そんな問いの積み重ねが、少しずつ育成の文化を形づくっていくのかもしれない。
最後に残るのは、自分の中の基準
大会が終わり、ユニフォームが洗濯され、SNSのタイムラインから話題が消えたあと。
選手の足元に残るのは、「あのとき自分はどう振る舞ったか」という記憶だ。
指導者の胸に残るのは、「あのとき自分はどう選んだか」という感触だ。
保護者の中に残るのは、「あのとき自分は子どもに何を見せたか」という問いかもしれない。
他人の評価は、時間とともに流れていく。
けれど、自分の中の基準は、簡単には消えない。
だからこそ、誰かを責める前に、自分ならどう考えるか、自分ならどう選ぶかを、一度ゆっくり確かめてみる。
サッカーのピッチの外側にある、そんな静かな時間が、ピッチの中での一歩を変えていくのだと思う。

